もっと知りたい交流史 王国末期の外交課題と自己決定権の諸相
ー歴代宝案文書とその周辺から観るー⑤
事例⑤ロバート・バウン号事件とその周辺
1850年代に入ると、一方で北米大陸の西部開拓や中南米のプランテーション農業が盛んになり、他方で黒人奴隷解放の気運が高まって労働力不足に見舞われたため、欧米の貿易商人は清国沿海地域の苦力(くーりー)〔肉体労働者〕を拉致同様の方法でかき集め、アメリカ大陸やカリブ海諸島へ送り出す「もう一つの奴隷貿易」、すなわち苦力貿易を始めました。そのため、苦力貿易船が琉球列島の近海を頻繁に航海するようになります。米国船籍のロバート・バウン号(以下、バウン号と略称)も苦力貿易船でした。
中国人苦力たちの反乱
咸豊2年3月(1852年4月)、バウン号〔ブレイソン船長、米国人船員21名〕は410人の清国人苦力を乗せて福建省の厦門を出発し、カリフォルニアへ向かいましたが、航海の途中、船長・船員らの虐待に耐えかねた苦力たちが反乱を起こし、バウン号を奪取しました。奪取されたバウン号は台湾方面へ引き返す途中、琉球の石垣島崎枝村の沖合で座礁したため、沈没を恐れた380人の苦力と船員1名は石垣島へ上陸しました。ところが、満潮時にバウン号が離礁すると、船中に残っていた船員たちは苦力20人余を捕縛してバウン号を奪い返し、上陸した苦力らを放置したまま厦門へ引き返してしまいました。この情報に接した清国駐在の英米外交官たちは、厦門に連れ戻された苦力を裁判にかけるとともに、石垣島に滞在中の苦力を海賊と見なして捕縛するために、武装兵を乗せた船艦を石垣島へ送り込んだため、国際的な関心を集めることになりました。バウン号事件として知られる東アジアの国際秩序を揺るがした国際的な大事件の発端です(西里喜行『バウン号の苦力反乱と琉球王国』、同『清末中琉日関係史の研究』第三章参照)。
バウン号事件については琉球側だけでなくアメリカ、清国、日本などにも膨大な関連文書が遺されていて、その全体像はほぼ明らかにされていますので、ここでは『歴代宝案』文書を中心に、琉球側がどのように対応したのかという視点から紹介したいと思います。
歴代宝案にみる琉球の対応
『歴代宝案』にはバウン号事件関連の文書が12点収録されていますが、特に注目されるのは第1に咸豊2年8月3日付けの琉球当局〔尚泰〕から福建当局〔布政使司〕への咨文〔公文書〕、第2に咸豊3年3月30日付けの福建当局から琉球当局への咨文、第3に咸豊3年8月15日付けの琉球当局から福建当局への咨文二通です。
第1の咨文の中で、琉球当局は八重山地方官〔現地役人〕からの報告に基づいて、バウン号が石垣島を離れた後、間もなくそれと入れ代わりに武装兵を乗せた英国船2隻が到着し、山中へ逃げ隠れた苦力を探し出して捕縛・射殺したこと、その際、清国人通訳の羅元祐〔福建省海澄県人〕が苦力たちは「姦邪の匪徒」〔邪悪な盗賊〕だから必ず再来して捕縛すると言明したこと、続いて間もなく英船一隻〔実際には米国艦船サラトガ号〕が再度の苦力捕縛作戦のため到着し、山中に逃亡中の苦力の内、57名を捕縛して引き返したことを指摘した後、苦力の取り扱いについて琉球の立場を弁明し、福建当局へ次のように要請しています。
「調べて見ましたところ、苦力たちは確かに清国の良民ですが、郷里を遠く離れて、石垣島に長期間滞留していますので、誠に気の毒です。本来ならば、できるだけ早く福建省の出身地へ送り返すべきですが、英米人どもは船舶を石垣島へ派遣して捕縛・射殺を繰り返し、山中に逃げ隠れている者はすべて再来して必ず捕縛すると言明しています。もし琉球側が軽率に苦力を福建省へ送り返した場合、英米人どもが再来した際に命令に反したとして怒りを発し、わが琉球国に危害を及ぼす恐れがあります。そこで現在、苦力には衣食を給与し、注意深く面倒を見て、護送の計画は暫く中止することにしています。どうか適切に調査して頂いて、苦力を郷里の福建省へ護送できるように取りはからって下さいますようお願いします」(『歴代宝案』訳注本第15冊「2-192-25」、165頁参照)。
苦力たちの送還-石垣から中国へ
要するに、琉球当局は苦力を海賊とは見なさず、「天朝の民」〔清国の良民〕として丁重に扱い日々の生活を世話しながらも、他方で海賊と見なす米英側の暴力的圧力を恐れて自国の安全を優先し、苦力護送の計画を一時中断して、米英の当事者とも交渉の上で護送できる環境を調えて欲しい、と福建当局へ要請したわけです。
折しも、英国艦船の那覇来航、艦長の外務大臣書簡提出と伯徳令保護の要求、首里城強行入城などの緊迫した状況に直面していた琉球当局は、清国へ外交的援助を要請する必要にせまられ、その上また石垣島滞留の苦力を福建へ護送する問題が発生しましたので、伯徳令の退去の件と苦力の護送の件について清国の外交的支援を要請するため、請諭使節を進貢使節と同時に派遣することにしました。そこで、前掲の第①の咨文は馬克承〔小禄親方良忠〕らの請諭使節団に託して福建当局へ提出されたわけです(『歴代宝案』訳注本第14冊「2-192-08」、128頁参照)。
それから約7か月後、咸豊3年3月の福建当局から琉球当局あての第②の咨文は、石垣島滞留の苦力を福建へ護送する件について、清国内の関係行政機関および清国駐在の英米外交官などとの協議の経緯を詳細に報告しています。協議の結果、最終的には厦門駐在の米国領事ブラッドレー〔漢字名は裨烈利〕が「現在琉球に滞留中の苦力は琉球国の船に乗せて帰国させても、清国から船を派遣して連れ帰っても、どちらでも構わない」と回答し、英米側も護送に異議を唱えないことが判明しましたので、福建当局は苦力を琉球船で護送するようにと臨時の至急便で通達したわけです(『歴代宝案』訳注本第14冊「2-193-10」、204頁参照)。
石垣に残る唐人墓
福建当局からの返書が届くと、琉球当局は早速二隻の護送船を用意し、護送使者の鄭嘉政〔外間里之子親雲上〕と王家錦〔大田親雲上〕に第3の咨文一通ずつを託して石垣島へ派遣しました(『歴代宝案』訳注本第14冊「2-194-07」、「2-194-08」、220~235頁)。咸豊3年9月29日(1853年11月20日)、二隻の護送船に分乗した175名の苦力たちは、1年半ぶりに石垣島を離れ、郷里の福建省へ向けて出発しましたが、航海の途中、清国沿海で海賊船に襲撃され、50名の苦力が自力で逃走したため、清国へ引き渡されたのは125人だけとなりました(西里喜行『バウン号の苦力反乱と琉球王国』参照)。
なお、宝案文書(2-195-14)には、石垣島に上陸した380名の苦力の内、英米側の捕縛作戦中に捕縛された者80名、銃殺・自殺者6名を含む死者29名、疫病流行中に病没した者92名、自殺者4名、護送船で帰還した者175名と記録されていますので、バウン号事件の渦中、石垣島で非業の死を遂げた者は96名ということになります(『歴代宝案』訳注本第14冊、265頁)。その内、三人の苦力の墓碑は八重山博物館に所蔵されています(沖縄県文化課編『金石文歴史資料調査報告書Ⅴ』、宮田俊彦『琉球・清国交易史』参照)が、バンナ岳などに散在していた苦力の墓の遺骨は、現在一箇所に集められ、富崎の唐人墓に葬られています。
(西里喜行)2023年3月入稿