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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 文書形式
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- 訂正履歴
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- 備考
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2-192-25 琉球国中山王世子尚泰より福建布政使司あて、八重山漂着の中国人苦力の護送について通知する旨の咨文(咸豊二《一八五二》、八、三)
琉球国中山王世子尚(泰)、咨を請う事の為にす。
照らし得たるに、咸豊二年三月二十三日、本国属島の八重山地方官の報に拠るに称すらく「咸豊二年二月十九日、𠸄国船隻、本島の崎枝の洋面に漂到する有り。走りて暗礁に上り、正に危急に在れば、該𠸄夷、即ちに搭駕せる中国人三百八十名・𠸄人一名を将て上岸せしむ。翌朝、船纔かに潮に随いて礁を下る。二十三日に至りて上岸の人等を捨て置き開洋して去れり。
詢いたるところ、難人蔡祥慶等の口称に拠るに、慶等は福建省泉州府の同安県・晋江県・南安県・恵安県・安渓県、汀州府の龍江県、漳州府の龍渓県等の処の人民に係る。𠸄国に往きて生理を為さんとして該船に搭駕す。咸豊二年二月初一日、厦門に在りて開船し、洋に在りて風に遭い貴島に漂到す。礁に上りて危険なれば、慶等、上岸して其の礁を下るを候つ。乃るに𠸄夷、慶等三百八十名併びに𠸄人一名を将て島に置きて開去せり。船を撥して護送せられんことを懇求す、等の語あり。即ちに例に照らして館に発りて安頓せしめ、食を給して養贍せり。該難人の内、一十名は先後して病故したれば、倶に経に棺を給して埋葬す」等の由ありて前来す。
随即に聖祖仁皇帝の諭旨を欽遵し、将に船を撥して該難人等を護送して閩に到らしめんとす。詎らざるも、四月二十日に于て、又、該地方官の報に拠るに称すらく「三月十六・十八等の日、𠸄船二隻、先後して島に到る有り。随いで来歴を訪ねたるに言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は羅、名は元祐、即ち福建海澄県の人なり。称に拠るに、該難人等は前月、𠸄船に搭駕して往きて金山に到らんとするの時、洋に在りて船主・水梢共に六名を兇殺せり。是を以て厦門に駐箚する𠸄官は、船二隻を遣わして島に到りて拿獲して罪を問わんとす、等の語あり。即ちに𠸄人四十余名、兵器を携帯し上岸して査拿する有り。当に経に該難人等、情を講じて𠸄夷に附従する者一十八名、擒獲せらるる者五名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死する者二名あり。其の余は山中に竄躱し拿捕するを得ず。
該通事羅元祐、本官に告げて、該難人等は共に是れ奸邪の匪徒なれば、必ず再た来たりて捕獲せんとす、と云う。乃ち獲らえたる所の二十五名併びに𠸄人一名を将て両隻に派載し、二十三日に于て連䑸して開去せり。該の山中に竄躱せる者は仍ち旧館に来たりて居住す。
本官、即ちに𠸄夷、何の縁故有りて此の如く騒擾せるやと問うに、答えて云う。前月、洋に在るの時、𠸄夷、我が同輩の病を患う者二人を将て海中に抛棄したれば、我等三、四十人、忽然として怒りを発し船主・水梢共に六名を打殺せり。是の時、我が同輩五名も亦た𠸄夷に打殺せらる。今、𠸄夷、専ら此の事の為に島に来たりて騒擾す、等の語あり。
嗣いで四月初四日に于て、又、𠸄船一隻、島に到りて五十七名を拿獲する有り。其の余は山中に竄躱し拿獲するを得ず。該通事、告ぐるに再た来たりて拿尽せんとするを以てす。乃ち獲らえたる所の五十七名を将て原船に載せ、十二日に于て開去せり。該の竄躱せる者は即ちに山中より館に回りて居住す。内、一十三名は先後して病故し、一名は縊死したれば、倶に経に棺を給して埋葬せり。附従する者一十八名、擒獲せらるる者六十二名、併びに接取せる𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、前後して病故せる者二十三名を除くの外、現に在るの二百七十一名は旧に仍って収養せり」等の由ありて前来す。
査するに、該難人等は実に天朝の民に係る。今、遠く海島に在りて郷を離れること日久しければ、誠に憐れむべきに属す。本より応に早きに及んで解送して閩に到らしむべし。但だ𠸄夷、其の洋に在りて𠸄国の船主・水梢等を打殺せらるるに因り、怒りを含みて怨みを蓄え、屢々経に船を遣わし島に到り、或いは之を擒らえ、或いは之を殺し、其の山中に竄躱する者は、告ぐるに重ねて来たりて拿尽せんとするを以てす。
且つ顧うに、𠸄夷の兇暴なること非常にして、伯徳令の国に留まりてより以来、船隻往来し、常に隙を窺い事を滋さんとするの意有り。若し苟且に船を撥し該難人等を護送して閩に到らしむれば、𠸄夷、重ねて来たるのとき、其の命に違うを以て怒りを発し罪を加えて禍害の国家に及ぶを深く恐る。現今、飭して衣食を給与し、意を加えて撫恤して、護送の挙を将て暫く停止を行わしむ。統べて貴司、情に拠りて督/撫両院に転詳し、妥為く査辦せしめ、敝国をして該難人を護送して以て事無きを得さしめんことを祈る。理として合に咨もて請うべし。此れが為に備に貴司に咨す。請煩わくは査照して施行せしを賜覆されたし。
須らく咨に至るべき者なり。
計開す。
一、現に在るの難人二百七十一名
福建省泉州府同安県人
曽欽 王波 林本 李湿 陳意 陳合 林丁 林得 林来
洪計 廖来言 呉存 李园 王寛 林水 徐吉 巌元
蔡鑾 黄成 許樹 呉海 郭信 許両 林荳 黄宙 方車
王発 陳吉 孫味 陳木 趙忠 陳大 呉烈 梁乞 蔡賢
林教 張宰 盧忠 許好 荘勇 王所 陳到 王慶 李挙
王入 王瑶 王才 林木 盧発 陳甲 呉順 孫鑿 陳河
呉貴 黄車 陳園 邱樹 呂偕 葉遠 劉枰 何福 陳賢
蔡採 陳註 郭有 洪老 陳出 蘓輦 蘓蛇 蔡大 許端
李万 呉河 陳立 邵小 林添 王成 劉欽 林倉 郭茂
李皁 鄭徳成 陳故
泉州府晋江県人
蔡浮 郭従 呉路 洪包 呉天 李近 安約 王塔 林風
陳知 王銭 林遠 洪進 蔡益 胡花 顔退 林什 洪才
林向 呉胡 謝長 盧紅 張才 王故 施保 蔡有 陳炎
劉旦 張遇 陳朗 呉海 呉集 李弐 顔闘 張束 陳哖
王茅 丁春来 許水 王鏡 董耳 陳明 景遠 長生
陳帝 張明 張江 黄瑞 黄〓(𠕾+木) 王堂 姜尾 李蛋 呉安
許樑 陳昌 呉荐 曽興 鄭年 張敬 黄自 許好 林周
黄振 処栄 柯器 柯渓 陳丕 荘智 荘抵 劉悪 李到
潘捷 陳行 呉𢭩 荘成 王瑞 林欉 王恕 黄春山
陳圭 黄道 施変 黄利 施敬 許益 李桃 曽麻 施在
呉怍
泉州府南安県人
黄有 呉江 卓竹 呉禁 陳来 呉呈 林才 李坊 呉壮
呉孔 卓煆 頼沢 呉達 蔡伯禄 洪螺 黄文 程狡
王致 呉士 許六 盧前 卓現 蔡江 卓義 彭能 林福
林占 黄闖 卓研 呂白 李岏 李闖 伝春 呂元 陳買
李鑾 蔡福 石黨 連已 胡朝 蔡星 陳狡 王七 黄摻
劉坡 呉早 王海 陳𧛱 洪騫 禇送 葉送
泉州府安渓県人
李寄 陳翁 曽栄 林約
泉州府恵安県人
黄日 鄭成 柯機 陳魁 陳歮 林味 黄陀 鄭終
漳州府龍渓県人
許興 蘓財 林王 王平 黄成 陳追 楊非 黄義 欧埔
呉杞 黄有 呉文良 帝棋 林忠 黄喜 蔡松 黄切
林合 李経 林渓 陳取 張正明 郭好 楊東 陳両宜
王成 高六 陳進 黄安 李淫 王井 周守 村団 盧発
頼生
汀州府龍江県人
蘇章
一、先後して病故せる者二十三名
泉州府晋江県人
謝格 呉慶雲 黄啓 蘓日 陳錦 陳強 陳賜 杞器
泉州府南安県人
桌秉 呉鏡 呉黨
漳州府龍渓県人
許嘆 荘忠 石和 陳河 李発 曽燕
泉州府同安県人
黄文 黄鑽 李狡 鄭合 郭向 李搶
一、𠸄夷に附従せる者一十八名なり。拿獲せらるる者六十二名、
併びに接取の𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、共計するに八十七名なり。該島の地方官、其の姓名を難人に問うに、僉云う、我等は山中に竄躱せるに因り、縊死せる蔡安一名を除くの外、誰ぞ附従し誰ぞ拿獲せられ誰ぞ鳥鎗に中りて斃れ、誰ぞ縊して死するやを知らず。乃ち原報に照らして概そ姓名を開し、後に以て考査に憑らしむ。
泉州府同安県人
周於 林昌 陳広 陳粧 荘金 陳楽 王星 葉祥 陳税
董品 葉上 顔琴 蔡帝 王漏 李炎 許易 蔡祥慶
陳来 荘挙 宋貴 林昌 蔡安
泉州府晋江県人
黄黨 李儎 孫沙 柯仁 金九 林敬 謝丕 楊前 唐民
黄坐 陳魚 高宗 王祥 薛星 王賜 林文 蔡埔 邱全
陳鏡 温田 河旦 陳故 王子 方浸 林明 林福 林搶
黄宜
泉州府南安県人
陳合 李毋 福安 庄智 葉異孝 洪菁 黄機 黄可
卓桃 黄昏
漳州府龍渓県人
方浸 洪来 珠包 許添 陳文 柯盛 汪海 欧慵 陳虎
衛採 王濶 王平 林栄 施和 鄭池 康罵 魏取 鄭田
王狡 黄漢 林景春 珠燦
泉州府恵安県人
李福
泉州府安渓県人
陳戦 李渓 老万
𠸄人一名
右、福建等処承宣布政使司に咨す
咸豊二年(一八五二)八月初三日
注*この文書はロバート・バウン号事件の関連文書である。本文書に対する福建布政使司の咨覆は〔一九三―一〇〕であるが、人名リストは〔一九三―一〇〕にはない。
(1)𠸄国 英国に対する呼称。
(2)崎枝の洋面 石垣島北西部に位置する崎枝半島沖のこと。崎洋、崎枝洋ともいう。
(3)開洋 開は離れる。岸を離れて海洋へ出る。出航する。
(4)蔡祥慶 泉州府同安県人。
(5)泉州府 福建省泉州府。現在は泉州市。福建東南部に位置する。道光期には晋江県等五県と厦門庁が属した。泉州は元代には海外貿易港として栄えたが、明代になると海岸線が後退し、代わって福州や厦門が台頭した。
(6)同安県 現在の福建省厦門市同安区。
(7)晋江県 泉州三邑(晋江、南安、恵安)の首邑と呼ばれる晋江は、古来より経済、軍事、文化などの要衝であった。南は海を挟んで金門島に面している。
(8)南安県 泉州府の南部、金門島に臨み、東は晋江県、西は安渓県、北は永春県に隣接する。
(9)恵安県 泉州府北東の沿海の県。
(10)安渓県 泉州府の西部、東は南安県、北は永春県に接する。
(11)汀州府 明代に置かれた。福建布政使の管轄下にあり、長汀県など八県が属した。現在の福建省長汀県。
(12)漳州府 明代に置かれた。福建省に属し、龍渓・海澄・南靖など七県が属した。漳州は福建省南東部の九龍江下流域にあって、古くから交易拠点として栄えた。
(13)龍渓県 漳州府の中心地。南朝梁代に置かれ、長く漳州府の治所であった。現在の福建省漳州市の竜海市(龍渓県・海澄県が合併)。
(14)生理 商売のこと。
(15)厦門 福建省の東南に位置し、泉州府に属する。金門島の対岸。
(16) 聖祖仁皇帝 清朝第四代皇帝の康煕帝。一六五四~一七二二年。在位一六六一~一七二二年。順治帝の第三子。名前は玄燁。康煕帝は台湾に拠る明の遺臣鄭氏一族を孤立させるため、康煕元年より海上での交易、捕魚を禁じた。海禁は康煕二十三年(一六八四)に解かれ、康煕帝による浜海各王への遭難した中国商人の保護・送還を命じる旨が出された。「聖祖仁皇帝の諭旨」はそれをさすか。また康煕二十三年に朝鮮が中国難民を護送してきた際、賞銀を与えるとともに「嗣後、外国より飄失せる人口を解り到れる者有れば、均しく此に照らして例賞し、其の彼の処にて飄失せる人口を修養するの人は、該国王に行令して奨賞せしめよ」との旨を出している(『(光緒)清会典事例』巻五一三)。
(17)𠸄船二隻 イギリス船のリリー号、コンテスト号。
(18)海澄県 漳州府に属する。明の隆慶六年(一五七二)より、一定の管理下に餉税等を課して商船の下海が許されていた港がある(張燮『東西洋考』巻七、餉税考)。
(19)金山 アメリカのカリフォルニア。一八四八年に始まったゴールドラッシュではアメリカ国内だけでなくヨーロッパや南米、中国からも多くの移民や労働者が押し寄せた。
(20)駐箚 地に留まる。駐在。ここでは厦門駐在のイギリス領事(サリバン)。〔一九三―一〇〕「蘇」(蘇威廉)参照。
(21)拿獲 罪人などを捕らえること。
(22)査拿 調べて捕まえる。
(23)附従 つきしたがうこと。
(24)擒獲 捕まえる。
(25)鳥鎗 鳥銃とも。火縄で点火する類の銃の総称。
(26)竄躱 隠れ、身を隠す。
(27)拿捕 捕らえる。つかまえる。
(28)羅元祐 中国苦力たちを捕らえるために派遣された英船の通訳。福建海澄県人。
(29)奸邪 よこしま。
(30)匪徒 悪いともがら。わるもの。
(31)𠸄船 アメリカ船サラトガ号。『漢文外国一件書類』では「𠸄船」を消して「亜美利駕国船」と訂正されており、欄外に「御国許并びに御仮屋方へは朱入れの通り」とあって、薩摩へは「英船」ではなく「アメリカ船」として報告したことが記されている。
(32)伯徳令 𪡈𪢝呤とも。バーナード・ジャン・ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)。一八一一~七〇年。イギリスの宣教師で医師。一八四六~五四年、英海軍軍人琉球伝道会の宣教師として妻子とともに来琉、王府の滞在拒否に抗して上陸、以後八年余にわたって波之上の護国寺に滞在した。
(33)苟且 かりそめ。なおざり、まにあわせ。
(34)査辦 調査して処理する。
(35)廖来言 中国難民の護照〔一九四―一二〕では「廖来信」。
(36)劉欽 〔一九四―一二〕では「劉飲」。
(37)呉壮 〔一九四―一二〕に「呉壮」はないが「呉北」はある。
(38)林王 〔一九二―二五〕〔一九四―〇七〕〔一九四―一二〕〔一九六―二八〕では「林王」、〔一九五―一四〕〔一九五―一五〕〔一九六―二七〕〔一九六―二八〕では「林玉」。
(39)考査 考えて調べること。調査・検討すること。
琉球国中山王世子尚(泰)、咨を請う事の為にす。
照らし得たるに、咸豊二年三月二十三日、本国属島の八重山地方官の報に拠るに称すらく「咸豊二年二月十九日、𠸄国船隻、本島の崎枝の洋面に漂到する有り。走りて暗礁に上り、正に危急に在れば、該𠸄夷、即ちに搭駕せる中国人三百八十名・𠸄人一名を将て上岸せしむ。翌朝、船纔かに潮に随いて礁を下る。二十三日に至りて上岸の人等を捨て置き開洋して去れり。
詢いたるところ、難人蔡祥慶等の口称に拠るに、慶等は福建省泉州府の同安県・晋江県・南安県・恵安県・安渓県、汀州府の龍江県、漳州府の龍渓県等の処の人民に係る。𠸄国に往きて生理を為さんとして該船に搭駕す。咸豊二年二月初一日、厦門に在りて開船し、洋に在りて風に遭い貴島に漂到す。礁に上りて危険なれば、慶等、上岸して其の礁を下るを候つ。乃るに𠸄夷、慶等三百八十名併びに𠸄人一名を将て島に置きて開去せり。船を撥して護送せられんことを懇求す、等の語あり。即ちに例に照らして館に発りて安頓せしめ、食を給して養贍せり。該難人の内、一十名は先後して病故したれば、倶に経に棺を給して埋葬す」等の由ありて前来す。
随即に聖祖仁皇帝の諭旨を欽遵し、将に船を撥して該難人等を護送して閩に到らしめんとす。詎らざるも、四月二十日に于て、又、該地方官の報に拠るに称すらく「三月十六・十八等の日、𠸄船二隻、先後して島に到る有り。随いで来歴を訪ねたるに言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は羅、名は元祐、即ち福建海澄県の人なり。称に拠るに、該難人等は前月、𠸄船に搭駕して往きて金山に到らんとするの時、洋に在りて船主・水梢共に六名を兇殺せり。是を以て厦門に駐箚する𠸄官は、船二隻を遣わして島に到りて拿獲して罪を問わんとす、等の語あり。即ちに𠸄人四十余名、兵器を携帯し上岸して査拿する有り。当に経に該難人等、情を講じて𠸄夷に附従する者一十八名、擒獲せらるる者五名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死する者二名あり。其の余は山中に竄躱し拿捕するを得ず。
該通事羅元祐、本官に告げて、該難人等は共に是れ奸邪の匪徒なれば、必ず再た来たりて捕獲せんとす、と云う。乃ち獲らえたる所の二十五名併びに𠸄人一名を将て両隻に派載し、二十三日に于て連䑸して開去せり。該の山中に竄躱せる者は仍ち旧館に来たりて居住す。
本官、即ちに𠸄夷、何の縁故有りて此の如く騒擾せるやと問うに、答えて云う。前月、洋に在るの時、𠸄夷、我が同輩の病を患う者二人を将て海中に抛棄したれば、我等三、四十人、忽然として怒りを発し船主・水梢共に六名を打殺せり。是の時、我が同輩五名も亦た𠸄夷に打殺せらる。今、𠸄夷、専ら此の事の為に島に来たりて騒擾す、等の語あり。
嗣いで四月初四日に于て、又、𠸄船一隻、島に到りて五十七名を拿獲する有り。其の余は山中に竄躱し拿獲するを得ず。該通事、告ぐるに再た来たりて拿尽せんとするを以てす。乃ち獲らえたる所の五十七名を将て原船に載せ、十二日に于て開去せり。該の竄躱せる者は即ちに山中より館に回りて居住す。内、一十三名は先後して病故し、一名は縊死したれば、倶に経に棺を給して埋葬せり。附従する者一十八名、擒獲せらるる者六十二名、併びに接取せる𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、前後して病故せる者二十三名を除くの外、現に在るの二百七十一名は旧に仍って収養せり」等の由ありて前来す。
査するに、該難人等は実に天朝の民に係る。今、遠く海島に在りて郷を離れること日久しければ、誠に憐れむべきに属す。本より応に早きに及んで解送して閩に到らしむべし。但だ𠸄夷、其の洋に在りて𠸄国の船主・水梢等を打殺せらるるに因り、怒りを含みて怨みを蓄え、屢々経に船を遣わし島に到り、或いは之を擒らえ、或いは之を殺し、其の山中に竄躱する者は、告ぐるに重ねて来たりて拿尽せんとするを以てす。
且つ顧うに、𠸄夷の兇暴なること非常にして、伯徳令の国に留まりてより以来、船隻往来し、常に隙を窺い事を滋さんとするの意有り。若し苟且に船を撥し該難人等を護送して閩に到らしむれば、𠸄夷、重ねて来たるのとき、其の命に違うを以て怒りを発し罪を加えて禍害の国家に及ぶを深く恐る。現今、飭して衣食を給与し、意を加えて撫恤して、護送の挙を将て暫く停止を行わしむ。統べて貴司、情に拠りて督/撫両院に転詳し、妥為く査辦せしめ、敝国をして該難人を護送して以て事無きを得さしめんことを祈る。理として合に咨もて請うべし。此れが為に備に貴司に咨す。請煩わくは査照して施行せしを賜覆されたし。
須らく咨に至るべき者なり。
計開す。
一、現に在るの難人二百七十一名
福建省泉州府同安県人
曽欽 王波 林本 李湿 陳意 陳合 林丁 林得 林来
洪計 廖来言 呉存 李园 王寛 林水 徐吉 巌元
蔡鑾 黄成 許樹 呉海 郭信 許両 林荳 黄宙 方車
王発 陳吉 孫味 陳木 趙忠 陳大 呉烈 梁乞 蔡賢
林教 張宰 盧忠 許好 荘勇 王所 陳到 王慶 李挙
王入 王瑶 王才 林木 盧発 陳甲 呉順 孫鑿 陳河
呉貴 黄車 陳園 邱樹 呂偕 葉遠 劉枰 何福 陳賢
蔡採 陳註 郭有 洪老 陳出 蘓輦 蘓蛇 蔡大 許端
李万 呉河 陳立 邵小 林添 王成 劉欽 林倉 郭茂
李皁 鄭徳成 陳故
泉州府晋江県人
蔡浮 郭従 呉路 洪包 呉天 李近 安約 王塔 林風
陳知 王銭 林遠 洪進 蔡益 胡花 顔退 林什 洪才
林向 呉胡 謝長 盧紅 張才 王故 施保 蔡有 陳炎
劉旦 張遇 陳朗 呉海 呉集 李弐 顔闘 張束 陳哖
王茅 丁春来 許水 王鏡 董耳 陳明 景遠 長生
陳帝 張明 張江 黄瑞 黄〓(𠕾+木) 王堂 姜尾 李蛋 呉安
許樑 陳昌 呉荐 曽興 鄭年 張敬 黄自 許好 林周
黄振 処栄 柯器 柯渓 陳丕 荘智 荘抵 劉悪 李到
潘捷 陳行 呉𢭩 荘成 王瑞 林欉 王恕 黄春山
陳圭 黄道 施変 黄利 施敬 許益 李桃 曽麻 施在
呉怍
泉州府南安県人
黄有 呉江 卓竹 呉禁 陳来 呉呈 林才 李坊 呉壮
呉孔 卓煆 頼沢 呉達 蔡伯禄 洪螺 黄文 程狡
王致 呉士 許六 盧前 卓現 蔡江 卓義 彭能 林福
林占 黄闖 卓研 呂白 李岏 李闖 伝春 呂元 陳買
李鑾 蔡福 石黨 連已 胡朝 蔡星 陳狡 王七 黄摻
劉坡 呉早 王海 陳𧛱 洪騫 禇送 葉送
泉州府安渓県人
李寄 陳翁 曽栄 林約
泉州府恵安県人
黄日 鄭成 柯機 陳魁 陳歮 林味 黄陀 鄭終
漳州府龍渓県人
許興 蘓財 林王 王平 黄成 陳追 楊非 黄義 欧埔
呉杞 黄有 呉文良 帝棋 林忠 黄喜 蔡松 黄切
林合 李経 林渓 陳取 張正明 郭好 楊東 陳両宜
王成 高六 陳進 黄安 李淫 王井 周守 村団 盧発
頼生
汀州府龍江県人
蘇章
一、先後して病故せる者二十三名
泉州府晋江県人
謝格 呉慶雲 黄啓 蘓日 陳錦 陳強 陳賜 杞器
泉州府南安県人
桌秉 呉鏡 呉黨
漳州府龍渓県人
許嘆 荘忠 石和 陳河 李発 曽燕
泉州府同安県人
黄文 黄鑽 李狡 鄭合 郭向 李搶
一、𠸄夷に附従せる者一十八名なり。拿獲せらるる者六十二名、
併びに接取の𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、共計するに八十七名なり。該島の地方官、其の姓名を難人に問うに、僉云う、我等は山中に竄躱せるに因り、縊死せる蔡安一名を除くの外、誰ぞ附従し誰ぞ拿獲せられ誰ぞ鳥鎗に中りて斃れ、誰ぞ縊して死するやを知らず。乃ち原報に照らして概そ姓名を開し、後に以て考査に憑らしむ。
泉州府同安県人
周於 林昌 陳広 陳粧 荘金 陳楽 王星 葉祥 陳税
董品 葉上 顔琴 蔡帝 王漏 李炎 許易 蔡祥慶
陳来 荘挙 宋貴 林昌 蔡安
泉州府晋江県人
黄黨 李儎 孫沙 柯仁 金九 林敬 謝丕 楊前 唐民
黄坐 陳魚 高宗 王祥 薛星 王賜 林文 蔡埔 邱全
陳鏡 温田 河旦 陳故 王子 方浸 林明 林福 林搶
黄宜
泉州府南安県人
陳合 李毋 福安 庄智 葉異孝 洪菁 黄機 黄可
卓桃 黄昏
漳州府龍渓県人
方浸 洪来 珠包 許添 陳文 柯盛 汪海 欧慵 陳虎
衛採 王濶 王平 林栄 施和 鄭池 康罵 魏取 鄭田
王狡 黄漢 林景春 珠燦
泉州府恵安県人
李福
泉州府安渓県人
陳戦 李渓 老万
𠸄人一名
右、福建等処承宣布政使司に咨す
咸豊二年(一八五二)八月初三日
注*この文書はロバート・バウン号事件の関連文書である。本文書に対する福建布政使司の咨覆は〔一九三―一〇〕であるが、人名リストは〔一九三―一〇〕にはない。
(1)𠸄国 英国に対する呼称。
(2)崎枝の洋面 石垣島北西部に位置する崎枝半島沖のこと。崎洋、崎枝洋ともいう。
(3)開洋 開は離れる。岸を離れて海洋へ出る。出航する。
(4)蔡祥慶 泉州府同安県人。
(5)泉州府 福建省泉州府。現在は泉州市。福建東南部に位置する。道光期には晋江県等五県と厦門庁が属した。泉州は元代には海外貿易港として栄えたが、明代になると海岸線が後退し、代わって福州や厦門が台頭した。
(6)同安県 現在の福建省厦門市同安区。
(7)晋江県 泉州三邑(晋江、南安、恵安)の首邑と呼ばれる晋江は、古来より経済、軍事、文化などの要衝であった。南は海を挟んで金門島に面している。
(8)南安県 泉州府の南部、金門島に臨み、東は晋江県、西は安渓県、北は永春県に隣接する。
(9)恵安県 泉州府北東の沿海の県。
(10)安渓県 泉州府の西部、東は南安県、北は永春県に接する。
(11)汀州府 明代に置かれた。福建布政使の管轄下にあり、長汀県など八県が属した。現在の福建省長汀県。
(12)漳州府 明代に置かれた。福建省に属し、龍渓・海澄・南靖など七県が属した。漳州は福建省南東部の九龍江下流域にあって、古くから交易拠点として栄えた。
(13)龍渓県 漳州府の中心地。南朝梁代に置かれ、長く漳州府の治所であった。現在の福建省漳州市の竜海市(龍渓県・海澄県が合併)。
(14)生理 商売のこと。
(15)厦門 福建省の東南に位置し、泉州府に属する。金門島の対岸。
(16) 聖祖仁皇帝 清朝第四代皇帝の康煕帝。一六五四~一七二二年。在位一六六一~一七二二年。順治帝の第三子。名前は玄燁。康煕帝は台湾に拠る明の遺臣鄭氏一族を孤立させるため、康煕元年より海上での交易、捕魚を禁じた。海禁は康煕二十三年(一六八四)に解かれ、康煕帝による浜海各王への遭難した中国商人の保護・送還を命じる旨が出された。「聖祖仁皇帝の諭旨」はそれをさすか。また康煕二十三年に朝鮮が中国難民を護送してきた際、賞銀を与えるとともに「嗣後、外国より飄失せる人口を解り到れる者有れば、均しく此に照らして例賞し、其の彼の処にて飄失せる人口を修養するの人は、該国王に行令して奨賞せしめよ」との旨を出している(『(光緒)清会典事例』巻五一三)。
(17)𠸄船二隻 イギリス船のリリー号、コンテスト号。
(18)海澄県 漳州府に属する。明の隆慶六年(一五七二)より、一定の管理下に餉税等を課して商船の下海が許されていた港がある(張燮『東西洋考』巻七、餉税考)。
(19)金山 アメリカのカリフォルニア。一八四八年に始まったゴールドラッシュではアメリカ国内だけでなくヨーロッパや南米、中国からも多くの移民や労働者が押し寄せた。
(20)駐箚 地に留まる。駐在。ここでは厦門駐在のイギリス領事(サリバン)。〔一九三―一〇〕「蘇」(蘇威廉)参照。
(21)拿獲 罪人などを捕らえること。
(22)査拿 調べて捕まえる。
(23)附従 つきしたがうこと。
(24)擒獲 捕まえる。
(25)鳥鎗 鳥銃とも。火縄で点火する類の銃の総称。
(26)竄躱 隠れ、身を隠す。
(27)拿捕 捕らえる。つかまえる。
(28)羅元祐 中国苦力たちを捕らえるために派遣された英船の通訳。福建海澄県人。
(29)奸邪 よこしま。
(30)匪徒 悪いともがら。わるもの。
(31)𠸄船 アメリカ船サラトガ号。『漢文外国一件書類』では「𠸄船」を消して「亜美利駕国船」と訂正されており、欄外に「御国許并びに御仮屋方へは朱入れの通り」とあって、薩摩へは「英船」ではなく「アメリカ船」として報告したことが記されている。
(32)伯徳令 𪡈𪢝呤とも。バーナード・ジャン・ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)。一八一一~七〇年。イギリスの宣教師で医師。一八四六~五四年、英海軍軍人琉球伝道会の宣教師として妻子とともに来琉、王府の滞在拒否に抗して上陸、以後八年余にわたって波之上の護国寺に滞在した。
(33)苟且 かりそめ。なおざり、まにあわせ。
(34)査辦 調査して処理する。
(35)廖来言 中国難民の護照〔一九四―一二〕では「廖来信」。
(36)劉欽 〔一九四―一二〕では「劉飲」。
(37)呉壮 〔一九四―一二〕に「呉壮」はないが「呉北」はある。
(38)林王 〔一九二―二五〕〔一九四―〇七〕〔一九四―一二〕〔一九六―二八〕では「林王」、〔一九五―一四〕〔一九五―一五〕〔一九六―二七〕〔一九六―二八〕では「林玉」。
(39)考査 考えて調べること。調査・検討すること。