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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-195-14 福建布政使司より琉球国中山王世子尚泰あて、中国の難民を福州へ護送した都通事鄭嘉政等の処遇について通知する旨の咨文(咸豊四《一八五四》、五、十五)
福建等処承宣布政使司、難民を解送する事の為にす。
貴国王世子の咨を准けたるに(次の如く)開せり。
司の咨を接准したるに、迅やかに八重山島に漂収するの内地の民人蔡祥慶等二百七十一名を将て、向例に遵照して官を撥し、護送して閩に来たりて審辦せしむ、等の因あり。
遵いて即ちに員役を派撥し、船に駕して前みて八重山島に往き、該難人等を将て向例に遵照し辦理して護送せしむ。
惟だ是れ難人等の漂収して島に到るは、原共三百八十名、又、𠸄夷一名なり。内、経に報じたるの先後して拿え回りたる難人八十名、接回せる𠸄夷一名、鎗斃・縊死するもの六名、病故するもの二十三名は、倶に経に棺を給し収埋するを除き、又、大疫流行して先後して身故せる者、顔退・劉坡・蔡松・陳木・劉悪・石黨・程狡・曾興・許樹・頼沢・黄義・盧発・楊東・蔡採・黄成・林木・呂白・林忠・周守・郭有・林添・蔡大・陳河・胡朝・黄陀・林丁・李湿・柯団・邱樹・柯器・洪進・伝春・許好・董耳・処栄・李坊・陳進・黄自・林周・王海・王所・曾欽・王鏡・呉集・呉杞・鄭年・黄車・張明・頼生・彭能・林本・黄喜・呉路・呉河・葉遠・黄宙・陳帝・陳翁・高六・梁乞・陳両宜・巌元・蘓財・孫味・張江・洪老・林風・王発・陳哖・顔闘・荘勇・何福・呉天・長生・陳合・荘成・王成・李鑾・張束・安約・陳狡・蔡星・李二・張敬・李园・鄭終・王才・黄安・呉怍・黄闖・許興・蔡益等の九十二名、先後して縊死する者、鄭徳成・黄摻・盧忠・黄有等の四名は倶に経に棺を給して収埋するを除くの外、現に在るの林玉等の一百七十五名は、人数衆多なれば、必ず須らく海船二隻を派撥して分匀して配載し、以て擁擠するを免るべし。
茲に特に都通事の鄭嘉政等を遣わし、梢役を率領して該難人林玉等一百五名を将て海船一隻に駕坐し、前みて閩省に詣らしむ。
統べて例に照らして題明せられんことを祈る。希わくは来船の員伴を将て館駅に安頓せしめ、事務の完竣するを俟ちて、来夏の早汛に原船に坐駕して遣発し返棹するを准予されんことを。則ち航海の末員は驚濤の虞を免るるを得るに庶からん。
此の次、貴司曁び両院、仰いで皇上の藩服を懐柔するを体し、向例に照らして船を撥して送り回すを准さるるを渥く荷くす。
又、俯して使臣の請う所の如く、閩に就きて船を購い、咨を齎らして先に回らしめ、時に乗じて護送するを得さしめ、以て惶恐の憂を免るるを蒙り、実に深く感戴せり。此に附して咨もて謝し、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に咨す。請煩わくは査照して代わりて両院に転詳するを為して、以て謝悃を伸べられんことを。並びに該難人等を将て査収して施行せられよ、等の因あり。司に到る。此れを准けたり。
又、琉球国の護送せる内地の難民閩に来たれば、安挿するの日期は、例に照らして奏咨するを詳請する事の為にす。
咸豊三年十二月二十四日、前兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国中山王世子尚泰、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣わし、官伴・水梢共に一百三十四員名を帯領し、海船二隻に駕坐せしめ、内地の難民蔡祥慶の案内の難民林玉・陳昌等一百二十五名を護送して閩に来たるの一案あり。縁みに難民蔡祥慶等は、倶に福建の泉漳二府に属するの晋江・南安・恵安・同安・安渓・龍渓等の県の民人に係る。𠸄咭唎国に往きて生理せんと欲し、𠸄国船隻に搭駕し、咸豊二年二月初一日に於て厦門に在りて開船し、出口して洋に在りて風に遭い、二月十九日に於て琉球の八重山島崎枝の洋面に漂収す。船は暗礁に擱れば、𠸄夷、即ちに難民蔡祥慶等三百八十名、𠸄夷一名を将て、捨て置きて上岸せしむ。次日潮漲り船浮きたれば、該夷の原船は二十三日に於て風に乗じて開駕し放洋す。所有の島に在るの難民は、経に該処の夷官、館を設けて安頓し収養して撫恤せり。
旋いで三月十六、十八等の日に於て、𠸄船二隻先後して駛して至る有り。経に該処の夷官、詢いたるところ、𠸄咭唎通事羅元祐の声称に拠るに、該難民蔡祥慶等は前月、𠸄船に搭駕して前みて金山に往かんとするも、洋に在りて船主・水梢六人を兇殺するに因り、是を以て厦門の𠸄官、船を遣わし島に到らしめ、査拿せんとす、とあり。械を持ちて岸に登る。擒獲せる難民五人、銃斃せるもの三人、畏懼服従する者十八人、自ら縊死する者三人、其の余は躱避して山中に走り匿る。𠸄夷、即ちに現に拿えたる難民二十三名、並びに携取せる島に在るの𠸄夷一名を将て両船に分載し、三月二十三日に於て連䑸して開去す。
嗣いで四月初四日に於て復た𠸄船駛して到り、難民五十七名を追捕し拿獲して船に載せて去く有り。並びに此の後、尚お再び来たりて拿尽せんとす、と云う。所有の山中に竄躱するものは、当に各々旧に仍って招回して収養せり。内、二十三名は先後して病故する有り。倶に経に棺を給して埋葬す。尚お二百七十一名を存す。該国王世子、以うに、𠸄夷は兇暴なること非常にして、若し遽かに護送するを行えば、𠸄船復た来たりて追捕するも踪無ければ、滋々事端を生ずることを誠に恐る。当に上年に於て貢船閩に来たれば、移して査辦せんことを請う。
司の咨を接准したるに、応に向例に照らして官を撥し、護送して閩に来たらしむべし、とありたれば、特に夷官を遣わして前みて該島に往き、査明せしむるに、首名の難民蔡祥慶は先に経に拿え回る。
又、顔退等九十二名、鄭徳成等四名は、先後して病故、縊死するを除くの外、僅かに存するの林玉等一百七十五名は、経に該国王世子、特に咨文・護照を備え、都通事の鄭嘉政を派撥し、官伴・水梢六十七員名を率領し、頭号海船一隻に駕坐せしめ、難民林玉等一百五名を匀配す。
又、都通事の王家錦を派撥し、官伴・水梢六十七員名を率領し、二号海船一隻に駕坐せしめ、難民陳昌等七十名を匀配し、護送して閩に来たらしめんとす。
本年九月十九日、国に在りて開船し、二十八日八重山島に到る。林玉等一百五名の内、陳意一名は続いて経に病故するを除き、実在するもの一百四名、陳昌等七十名の内、柯渓・黄道二名は先後して病故するを除き、実在するもの六十八名を将て分別して匀配し、九月二十九日に於て該島に在りて放洋す。十月初五、初六等の日に於て、駕して閩洋の定海の洋面に至りて湾泊す。是の日、両船、洋に在りて賊の搶劫を被り、難民の脱逃するもの四十七名にして、実存するもの一百二十五名あり。初八日、経に営船に接護せられ、初十日口に進み、十四日駕して番船浦に抵りて停泊す。経に署福防同知の婁浩、福協副将の趙殿元・海関委員の卓凌阿と会同し、分別に査験す。十五日に於て館駅に安挿す。該難民等を将て県に交して確査して審辦せしめ、該庁は先に護送の供情を訳訊するを行い、冊を造りて具詳し前来せり。
本司、覆査したるに、歴届、琉球国より使を遣わして内地の難民を護送して閩に到れば、均しく安挿の日より始めと為し、官一員毎に日に蔬薪銀五分一厘・米三升を給し、跟伴・水梢には毎名に日に塩菜銀一分・米一升を給し、回国の日には另に行糧一個月を給す。又、都通事一員には緞二疋・紗二疋、司養贍大使一員には緞一疋・紗一疋を加賞し、跟伴・水梢には毎名に青藍布二疋を賞給す。又、另に料を購いて修船するの銀両を賞給するを行う。統べて存公銀内より動支し、事竣れば冊を造りて報銷して案に在り。
今届、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦を遣わし、各々海船一隻を駕し、内地の難民を護送して閩に来たらしむれば、応に各官伴・水梢に口糧・行糧を給すべし。并びに緞紗・布疋を加賞し、銀両に折価して、修理の船価等の項と同に、均しく応に該同知の請う所の如く例に照らして給領せしめ、統べて該年の存公款内より動給し、事竣れば冊を造りて報銷すべし。其の船内に帯来せる土産の貨物は、応に具詳して到るの日を俟ちて、例に照らして飭して館を開きて貿易せしめ、完竣したれば遣発して回国せしむべし。
該難民林玉等一百二十五名は、閩県に飭して確切の訊供もて省会に具詳し、総局・司道に報銷して会議して審辦せしめ、并びに護送の両船の劫を被るの情形を将て、接貢船隻の劫を被るの案内の厳査訳訊せる估贓に彙同して妥議せしめ、另に詳辦するを行うを除くの外、合に護送して安挿するの日期を将て、送り到れる各冊と同に、文を具えて転送すべし。伏して察核して会奏するを候つ、等の由あり。
批を奉けたるに、此の案は已に撫部院と会同して恭摺して具奏せり。並びに閩侯二県の会詳せるところの、難民林玉等の供情を査訊し、議して分起して原籍に逓回し分別に究釈して辦理せしめんことを請うのこと、曁び続いて粤省の咨覆を准けたるの各縁由を将て、摺内に於て代わりて添叙して声明するを為す。及び送り到れる各冊を将て礼/戸部に咨送して察照せしめたり。仰むらくは即ちに福臬司と会同して、移行して遵照せしめられよ。拠として送りたる各冊十四本に至りては、僅かに分咨するに敷るのみにして、案に備うるに憑る無ければ、該司、即ちに飭承して一分を照送して査に備えしめよ。仍お撫部院の批示を候て、并びに省会に移行して総局の夷務委員に報銷し査照せしめよ、繳す、冊・抄白の執照は存送す、とあり。
又、前代辦巡撫部院有(鳳)の批を奉けたるに、仰むらくは督部堂衙門の察核して具奏するを候たれよ、並びに批示を候て、繳す、冊は存す、各等の因あり。
又、恩を体例に籲め、迅やかに先に示を給するを行うを賜り、以て館を開きて貿易するに便ならしめん事の為にす。
咸豊三年十一月二十四日、前兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣わし、内地の難民林玉等を護送せしめんとして夷船二隻閩に来たらしむれば、当即に転飭して館駅に安挿して案に在り。
茲に該夷船の帯びる所の土産の貨物は、例として応に館を開きて夷官の兌買して交易するを聴すべし。惟だ査するに、史書・黒黄紫皁大花西番蓮緞疋・焰硝・牛角・兵器・桐油・鉄鍋・黄紅銅器は収買するを許さず。其の糸觔の一項は、歳買の定額有ると雖も、但だ此の次は既に未だ該夷官、置買するを呈請するに拠らざれば、応に議を庸いる毋かるべし。其の余の布疋・氈条・薬材等の物にして例禁に在らざる者は悉く買帯するを聴す。
茲に福防同知の詳に拠るに「都通事の鄭嘉政等、迅やかに先に示を給するを行うを賜り、館を開きて貿易するを呈請するに拠り、相応に俯して請う所の如くし、其の館を開きて貿易するを准し、以て体恤を昭らかにすべし」とあり。
仍って憲示を遵奉し、看管の員役に厳飭し、留心して稽察せしめ、開館の日より始めと為し、兌換せる出入の貨物を験明し、日に按じて摺報せしめ、把駅の員弁・兵役の陋規を需索し、及び附近の土棍・奸民の館に入りて勾通局騙し、禁物を串帯し、弊を滋すを許さず。仍お開駕の時を俟ちて、買う所の各項の貨物を将て員に委し盤験して上船せしめ、以て透漏を杜ざさしめんとす。例に照らして示を給し柔遠駅に実貼して暁諭するを除くの外、理として合に詳報すべし。伏して察核して批示せらるるを候つ、等の由あり。
批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仰むらくは即ちに示を給し暁諭せられよ、仍お撫部院の批示を候て、繳す、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仍お督部堂の批示を候て、繳す、各等の因あり。
又、抄摺して行知する事の為にす。
咸豊三年十二月二十八日、兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の憲牌を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、本爵兼署部堂、咸豊三年十二月二十日に於て、福建撫部院王(懿徳)と会同して恭摺して具奏せるところの、琉球国の頭・二両号夷船二隻、内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓りて分別に辦理せしむるの縁由の一摺あり。硃批を奉到するを俟ちて另に録して飭知するを除くの外、合に先に抄摺して行知すべし。牌を備えて司に到れば、即便に臬司と会同して、抄摺内の事理を査照して分別に移行し、遵照して辦理せしめよ。仍お飭して該難民林玉等を将て分起して原籍の各県に逓回し、近きに就きて査伝して質訊し明確ならしめ、分別に究釈して詳辦せしめよ。一面には難民を護送するの夷船、洋に在りて劫を被るを将て、接貢夷船の劫を被るの案内と彙同して、一並に前行の事理を確遵し、移飭して確査せしめ、妥議して通詳し、参辦して追賠するを聴候せしめよ。均しく違延する勿かれ。切速せよ。切速せよ。
計うるに粘けたる抄摺あり。内に(次の如く)開す。
奏すらくは、琉球国の夷船、内地の難民を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓りて分別に辦理せしむるの縁由もて恭摺して具奏し、仰いで聖鑑を祈る事の為にす。
案査するに、咸豊二年十月の間に、前に福建藩司の詳報に拠るに、琉球国王世子尚泰、馬克承等を遣使して咨文を齎到せしめたること、閩省の内地の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国夷船の前往して六十余人を拿え回さるること、尚お二百余人は該国に寄寓する有ることを以てす。当に分別して査辦せしめつつあるの縁由を将て、経に前督臣季(芝昌)、撫臣王(懿徳)と会同し、附片もて具奏し、硃批を奉到したるに、知道せり、とあり。此れを欽む。均しく経に恭録して咨行し欽遵して辦理せしむ。
嗣いで前興泉永道趙霖の稟覆に拠るに「𠸄咭唎国の厦門領事巴遘士に照会し査覆せしめたるに、該夷、前次の拿え回さるるの数十人は先に経に粤省に帯往し、地方官に交して審辦せしむるを除き、余は倶に厦門に載せ回り、釈放して完案せり。其の現に琉球に在るの人、或いは琉球国配船して載せ回るも、或いは華国船を遣わし往載するも倶に可なり」等の情あり。
随いで経に福建藩司に飭拠し、福州府海防同知に詳拠せしめ、琉球の使臣馬克承の稟を訳拠せしめたるに称すらく「八重山島は琉球国の王府と離隔し地方遙遠なれば、船隻往来するに風汛は只だ二、三両月の内に在りて方めて駕して該島に抵るべし。貢船の返棹は向に夏至に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて該島に撥往するを行わば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送して閩に来たるに及ばざらん。咨を給して、並びに船隻を購い備え、以て水梢を派撥し、先に咨を齎し趕ぎ回るを行うに便ならしめ、該民人等を将て船を配して、以て秋の間に接貢船隻に随同し、護送して閩に来たるに便ならしむるを准されんことを懇請す」とあり。庁より司に詳して議照せしめ、俯して請う所の如く、詳もて咨を給し、船を購いて遣発して回国せしむべし。
後に迨びて、続いて欽差大臣両広督臣葉(名琛)の咨覆を准けたるに(以下の如し)。
咪酋伯駕の呈称に拠るに「該国の貨船に搭船せるの中国民人は、船主・火長・水手を殺死し、船中の貨物を掠め去り、岸に上りて逃走す。只だ剰りの二十余の中国人は尚お船内に在り、当時外国の兵船趕ぎて該洲に往きて、上岸せるの人、数十名を捉獲して解回して送交して訊辦せしむ」とあり。
続いて該酋の節次の来文に拠るに「並びに陳得利等十七名を解りて粤に到らしめ、飭して広州府に発りて研訊せしむ」とあり。各供に拠るに称すらく「均しく客頭に騙され夷船に下されたるの傭工に係る。押されて艙底内に在るもの、共に四百七十五人有り。開船の後に迨んで、該夷は艙内の各人に売身の契約一紙を給し、如し接収せざれば即ちに鞭責するを行う。駛して琉球の洋面に到り、該夷、忽ち衆人を把て陸続として艙面に提き到り、逐一髪辮を割去す。内に病に臥して行く能わざる者十余人有り。当時打死して丟棄して海に落とせり。衆人看見して驚慌し、以て喧閙し起来するを致す。該夷の船主は害怕して鳧水して逃走す。衆人、随いで喚きたれば、水手人等、船を将て駛して山辺に到り、山に上りて躱匿せり。琉球国人の査問を被りたれば、船漏れ修整せんとす、と捏称す。琉球国人、毎日飯食を給与し、十余日を隔てるに迨んで該夷の兵船、駛して到りて陳得利等七十余名を拿獲し、夷船に押し下し香港に駛回す。後に又、陳得利等十七人を将て載せて黄埔に到りて、官に送りて審辦せしむ。陳得利等、並えて夷人の身価を受くるを得て夷人を殺害し、及び夷船の銀物を搶取するの情事無し」との稟報あり。即ちに経に稟に拠りて、該酋の節次の来文を将て、逐一駁斥す。
復た該酋、証見の謝丁茂等四名を呈送するに拠り、復た広州府に飭して研訊せしむ。稟に拠るに「僉な供すらく、陳得利は当時船に在りて手に旗刀を執り、衆人を弾圧して喧閙するを許さざるも、並えて未だ人を傷つけず。内に海定即ち蘇有なるもの有り。夷人一名を傷つけ、跌を失い海に落とすを致す、と。所有の羅幅安等十四名は、均しく訊いたるも匪と為りて夷人を傷斃するの情事無し。陳得利・蘇有二名は再び研訊し、分別して辦理するを容す。業経に批飭して証見の謝丁茂等四名を将て夷目に発交して収領せしむ。其の解り来たる人犯十七名(の内)、陳燥は病故し、陳得利・蘇有二名は粤に留めて復訊するを除き、羅幅安等十四名は即ちに飭して原籍に逓回せしむ。該閩人蔡祥慶等に至りては、琉球に羈ぎ留められたれば、転飭して琉球国に移咨し、船を撥して護送して回籍せしめ、業に安んじて以て体恤を示さんことを咨もて請う」等の因あり。転行して遵照せしめ各々案に在り。
茲に福建藩司慶(端)の詳に拠るに(以下の如し)。
署福州府海防同知婁浩の詳に拠るに称すらく「閩安協副将の移報を准けたるに、洋に在りて接護せる琉球国の夷船二隻は、内地の民人蔡祥慶等の案内の難民林玉・陳昌等を護送し、閩に来たらしむ。本年十月初八日の申の刻に於て、接護して虎に進ましむ、等の由あり。
該夷船二隻は、即ちに是の月の十四日に於て駛して福州省港に抵りて番船浦地方に湾泊す。経に該署同知、営員・海関委員と会同して査験したるに、実に属す。該国の官伴・水梢人等共に一百三十四員名を将て、即ちに十月十五日に於て館駅に安挿せしむ。並びに両船の送り到れる難民林玉等一百二十五名を将て、亦た是の日に於て例に照らして閩県の衙門に発交し、分別に安頓して訊辦せしむ。合に訳訊せる供情を将て、冊を造りて詳送すべし」とあり。並びに琉球国王世子の咨を准けたるに、前因に同じ、とあり。司に到る。
査するに、此の次、琉球国王世子尚泰、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣使し、官伴・水梢共に一百三十四員名を帯領せしめ、海船二隻に駕坐して内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等一百二十五名を護送して閩に来たらしむるの一案あり。縁みに難民蔡祥慶等は、倶に福建の泉漳二府に属するの晋江・南安・恵安・同安・安渓・龍渓等の県の民人に係り、𠸄国船隻に搭駕し、金山地方に往きて生理せんと欲し、咸豊二年二月初一日に於て厦門に在りて開船し、出口して洋に在りて風に遭い、二月十九日、琉球国属の八重山島崎枝の洋面に漂収す。船は暗礁に擱れば、該夷、即ちに難民蔡祥慶等三百八十名、𠸄夷一名を将て捨て置きて上岸せしむ。次日潮漲り船浮かびたれば、該夷の原船は二十三日に於て風に乗じて開駕して放洋す。所有の島に在るの難民は、経に該処の琉球国の夷官、館を設けて安頓せしめ、収養して撫恤せり。
旋いで三月十六、十八等の日に於て𠸄船二隻先後して駛して至る有り。経に該処の夷官、詢いたるところ、𠸄国通事羅元祐の声称に拠るに、該難民蔡祥慶等は前月、𠸄船に搭駕して前みて金山に往かんとするも、洋に在りて船主・水梢六人を兇殺するに因り、是を以て厦門の𠸄官、船を遣わして島に到らしめ、査拿せんとす、とあり。械を持ちて岸に登る。擒獲せる難民五人、銃斃せるもの三人、畏懼服従する者十八人、自ら身を縊りて死する者三人あり。其の余は躱避して走りて山中に匿る。𠸄夷は即ちに現に拿えたる難民二十三名並びに携取せる島に在るの𠸄夷一名を将て両船に分載し、三月二十三日に於て連䑸して開去す。
四月初四日、復た𠸄国の夷船、駛して到りて、難民五十七名を追捕し拿獲して船に載せて去く有り。並びに、此の後、尚お再び来たりて拿尽せんとす、と云う。所有の山中に竄躱するものは、当に各々旧に仍り招回して収養せり。内、二十三名は先後して病故する有り。倶に経に棺を給して埋葬す。尚お二百七十一名は存す。経に該国王世子、以うに、𠸄夷は兇暴なること非常にして、若し遽かに護送するを行えば、𠸄船復た来たりて追捕するも踪無ければ、滋々事端を生ずることを誠に恐る。当に上年に於て貢船閩に来たれば、移して査辦せんことを請う。
司の咨を接准したるに、応に向例に照らして官を撥し、護送して閩に来たらしむべし、とありたれば、特に夷官を遣わして前みて該島に往き、査明せしむるに、首名の難民蔡祥慶は先に経に拿え回る。
又、顔退等九十二名、鄭徳成等四名は先後して病故し、縊斃するを除くの外、僅かに存する林玉等一百七十五名あり。経に該国王世子、特に咨文・護照を備え、都通事の鄭嘉政を派撥して、官伴・水梢六十七員名を率領し、頭号海船一隻に駕坐せしめ、難民林玉等一百五名を匀配す。
又、都通事の王家錦を派撥して官伴・水梢六十七員名を率領し、二号海船一隻に駕坐せしめ、難民陳昌等七十名を匀配し、護送して閩に来たらしめんとす。
咸豊三年九月十九日、琉球国に在りて開船し、二十八日八重山島に到る。林玉等一百五名の内、陳意一名は続いて経に病故せるを除き、実在せるもの一百四名、陳昌等七十名の内、柯渓・黄道二名は先後して病故するを除き、実在するもの六十八名あるを将て、分別して匀配し、九月二十九日に於て該島に在りて放洋す。十月初五、初六等の日に駕して福建定海の洋面に至りて湾泊す。是の日、両船は洋に在りて賊の搶劫を被り、難民は脱逃するもの四十七名にして実存するもの一百二十五名あり。初八日、経に閩安協の営船に接護せられ、初十日口に進み、十四日駕して福州省港の番船浦地方に抵りて湾泊す。経に署福州府海防同知の婁浩、福州城守営副将の趙殿元・閩海関税口委員の卓凌阿と会同し、分別に査験す。即ちに十五日に於て館駅に安挿す。該難民等を将て閩県に交して査収して安頓せしめ、確査して訊辦せしめ、庁より先に護送するの供情を訳訊するを行い、冊を造りて具詳し、司に到る。
覆査したるに、歴届、琉球国より使を遣わして内地の難民を護送して閩に到れば、均しく安挿の日より始めと為し、官一員毎に日に蔬薪銀五分一厘・米三升を給し、跟伴・水梢には毎名に日に塩菜銀一分・米一升を給し、回国の日には另に行糧一個月を給す。又、都通事一員に、緞二疋・紗二疋、司養贍大使一員に、緞一疋・紗一疋を加賞し、跟伴・水梢に、毎名に青藍布二疋を賞給す。又、另に料を購いて修船するの銀両を賞給するを行う。統べて存公銀内より動支し、事竣れば冊を造りて報銷して案に在り。
今届、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦を遣わし、各々海船一隻に駕して、内地の難民を護送して閩に来たらしむれば、応に各官伴・水梢に口糧・行糧を給すべし。並びに緞紗・布疋を加賞し、銀両に折価して修理の船価等の項と同に、均しく応に福州府海防同知の請う所の如く、例に照らして給領せしめ、統べて該年の存公款内より動給し、事竣れば冊を造りて報銷すべし。其の船内に帯来せる土産の貨物は、応に具詳の到るの日を俟ちて、例に照らして飭して館を開きて貿易せしめ、完竣したれば遣発して回国せしむべし。
並びに閩県・侯官二県の会詳に拠るに「琉球国の夷官の送り到れる難民林玉等一百二十五名は、福州府省城の員に委して護送せしむるも、洋に在りて脱逃せる難民李寄・陳昌・林什三名と同に、合共して一百二十八名を将て、詳らかに研訊を加えたるに、均しく各々僉な供するに、実に𠸄咭唎国の夷船に搭載し、金山地方に往きて生理せんと欲し、洋に在りて風に遭い、琉球国属の八重山島に漂到し、岸に上りて逃走す。経に該処の夷官、収養して撫恤し、護送して載運して閩に回らしめ、均しく夷人を傷斃するの情事無きに係る」とあり。
核べたるところ、粤省の咨覆と相い符すれば、信ずべきに属するに似たり。惟だ是れ該難民等、平日、家に在りて是れ良なるや是れ匪なるやは、均しく経に原籍の各県に移飭して、族房、保隣の人等に査伝して、供結を訊取し、移覆せしめて核辦せんとするも、現在尚お未だ覆到せず。第だ人数衆多なれば、情、殊に憫むべし。応に該難民人等を将て分起して原籍の各県に逓回し、近きに就きて査伝し、質訊して明確ならしめ、分別に究釈して辦理せんことを請うべし、とありて福建の藩・臬両司より会核して転詳して前来す。
覆核するに、異なる無し。送り到れる各冊を将て咨もて礼部に送り、並びに戸部に咨して査照せしめ、一面には飭して該難民等を将て逓回して訊辦せしめ、仍お護送せる夷船、洋に在りて劫を被るの情形を将て、接貢船隻の劫を被るの案内と彙同して、一并に厳査して訳訊し、估贓して妥議し、另に参辦して追賠するを行うを除くの外、合に琉球国の夷船、難民を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓らしむるの縁由を将て、謹んで福建巡撫臣王(懿徳)と会同して合詞し、恭摺して具奏すべし。伏して皇上の聖鑑を乞う。謹んで奏す、等の因あり。
又、硃批を恭録して行知する事の為にす。
咸豊四年三月初七日、総督部堂王(懿徳)の憲箚を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、前兼署督部堂有(鳳)、咸豊三年十二月二十日に於て会摺し具奏せるところの、琉球国の頭・二両号夷船二隻、内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等を護送して閩に到れば、安挿して訊明し籍に逓らしめ、分別に辦理せしむるの縁由の一摺あり。今、本年三月初四日に於て硃批を奉到したるに、知道せり、とあり。此れを欽む。摺稿は先に経に抄発するを除くの外、合に就ちに恭録して行知すべし。箚を備えて司に到れば、即便に臬司と会同し、移行して欽遵せしめよ。遅るる毋かれ、等の因あり。
又、恩を体例に籲む等の事の為にす。
咸豊四年五月十四日、総督部堂王(懿徳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国の都通事鄭嘉政等、頭号海船一隻に坐駕し、官伴・水梢共に六十七員名を率領し、蔡祥慶等の案内の難民林玉等一百五名を護送して閩に到る。帯来せる土産の銀両・物件は、当に経に詳もて憲台の批を奉けたるに、館を開きて貿易するを准さるれば、随即に福防同知に檄飭して厳しく趕緊に貿易するを催し、完竣したれば験明し、冊を造りて結を取り、詳報せしめ去後れり。
茲に福防同知の詳報に拠るに「護送の頭号夷船内の帯来せる土産の貨物・銀両等の項は、咸豊三年十二月初二日に於て館を開きて貿易せしめ、四年五月初八日に至りて完竣したれば、即ちに本月十五日に於て駅を離れて舟に登る。所有の頭号船上の原報の官伴・水梢は共に六十七員名なり。内、水梢の宮平良一名は病故するを除くの外、又、江蘇崇明県より送り到れる漂風の難夷西銘等の案内の難夷三名を匀搭す。通船統共するに回国するものは六十九員名なり。経に該庁、館に詣りて勘験し、花名・清冊を造具し、先に咨を給するを行うを詳請す」とあり。并びに貨物の冊・結は委員の布都事鄭紹昌、夷人を督同し、盤運して舟に入れ、完竣するを俟ちて数冊・甘結を取具し、另に結を加うるを行い申もて送る、等の由を声明して前来せり。
本司査するに、琉球国の都通事鄭嘉政、内地の難民を護送して頭号海船一隻に坐駕し、現に五月十五日に於て駅を離れて舟に登ると具報するに拠り、相応に歴届の夷船の回国の例を査照し、先に詳明して咨を給するを行い、該庁に飭して盤竣の貨物の冊・結を備造して司に送らしめ、另文もて呈送せしめて案に備うるを除くの外、合に就ちに情に拠りて詳請すべし。伏して察核して迅やかに批示を賜るを候ち、以て咨を給して、備に該国王世子に移して査照せしむるに便ならしめ、汛に乗じて遣発して回国せしめんとす。該庁に行じて閩安協と会同して験明せしめ、員弁を派撥し護送して出洋せしめ、長行回国の日期を取具し、另に詳もて題を請う、等の由あり。
批を奉けたるに、詳の如く咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしめよ、汛に乗じて遣発して回国せしめよ、福防庁に行じて閩安協と会同して験明せしめよ、員弁を派撥して小心に護送して出洋せしめよ、長行回国の日期を取具し、通詳して題を請え、仍お撫部院衙門の批示を候て、繳す、冊は存す、とあり。
又、兼署巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳の如く咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしめよ、汛に乗じて遣発して回国せしめよ、仍お福防庁に飭して閩安協と会同して験明せしめよ、員弁を派撥し護送して出洋せしめよ、長行回国の日期を取具し、詳題せよ、並びに督部堂衙門の批示を候て、繳す、冊は存す、各等の因あり。此れを奉けたり。
茲に遣発して回国せしむるの期に当たれば、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に貴国王世子に咨す。煩為わくは査照して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
計うるに移送せる冊一本あり。
右、琉球国中山王世子尚(泰)に咨す
咸豊四年(一八五四)五月十五日
注*本文書の咨覆は〔一九六―二七〕である。〔一九五―一五〕とほぼ同文である。
(1)貴国王世子の咨 〔一九四―〇七〕の後段。
(2)匀配 「匀」はあまねく、ひとしいの意。積載貨物を調整して均等に船に配分すること。
(3)湾泊 湾に停泊する。
(4)福協副将 閩安協副将のこと。
(5)蔬薪銀 塩菜銀に同じ。毎日の生活に必要な野菜や薪などを購入するための銀。
(6)料を購いて 材料を購入して。ここでは船を修理するための材料。
(7)存公款 存公項下に同じ。公的財源ないし公金の費目。予備費。
(8)動給 動支(金を支出する。支払う)に同じ。
(9)確切 正確・適切に。確実に。
(10)究釈して辦理 究釈は糺明するの意か。辦理は処理するの意。
(11)添叙 つけ加えてのべる、の意か。
(12)拠として 証拠として。
(13)切速せよ 大急ぎ。大至急処理せよとの意。
(14)趙霖 興泉永道。福建の興化府、泉州府、永春直隷州の海防を管轄する。咸豊二年時点で前任と記されている。
(15)詳拠 詳文を出させて、それに拠ると、の意。
(16)訳拠 訊問して、その訳に拠ると、の意。
(17)伯駕 パーカー(Peter Parker)。一八〇四~八八年。アメリカの宣教師。医師。一八三四年に布教のために中国へ渡り、広州で眼科(博済医院)を開業し、三八年には中国医療伝道会(Medical Missionary Society in China)を設立した。四四年にはカシング(Calev Cushing)の秘書として望厦条約の締結にも関与し、五五~五七年には広州在住のアメリカ駐清公使にも任ぜられた。
(18)節次 折々に。その都度。
(19)客頭 移民周旋業者。
(20)傭工 雇われた職工。
(21)鞭責 鞭による拷問。
(22)喧閙し起来する 騒ぎ出す。喧閙は騒々しいさま、起来は~し始めるの意。
(23)鳧水 水掻きする。泳ぐ。
(24)躱匿 身を隠すことか。
(25)証見 証拠。
(26)夷目 外夷の頭目のこと。ここではアメリカ人の将官を指す。
(27)該 校訂本は欠。『選編』は「𠸄」とするが、ほぼ同文の〔一九
五―一五〕により「該」とした。
(28)侯 校訂本は「候」だが通例により「侯」とした。
(29)覆核 覆はくり返す、核は調べる。再審理、再調査すること。
(30)布都事 福建布政司の都事官のこと。布政司の補佐官で、福建と河南の二省にのみ設けられた。従七品で、出納や文書のことを担当した。
(31)鄭紹昌 江蘇溧陽の人。監生。道光八年、福建布政使司の都事に任ぜられる(『(同治)福建通志』)。
福建等処承宣布政使司、難民を解送する事の為にす。
貴国王世子の咨を准けたるに(次の如く)開せり。
司の咨を接准したるに、迅やかに八重山島に漂収するの内地の民人蔡祥慶等二百七十一名を将て、向例に遵照して官を撥し、護送して閩に来たりて審辦せしむ、等の因あり。
遵いて即ちに員役を派撥し、船に駕して前みて八重山島に往き、該難人等を将て向例に遵照し辦理して護送せしむ。
惟だ是れ難人等の漂収して島に到るは、原共三百八十名、又、𠸄夷一名なり。内、経に報じたるの先後して拿え回りたる難人八十名、接回せる𠸄夷一名、鎗斃・縊死するもの六名、病故するもの二十三名は、倶に経に棺を給し収埋するを除き、又、大疫流行して先後して身故せる者、顔退・劉坡・蔡松・陳木・劉悪・石黨・程狡・曾興・許樹・頼沢・黄義・盧発・楊東・蔡採・黄成・林木・呂白・林忠・周守・郭有・林添・蔡大・陳河・胡朝・黄陀・林丁・李湿・柯団・邱樹・柯器・洪進・伝春・許好・董耳・処栄・李坊・陳進・黄自・林周・王海・王所・曾欽・王鏡・呉集・呉杞・鄭年・黄車・張明・頼生・彭能・林本・黄喜・呉路・呉河・葉遠・黄宙・陳帝・陳翁・高六・梁乞・陳両宜・巌元・蘓財・孫味・張江・洪老・林風・王発・陳哖・顔闘・荘勇・何福・呉天・長生・陳合・荘成・王成・李鑾・張束・安約・陳狡・蔡星・李二・張敬・李园・鄭終・王才・黄安・呉怍・黄闖・許興・蔡益等の九十二名、先後して縊死する者、鄭徳成・黄摻・盧忠・黄有等の四名は倶に経に棺を給して収埋するを除くの外、現に在るの林玉等の一百七十五名は、人数衆多なれば、必ず須らく海船二隻を派撥して分匀して配載し、以て擁擠するを免るべし。
茲に特に都通事の鄭嘉政等を遣わし、梢役を率領して該難人林玉等一百五名を将て海船一隻に駕坐し、前みて閩省に詣らしむ。
統べて例に照らして題明せられんことを祈る。希わくは来船の員伴を将て館駅に安頓せしめ、事務の完竣するを俟ちて、来夏の早汛に原船に坐駕して遣発し返棹するを准予されんことを。則ち航海の末員は驚濤の虞を免るるを得るに庶からん。
此の次、貴司曁び両院、仰いで皇上の藩服を懐柔するを体し、向例に照らして船を撥して送り回すを准さるるを渥く荷くす。
又、俯して使臣の請う所の如く、閩に就きて船を購い、咨を齎らして先に回らしめ、時に乗じて護送するを得さしめ、以て惶恐の憂を免るるを蒙り、実に深く感戴せり。此に附して咨もて謝し、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に咨す。請煩わくは査照して代わりて両院に転詳するを為して、以て謝悃を伸べられんことを。並びに該難人等を将て査収して施行せられよ、等の因あり。司に到る。此れを准けたり。
又、琉球国の護送せる内地の難民閩に来たれば、安挿するの日期は、例に照らして奏咨するを詳請する事の為にす。
咸豊三年十二月二十四日、前兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国中山王世子尚泰、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣わし、官伴・水梢共に一百三十四員名を帯領し、海船二隻に駕坐せしめ、内地の難民蔡祥慶の案内の難民林玉・陳昌等一百二十五名を護送して閩に来たるの一案あり。縁みに難民蔡祥慶等は、倶に福建の泉漳二府に属するの晋江・南安・恵安・同安・安渓・龍渓等の県の民人に係る。𠸄咭唎国に往きて生理せんと欲し、𠸄国船隻に搭駕し、咸豊二年二月初一日に於て厦門に在りて開船し、出口して洋に在りて風に遭い、二月十九日に於て琉球の八重山島崎枝の洋面に漂収す。船は暗礁に擱れば、𠸄夷、即ちに難民蔡祥慶等三百八十名、𠸄夷一名を将て、捨て置きて上岸せしむ。次日潮漲り船浮きたれば、該夷の原船は二十三日に於て風に乗じて開駕し放洋す。所有の島に在るの難民は、経に該処の夷官、館を設けて安頓し収養して撫恤せり。
旋いで三月十六、十八等の日に於て、𠸄船二隻先後して駛して至る有り。経に該処の夷官、詢いたるところ、𠸄咭唎通事羅元祐の声称に拠るに、該難民蔡祥慶等は前月、𠸄船に搭駕して前みて金山に往かんとするも、洋に在りて船主・水梢六人を兇殺するに因り、是を以て厦門の𠸄官、船を遣わし島に到らしめ、査拿せんとす、とあり。械を持ちて岸に登る。擒獲せる難民五人、銃斃せるもの三人、畏懼服従する者十八人、自ら縊死する者三人、其の余は躱避して山中に走り匿る。𠸄夷、即ちに現に拿えたる難民二十三名、並びに携取せる島に在るの𠸄夷一名を将て両船に分載し、三月二十三日に於て連䑸して開去す。
嗣いで四月初四日に於て復た𠸄船駛して到り、難民五十七名を追捕し拿獲して船に載せて去く有り。並びに此の後、尚お再び来たりて拿尽せんとす、と云う。所有の山中に竄躱するものは、当に各々旧に仍って招回して収養せり。内、二十三名は先後して病故する有り。倶に経に棺を給して埋葬す。尚お二百七十一名を存す。該国王世子、以うに、𠸄夷は兇暴なること非常にして、若し遽かに護送するを行えば、𠸄船復た来たりて追捕するも踪無ければ、滋々事端を生ずることを誠に恐る。当に上年に於て貢船閩に来たれば、移して査辦せんことを請う。
司の咨を接准したるに、応に向例に照らして官を撥し、護送して閩に来たらしむべし、とありたれば、特に夷官を遣わして前みて該島に往き、査明せしむるに、首名の難民蔡祥慶は先に経に拿え回る。
又、顔退等九十二名、鄭徳成等四名は、先後して病故、縊死するを除くの外、僅かに存するの林玉等一百七十五名は、経に該国王世子、特に咨文・護照を備え、都通事の鄭嘉政を派撥し、官伴・水梢六十七員名を率領し、頭号海船一隻に駕坐せしめ、難民林玉等一百五名を匀配す。
又、都通事の王家錦を派撥し、官伴・水梢六十七員名を率領し、二号海船一隻に駕坐せしめ、難民陳昌等七十名を匀配し、護送して閩に来たらしめんとす。
本年九月十九日、国に在りて開船し、二十八日八重山島に到る。林玉等一百五名の内、陳意一名は続いて経に病故するを除き、実在するもの一百四名、陳昌等七十名の内、柯渓・黄道二名は先後して病故するを除き、実在するもの六十八名を将て分別して匀配し、九月二十九日に於て該島に在りて放洋す。十月初五、初六等の日に於て、駕して閩洋の定海の洋面に至りて湾泊す。是の日、両船、洋に在りて賊の搶劫を被り、難民の脱逃するもの四十七名にして、実存するもの一百二十五名あり。初八日、経に営船に接護せられ、初十日口に進み、十四日駕して番船浦に抵りて停泊す。経に署福防同知の婁浩、福協副将の趙殿元・海関委員の卓凌阿と会同し、分別に査験す。十五日に於て館駅に安挿す。該難民等を将て県に交して確査して審辦せしめ、該庁は先に護送の供情を訳訊するを行い、冊を造りて具詳し前来せり。
本司、覆査したるに、歴届、琉球国より使を遣わして内地の難民を護送して閩に到れば、均しく安挿の日より始めと為し、官一員毎に日に蔬薪銀五分一厘・米三升を給し、跟伴・水梢には毎名に日に塩菜銀一分・米一升を給し、回国の日には另に行糧一個月を給す。又、都通事一員には緞二疋・紗二疋、司養贍大使一員には緞一疋・紗一疋を加賞し、跟伴・水梢には毎名に青藍布二疋を賞給す。又、另に料を購いて修船するの銀両を賞給するを行う。統べて存公銀内より動支し、事竣れば冊を造りて報銷して案に在り。
今届、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦を遣わし、各々海船一隻を駕し、内地の難民を護送して閩に来たらしむれば、応に各官伴・水梢に口糧・行糧を給すべし。并びに緞紗・布疋を加賞し、銀両に折価して、修理の船価等の項と同に、均しく応に該同知の請う所の如く例に照らして給領せしめ、統べて該年の存公款内より動給し、事竣れば冊を造りて報銷すべし。其の船内に帯来せる土産の貨物は、応に具詳して到るの日を俟ちて、例に照らして飭して館を開きて貿易せしめ、完竣したれば遣発して回国せしむべし。
該難民林玉等一百二十五名は、閩県に飭して確切の訊供もて省会に具詳し、総局・司道に報銷して会議して審辦せしめ、并びに護送の両船の劫を被るの情形を将て、接貢船隻の劫を被るの案内の厳査訳訊せる估贓に彙同して妥議せしめ、另に詳辦するを行うを除くの外、合に護送して安挿するの日期を将て、送り到れる各冊と同に、文を具えて転送すべし。伏して察核して会奏するを候つ、等の由あり。
批を奉けたるに、此の案は已に撫部院と会同して恭摺して具奏せり。並びに閩侯二県の会詳せるところの、難民林玉等の供情を査訊し、議して分起して原籍に逓回し分別に究釈して辦理せしめんことを請うのこと、曁び続いて粤省の咨覆を准けたるの各縁由を将て、摺内に於て代わりて添叙して声明するを為す。及び送り到れる各冊を将て礼/戸部に咨送して察照せしめたり。仰むらくは即ちに福臬司と会同して、移行して遵照せしめられよ。拠として送りたる各冊十四本に至りては、僅かに分咨するに敷るのみにして、案に備うるに憑る無ければ、該司、即ちに飭承して一分を照送して査に備えしめよ。仍お撫部院の批示を候て、并びに省会に移行して総局の夷務委員に報銷し査照せしめよ、繳す、冊・抄白の執照は存送す、とあり。
又、前代辦巡撫部院有(鳳)の批を奉けたるに、仰むらくは督部堂衙門の察核して具奏するを候たれよ、並びに批示を候て、繳す、冊は存す、各等の因あり。
又、恩を体例に籲め、迅やかに先に示を給するを行うを賜り、以て館を開きて貿易するに便ならしめん事の為にす。
咸豊三年十一月二十四日、前兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣わし、内地の難民林玉等を護送せしめんとして夷船二隻閩に来たらしむれば、当即に転飭して館駅に安挿して案に在り。
茲に該夷船の帯びる所の土産の貨物は、例として応に館を開きて夷官の兌買して交易するを聴すべし。惟だ査するに、史書・黒黄紫皁大花西番蓮緞疋・焰硝・牛角・兵器・桐油・鉄鍋・黄紅銅器は収買するを許さず。其の糸觔の一項は、歳買の定額有ると雖も、但だ此の次は既に未だ該夷官、置買するを呈請するに拠らざれば、応に議を庸いる毋かるべし。其の余の布疋・氈条・薬材等の物にして例禁に在らざる者は悉く買帯するを聴す。
茲に福防同知の詳に拠るに「都通事の鄭嘉政等、迅やかに先に示を給するを行うを賜り、館を開きて貿易するを呈請するに拠り、相応に俯して請う所の如くし、其の館を開きて貿易するを准し、以て体恤を昭らかにすべし」とあり。
仍って憲示を遵奉し、看管の員役に厳飭し、留心して稽察せしめ、開館の日より始めと為し、兌換せる出入の貨物を験明し、日に按じて摺報せしめ、把駅の員弁・兵役の陋規を需索し、及び附近の土棍・奸民の館に入りて勾通局騙し、禁物を串帯し、弊を滋すを許さず。仍お開駕の時を俟ちて、買う所の各項の貨物を将て員に委し盤験して上船せしめ、以て透漏を杜ざさしめんとす。例に照らして示を給し柔遠駅に実貼して暁諭するを除くの外、理として合に詳報すべし。伏して察核して批示せらるるを候つ、等の由あり。
批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仰むらくは即ちに示を給し暁諭せられよ、仍お撫部院の批示を候て、繳す、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仍お督部堂の批示を候て、繳す、各等の因あり。
又、抄摺して行知する事の為にす。
咸豊三年十二月二十八日、兼署閩浙爵督部堂有(鳳)の憲牌を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、本爵兼署部堂、咸豊三年十二月二十日に於て、福建撫部院王(懿徳)と会同して恭摺して具奏せるところの、琉球国の頭・二両号夷船二隻、内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓りて分別に辦理せしむるの縁由の一摺あり。硃批を奉到するを俟ちて另に録して飭知するを除くの外、合に先に抄摺して行知すべし。牌を備えて司に到れば、即便に臬司と会同して、抄摺内の事理を査照して分別に移行し、遵照して辦理せしめよ。仍お飭して該難民林玉等を将て分起して原籍の各県に逓回し、近きに就きて査伝して質訊し明確ならしめ、分別に究釈して詳辦せしめよ。一面には難民を護送するの夷船、洋に在りて劫を被るを将て、接貢夷船の劫を被るの案内と彙同して、一並に前行の事理を確遵し、移飭して確査せしめ、妥議して通詳し、参辦して追賠するを聴候せしめよ。均しく違延する勿かれ。切速せよ。切速せよ。
計うるに粘けたる抄摺あり。内に(次の如く)開す。
奏すらくは、琉球国の夷船、内地の難民を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓りて分別に辦理せしむるの縁由もて恭摺して具奏し、仰いで聖鑑を祈る事の為にす。
案査するに、咸豊二年十月の間に、前に福建藩司の詳報に拠るに、琉球国王世子尚泰、馬克承等を遣使して咨文を齎到せしめたること、閩省の内地の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国夷船の前往して六十余人を拿え回さるること、尚お二百余人は該国に寄寓する有ることを以てす。当に分別して査辦せしめつつあるの縁由を将て、経に前督臣季(芝昌)、撫臣王(懿徳)と会同し、附片もて具奏し、硃批を奉到したるに、知道せり、とあり。此れを欽む。均しく経に恭録して咨行し欽遵して辦理せしむ。
嗣いで前興泉永道趙霖の稟覆に拠るに「𠸄咭唎国の厦門領事巴遘士に照会し査覆せしめたるに、該夷、前次の拿え回さるるの数十人は先に経に粤省に帯往し、地方官に交して審辦せしむるを除き、余は倶に厦門に載せ回り、釈放して完案せり。其の現に琉球に在るの人、或いは琉球国配船して載せ回るも、或いは華国船を遣わし往載するも倶に可なり」等の情あり。
随いで経に福建藩司に飭拠し、福州府海防同知に詳拠せしめ、琉球の使臣馬克承の稟を訳拠せしめたるに称すらく「八重山島は琉球国の王府と離隔し地方遙遠なれば、船隻往来するに風汛は只だ二、三両月の内に在りて方めて駕して該島に抵るべし。貢船の返棹は向に夏至に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて該島に撥往するを行わば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送して閩に来たるに及ばざらん。咨を給して、並びに船隻を購い備え、以て水梢を派撥し、先に咨を齎し趕ぎ回るを行うに便ならしめ、該民人等を将て船を配して、以て秋の間に接貢船隻に随同し、護送して閩に来たるに便ならしむるを准されんことを懇請す」とあり。庁より司に詳して議照せしめ、俯して請う所の如く、詳もて咨を給し、船を購いて遣発して回国せしむべし。
後に迨びて、続いて欽差大臣両広督臣葉(名琛)の咨覆を准けたるに(以下の如し)。
咪酋伯駕の呈称に拠るに「該国の貨船に搭船せるの中国民人は、船主・火長・水手を殺死し、船中の貨物を掠め去り、岸に上りて逃走す。只だ剰りの二十余の中国人は尚お船内に在り、当時外国の兵船趕ぎて該洲に往きて、上岸せるの人、数十名を捉獲して解回して送交して訊辦せしむ」とあり。
続いて該酋の節次の来文に拠るに「並びに陳得利等十七名を解りて粤に到らしめ、飭して広州府に発りて研訊せしむ」とあり。各供に拠るに称すらく「均しく客頭に騙され夷船に下されたるの傭工に係る。押されて艙底内に在るもの、共に四百七十五人有り。開船の後に迨んで、該夷は艙内の各人に売身の契約一紙を給し、如し接収せざれば即ちに鞭責するを行う。駛して琉球の洋面に到り、該夷、忽ち衆人を把て陸続として艙面に提き到り、逐一髪辮を割去す。内に病に臥して行く能わざる者十余人有り。当時打死して丟棄して海に落とせり。衆人看見して驚慌し、以て喧閙し起来するを致す。該夷の船主は害怕して鳧水して逃走す。衆人、随いで喚きたれば、水手人等、船を将て駛して山辺に到り、山に上りて躱匿せり。琉球国人の査問を被りたれば、船漏れ修整せんとす、と捏称す。琉球国人、毎日飯食を給与し、十余日を隔てるに迨んで該夷の兵船、駛して到りて陳得利等七十余名を拿獲し、夷船に押し下し香港に駛回す。後に又、陳得利等十七人を将て載せて黄埔に到りて、官に送りて審辦せしむ。陳得利等、並えて夷人の身価を受くるを得て夷人を殺害し、及び夷船の銀物を搶取するの情事無し」との稟報あり。即ちに経に稟に拠りて、該酋の節次の来文を将て、逐一駁斥す。
復た該酋、証見の謝丁茂等四名を呈送するに拠り、復た広州府に飭して研訊せしむ。稟に拠るに「僉な供すらく、陳得利は当時船に在りて手に旗刀を執り、衆人を弾圧して喧閙するを許さざるも、並えて未だ人を傷つけず。内に海定即ち蘇有なるもの有り。夷人一名を傷つけ、跌を失い海に落とすを致す、と。所有の羅幅安等十四名は、均しく訊いたるも匪と為りて夷人を傷斃するの情事無し。陳得利・蘇有二名は再び研訊し、分別して辦理するを容す。業経に批飭して証見の謝丁茂等四名を将て夷目に発交して収領せしむ。其の解り来たる人犯十七名(の内)、陳燥は病故し、陳得利・蘇有二名は粤に留めて復訊するを除き、羅幅安等十四名は即ちに飭して原籍に逓回せしむ。該閩人蔡祥慶等に至りては、琉球に羈ぎ留められたれば、転飭して琉球国に移咨し、船を撥して護送して回籍せしめ、業に安んじて以て体恤を示さんことを咨もて請う」等の因あり。転行して遵照せしめ各々案に在り。
茲に福建藩司慶(端)の詳に拠るに(以下の如し)。
署福州府海防同知婁浩の詳に拠るに称すらく「閩安協副将の移報を准けたるに、洋に在りて接護せる琉球国の夷船二隻は、内地の民人蔡祥慶等の案内の難民林玉・陳昌等を護送し、閩に来たらしむ。本年十月初八日の申の刻に於て、接護して虎に進ましむ、等の由あり。
該夷船二隻は、即ちに是の月の十四日に於て駛して福州省港に抵りて番船浦地方に湾泊す。経に該署同知、営員・海関委員と会同して査験したるに、実に属す。該国の官伴・水梢人等共に一百三十四員名を将て、即ちに十月十五日に於て館駅に安挿せしむ。並びに両船の送り到れる難民林玉等一百二十五名を将て、亦た是の日に於て例に照らして閩県の衙門に発交し、分別に安頓して訊辦せしむ。合に訳訊せる供情を将て、冊を造りて詳送すべし」とあり。並びに琉球国王世子の咨を准けたるに、前因に同じ、とあり。司に到る。
査するに、此の次、琉球国王世子尚泰、都通事の鄭嘉政・王家錦等を遣使し、官伴・水梢共に一百三十四員名を帯領せしめ、海船二隻に駕坐して内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等一百二十五名を護送して閩に来たらしむるの一案あり。縁みに難民蔡祥慶等は、倶に福建の泉漳二府に属するの晋江・南安・恵安・同安・安渓・龍渓等の県の民人に係り、𠸄国船隻に搭駕し、金山地方に往きて生理せんと欲し、咸豊二年二月初一日に於て厦門に在りて開船し、出口して洋に在りて風に遭い、二月十九日、琉球国属の八重山島崎枝の洋面に漂収す。船は暗礁に擱れば、該夷、即ちに難民蔡祥慶等三百八十名、𠸄夷一名を将て捨て置きて上岸せしむ。次日潮漲り船浮かびたれば、該夷の原船は二十三日に於て風に乗じて開駕して放洋す。所有の島に在るの難民は、経に該処の琉球国の夷官、館を設けて安頓せしめ、収養して撫恤せり。
旋いで三月十六、十八等の日に於て𠸄船二隻先後して駛して至る有り。経に該処の夷官、詢いたるところ、𠸄国通事羅元祐の声称に拠るに、該難民蔡祥慶等は前月、𠸄船に搭駕して前みて金山に往かんとするも、洋に在りて船主・水梢六人を兇殺するに因り、是を以て厦門の𠸄官、船を遣わして島に到らしめ、査拿せんとす、とあり。械を持ちて岸に登る。擒獲せる難民五人、銃斃せるもの三人、畏懼服従する者十八人、自ら身を縊りて死する者三人あり。其の余は躱避して走りて山中に匿る。𠸄夷は即ちに現に拿えたる難民二十三名並びに携取せる島に在るの𠸄夷一名を将て両船に分載し、三月二十三日に於て連䑸して開去す。
四月初四日、復た𠸄国の夷船、駛して到りて、難民五十七名を追捕し拿獲して船に載せて去く有り。並びに、此の後、尚お再び来たりて拿尽せんとす、と云う。所有の山中に竄躱するものは、当に各々旧に仍り招回して収養せり。内、二十三名は先後して病故する有り。倶に経に棺を給して埋葬す。尚お二百七十一名は存す。経に該国王世子、以うに、𠸄夷は兇暴なること非常にして、若し遽かに護送するを行えば、𠸄船復た来たりて追捕するも踪無ければ、滋々事端を生ずることを誠に恐る。当に上年に於て貢船閩に来たれば、移して査辦せんことを請う。
司の咨を接准したるに、応に向例に照らして官を撥し、護送して閩に来たらしむべし、とありたれば、特に夷官を遣わして前みて該島に往き、査明せしむるに、首名の難民蔡祥慶は先に経に拿え回る。
又、顔退等九十二名、鄭徳成等四名は先後して病故し、縊斃するを除くの外、僅かに存する林玉等一百七十五名あり。経に該国王世子、特に咨文・護照を備え、都通事の鄭嘉政を派撥して、官伴・水梢六十七員名を率領し、頭号海船一隻に駕坐せしめ、難民林玉等一百五名を匀配す。
又、都通事の王家錦を派撥して官伴・水梢六十七員名を率領し、二号海船一隻に駕坐せしめ、難民陳昌等七十名を匀配し、護送して閩に来たらしめんとす。
咸豊三年九月十九日、琉球国に在りて開船し、二十八日八重山島に到る。林玉等一百五名の内、陳意一名は続いて経に病故せるを除き、実在せるもの一百四名、陳昌等七十名の内、柯渓・黄道二名は先後して病故するを除き、実在するもの六十八名あるを将て、分別して匀配し、九月二十九日に於て該島に在りて放洋す。十月初五、初六等の日に駕して福建定海の洋面に至りて湾泊す。是の日、両船は洋に在りて賊の搶劫を被り、難民は脱逃するもの四十七名にして実存するもの一百二十五名あり。初八日、経に閩安協の営船に接護せられ、初十日口に進み、十四日駕して福州省港の番船浦地方に抵りて湾泊す。経に署福州府海防同知の婁浩、福州城守営副将の趙殿元・閩海関税口委員の卓凌阿と会同し、分別に査験す。即ちに十五日に於て館駅に安挿す。該難民等を将て閩県に交して査収して安頓せしめ、確査して訊辦せしめ、庁より先に護送するの供情を訳訊するを行い、冊を造りて具詳し、司に到る。
覆査したるに、歴届、琉球国より使を遣わして内地の難民を護送して閩に到れば、均しく安挿の日より始めと為し、官一員毎に日に蔬薪銀五分一厘・米三升を給し、跟伴・水梢には毎名に日に塩菜銀一分・米一升を給し、回国の日には另に行糧一個月を給す。又、都通事一員に、緞二疋・紗二疋、司養贍大使一員に、緞一疋・紗一疋を加賞し、跟伴・水梢に、毎名に青藍布二疋を賞給す。又、另に料を購いて修船するの銀両を賞給するを行う。統べて存公銀内より動支し、事竣れば冊を造りて報銷して案に在り。
今届、琉球国王世子、都通事の鄭嘉政・王家錦を遣わし、各々海船一隻に駕して、内地の難民を護送して閩に来たらしむれば、応に各官伴・水梢に口糧・行糧を給すべし。並びに緞紗・布疋を加賞し、銀両に折価して修理の船価等の項と同に、均しく応に福州府海防同知の請う所の如く、例に照らして給領せしめ、統べて該年の存公款内より動給し、事竣れば冊を造りて報銷すべし。其の船内に帯来せる土産の貨物は、応に具詳の到るの日を俟ちて、例に照らして飭して館を開きて貿易せしめ、完竣したれば遣発して回国せしむべし。
並びに閩県・侯官二県の会詳に拠るに「琉球国の夷官の送り到れる難民林玉等一百二十五名は、福州府省城の員に委して護送せしむるも、洋に在りて脱逃せる難民李寄・陳昌・林什三名と同に、合共して一百二十八名を将て、詳らかに研訊を加えたるに、均しく各々僉な供するに、実に𠸄咭唎国の夷船に搭載し、金山地方に往きて生理せんと欲し、洋に在りて風に遭い、琉球国属の八重山島に漂到し、岸に上りて逃走す。経に該処の夷官、収養して撫恤し、護送して載運して閩に回らしめ、均しく夷人を傷斃するの情事無きに係る」とあり。
核べたるところ、粤省の咨覆と相い符すれば、信ずべきに属するに似たり。惟だ是れ該難民等、平日、家に在りて是れ良なるや是れ匪なるやは、均しく経に原籍の各県に移飭して、族房、保隣の人等に査伝して、供結を訊取し、移覆せしめて核辦せんとするも、現在尚お未だ覆到せず。第だ人数衆多なれば、情、殊に憫むべし。応に該難民人等を将て分起して原籍の各県に逓回し、近きに就きて査伝し、質訊して明確ならしめ、分別に究釈して辦理せんことを請うべし、とありて福建の藩・臬両司より会核して転詳して前来す。
覆核するに、異なる無し。送り到れる各冊を将て咨もて礼部に送り、並びに戸部に咨して査照せしめ、一面には飭して該難民等を将て逓回して訊辦せしめ、仍お護送せる夷船、洋に在りて劫を被るの情形を将て、接貢船隻の劫を被るの案内と彙同して、一并に厳査して訳訊し、估贓して妥議し、另に参辦して追賠するを行うを除くの外、合に琉球国の夷船、難民を護送して閩に到れば、安挿して訊明し、籍に逓らしむるの縁由を将て、謹んで福建巡撫臣王(懿徳)と会同して合詞し、恭摺して具奏すべし。伏して皇上の聖鑑を乞う。謹んで奏す、等の因あり。
又、硃批を恭録して行知する事の為にす。
咸豊四年三月初七日、総督部堂王(懿徳)の憲箚を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、前兼署督部堂有(鳳)、咸豊三年十二月二十日に於て会摺し具奏せるところの、琉球国の頭・二両号夷船二隻、内地の難民蔡祥慶の案内の林玉等を護送して閩に到れば、安挿して訊明し籍に逓らしめ、分別に辦理せしむるの縁由の一摺あり。今、本年三月初四日に於て硃批を奉到したるに、知道せり、とあり。此れを欽む。摺稿は先に経に抄発するを除くの外、合に就ちに恭録して行知すべし。箚を備えて司に到れば、即便に臬司と会同し、移行して欽遵せしめよ。遅るる毋かれ、等の因あり。
又、恩を体例に籲む等の事の為にす。
咸豊四年五月十四日、総督部堂王(懿徳)の批を奉けたる本司の詳は(以下の如し)。
査し得たるに、琉球国の都通事鄭嘉政等、頭号海船一隻に坐駕し、官伴・水梢共に六十七員名を率領し、蔡祥慶等の案内の難民林玉等一百五名を護送して閩に到る。帯来せる土産の銀両・物件は、当に経に詳もて憲台の批を奉けたるに、館を開きて貿易するを准さるれば、随即に福防同知に檄飭して厳しく趕緊に貿易するを催し、完竣したれば験明し、冊を造りて結を取り、詳報せしめ去後れり。
茲に福防同知の詳報に拠るに「護送の頭号夷船内の帯来せる土産の貨物・銀両等の項は、咸豊三年十二月初二日に於て館を開きて貿易せしめ、四年五月初八日に至りて完竣したれば、即ちに本月十五日に於て駅を離れて舟に登る。所有の頭号船上の原報の官伴・水梢は共に六十七員名なり。内、水梢の宮平良一名は病故するを除くの外、又、江蘇崇明県より送り到れる漂風の難夷西銘等の案内の難夷三名を匀搭す。通船統共するに回国するものは六十九員名なり。経に該庁、館に詣りて勘験し、花名・清冊を造具し、先に咨を給するを行うを詳請す」とあり。并びに貨物の冊・結は委員の布都事鄭紹昌、夷人を督同し、盤運して舟に入れ、完竣するを俟ちて数冊・甘結を取具し、另に結を加うるを行い申もて送る、等の由を声明して前来せり。
本司査するに、琉球国の都通事鄭嘉政、内地の難民を護送して頭号海船一隻に坐駕し、現に五月十五日に於て駅を離れて舟に登ると具報するに拠り、相応に歴届の夷船の回国の例を査照し、先に詳明して咨を給するを行い、該庁に飭して盤竣の貨物の冊・結を備造して司に送らしめ、另文もて呈送せしめて案に備うるを除くの外、合に就ちに情に拠りて詳請すべし。伏して察核して迅やかに批示を賜るを候ち、以て咨を給して、備に該国王世子に移して査照せしむるに便ならしめ、汛に乗じて遣発して回国せしめんとす。該庁に行じて閩安協と会同して験明せしめ、員弁を派撥し護送して出洋せしめ、長行回国の日期を取具し、另に詳もて題を請う、等の由あり。
批を奉けたるに、詳の如く咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしめよ、汛に乗じて遣発して回国せしめよ、福防庁に行じて閩安協と会同して験明せしめよ、員弁を派撥して小心に護送して出洋せしめよ、長行回国の日期を取具し、通詳して題を請え、仍お撫部院衙門の批示を候て、繳す、冊は存す、とあり。
又、兼署巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳の如く咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしめよ、汛に乗じて遣発して回国せしめよ、仍お福防庁に飭して閩安協と会同して験明せしめよ、員弁を派撥し護送して出洋せしめよ、長行回国の日期を取具し、詳題せよ、並びに督部堂衙門の批示を候て、繳す、冊は存す、各等の因あり。此れを奉けたり。
茲に遣発して回国せしむるの期に当たれば、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に貴国王世子に咨す。煩為わくは査照して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
計うるに移送せる冊一本あり。
右、琉球国中山王世子尚(泰)に咨す
咸豊四年(一八五四)五月十五日
注*本文書の咨覆は〔一九六―二七〕である。〔一九五―一五〕とほぼ同文である。
(1)貴国王世子の咨 〔一九四―〇七〕の後段。
(2)匀配 「匀」はあまねく、ひとしいの意。積載貨物を調整して均等に船に配分すること。
(3)湾泊 湾に停泊する。
(4)福協副将 閩安協副将のこと。
(5)蔬薪銀 塩菜銀に同じ。毎日の生活に必要な野菜や薪などを購入するための銀。
(6)料を購いて 材料を購入して。ここでは船を修理するための材料。
(7)存公款 存公項下に同じ。公的財源ないし公金の費目。予備費。
(8)動給 動支(金を支出する。支払う)に同じ。
(9)確切 正確・適切に。確実に。
(10)究釈して辦理 究釈は糺明するの意か。辦理は処理するの意。
(11)添叙 つけ加えてのべる、の意か。
(12)拠として 証拠として。
(13)切速せよ 大急ぎ。大至急処理せよとの意。
(14)趙霖 興泉永道。福建の興化府、泉州府、永春直隷州の海防を管轄する。咸豊二年時点で前任と記されている。
(15)詳拠 詳文を出させて、それに拠ると、の意。
(16)訳拠 訊問して、その訳に拠ると、の意。
(17)伯駕 パーカー(Peter Parker)。一八〇四~八八年。アメリカの宣教師。医師。一八三四年に布教のために中国へ渡り、広州で眼科(博済医院)を開業し、三八年には中国医療伝道会(Medical Missionary Society in China)を設立した。四四年にはカシング(Calev Cushing)の秘書として望厦条約の締結にも関与し、五五~五七年には広州在住のアメリカ駐清公使にも任ぜられた。
(18)節次 折々に。その都度。
(19)客頭 移民周旋業者。
(20)傭工 雇われた職工。
(21)鞭責 鞭による拷問。
(22)喧閙し起来する 騒ぎ出す。喧閙は騒々しいさま、起来は~し始めるの意。
(23)鳧水 水掻きする。泳ぐ。
(24)躱匿 身を隠すことか。
(25)証見 証拠。
(26)夷目 外夷の頭目のこと。ここではアメリカ人の将官を指す。
(27)該 校訂本は欠。『選編』は「𠸄」とするが、ほぼ同文の〔一九
五―一五〕により「該」とした。
(28)侯 校訂本は「候」だが通例により「侯」とした。
(29)覆核 覆はくり返す、核は調べる。再審理、再調査すること。
(30)布都事 福建布政司の都事官のこと。布政司の補佐官で、福建と河南の二省にのみ設けられた。従七品で、出納や文書のことを担当した。
(31)鄭紹昌 江蘇溧陽の人。監生。道光八年、福建布政使司の都事に任ぜられる(『(同治)福建通志』)。