{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
2-194-08 琉球国中山王世子尚泰より福建布政使司あて、八重山漂着の中国人苦力陳昌など七十名を福州へ護送する旨の咨文(咸豊三《一八五三》、八、十五)
琉球国中山王世子尚(泰)、難人を解送する事の為にす。
照らし得たるに、咸豊三年五月十一日、貴司の咨を准けたるに(次の如く)開せり。
咸豊二年十月二十八日、請諭の正使王舅馬克承・副使の正議大夫梁必達等の稟もて繳めたる王世子の咨に拠るに(次の如く)開せり。
照らし得たるに、咸豊二年三月二十三日、本国属島の八重山地方官の報に拠るに称すらく「咸豊二年二月十九日、𠸄国船隻、本島の崎枝の洋面に漂到する有り。走りて暗礁に上り、正に危急に在れば、該𠸄夷、即ちに搭駕せる中国人三百八十名・𠸄人一名を将て上岸せしむ。翌朝、船纔かに潮に随いて礁を下る。二十三日に至りて上岸の人等を捨て置き開洋して去れり。
詢いたるところ、難人蔡祥慶等の口称に拠るに、慶等は福建泉州府の同安県・晋江県・南安県・恵安県・安渓県、汀州府の龍江県、漳州府の龍渓県等の処の人民に係る。𠸄国に往きて生理を為さんとして該船に搭駕す。咸豊二年二月初一日、厦門に在りて開船し、洋に在りて風に遭い貴島に漂到す。礁に上りて危険なれば、慶等、上岸して其の礁を下るを候つ。乃るに𠸄夷、慶等三百八十名並びに𠸄人一名を将て島に置きて開去せり。船を撥して護送せられんことを懇求す、等の語あり。即ちに例に照らして館に発りて安頓せしめ、食を給して養贍せり。該難人の内、一十名は先後して病故したれば、倶に経に棺を給して埋葬す」等の由ありて前来す。
随即に聖祖仁皇帝の諭旨を欽遵し、将に船を撥して該難人等を護送して閩に到らしめんとす。詎らざるも、四月二十日に於て、又、該地方官の報に拠るに称すらく「三月十六・十八等の日、𠸄船二隻先後して島に到る有り。随いで来歴を訪ねたるに言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は羅、名は元祐、即ち福建海澄県の人なり。称に拠るに、該難人等は前月、𠸄船に搭駕して往きて金山に到らんとするの時、洋に在りて船主・水梢共に六名を兇殺せり。是を以て厦門に駐箚する𠸄官は、船二隻を遣わして島に到りて拿獲して罪を問わんとす、等の語あり。即ちに𠸄人四十余名、兵器を携帯し上岸して査拿する有り。当に経に該難人等、情を講じて𠸄夷に附従する者一十八名、擒獲せらるる者五名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死する者二名あり。其の余は山中に竄躱し拿捕するを得ず。
該通事羅元祐、本官に告げて、該難人等は共に是れ奸邪の匪徒なれば、必ず再た来たりて捕獲せんとす、と云う。乃ち獲らえたる所の二十五名並びに𠸄人一名を将て両隻に派載し、二十三日に於て連䑸して開去せり。該の山中に竄躱せる者は仍ち旧館に来たりて居住す。
本官、即ちに𠸄夷、何の縁故有りて此の如く騒擾せるやと問うに、答えて云う。前月、洋に在るの時、𠸄夷、我が同輩の病を患う者二人を将て海中に抛棄したれば、我等三、四十人、忽然として怒りを発し船主・水梢共に六名を打殺せり。是の時、我が同輩五名も亦た𠸄夷に打殺せらる。今、𠸄夷、専ら此の事の為に島に来たりて騒擾す、等の語あり。
嗣いで四月初四日に於て、又、𠸄船一隻、島に到りて五十七名を拿獲する有り。其の余は山中に竄躱し拿獲するを得ず。該通事、告ぐるに再た来たりて拿尽せんとするを以てす。乃ち獲らえたる所の五十七名を将て原船に載せ、十二日に於て開去せり。該の竄躱せる者は即ちに山中より館に回りて居住す。内、一十三名は先後して病故し、一名は縊死したれば、倶に経に棺を給して埋葬せり。附従する者一十八名、擒獲せらるる者六十二名、並びに接取せる𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、前後して病故せる者二十三名を除くの外、現に在るの二百七十一名は旧に仍って収養せり」等の由ありて前来す。
査するに、該難人等は実に天朝の民に係る。今、遠く海島に在りて郷を離れること日久しければ、誠に憐れむべきに属す。本より応に早きに及んで解送して閩に到らしむべし。但だ𠸄夷、其の洋に在りて𠸄国の船主・水梢等を打殺せらるるに因り、怒りを含みて怨みを蓄え、屢々経に船を遣わし島に到り、或いは之を擒らえ、或いは之を殺し、其の山中に竄躱する者は、告ぐるに重ねて来たりて拿尽せんとするを以てす。
且つ顧うに、𠸄夷の兇暴なること非常にして、𪡈𪢝呤の国に留まりてより以来、船隻往来し、常に隙を窺い事を滋さんとするの意有り。若し苟且に船を撥し該難人等を護送して閩に到らしむれば、𠸄夷、重ねて来たるのとき、其の命に違うを以て怒りを発し罪を加えて禍害の国家に及ぶを深く恐る。現今、飭して衣食を給与し、意を加えて撫恤して、護送の挙を将て暫く停止を行わしむ。統べて情に拠りて督/撫両院に転詳し、妥為く査辦せしめ、敝国をして該難人を護送して以て事無きを得さしめんことを祈る。理として合に咨もて請うべし。査照して施行せしを賜覆されたし、等の因ありて司に到る。此れを准けたり。
又、抄片もて行査する事の為にす。
咸豊二年十一月初十日、前総督部堂季(芝昌)の憲箚を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、本部堂、咸豊二年十一月初七日に於て福建撫部院王(懿徳)と会同し、附片もて具奏せるところの、琉球国王世子、使を遣わして咨文を齎到せしめたること、閩省内地の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国夷船の前往して六十余人を拿え回さるること、尚お二百余人は該国に寄寓する有ること、現に経に分別に査辦しつつあることの各縁由の一片あり。硃批を奉到するを俟ちて另に録して飭知するを除き、并びに片稿・原咨・名冊を抄録して、欽差大臣両広督部堂に飛咨し、粤に在るの夷酋に照会せしめ、厦門領事に転飭して迅速に交審せしむ。及た興泉永道に行じて即速に厦防同知を督同し、𠸄国の厦に在るの領事巴遘士に照会し、条約に遵照して迅やかに前に琉球国に在りて拿え回りたるの閩省内地の民人を将て名に按じて交出せしめ、該道・庁等の公を秉りて審辦するを聴候せしめ、並びに抄片内に指す所の各節を将て明晰に実に拠り声覆して核辦せしむべし。一面には、泉州府及び同安・晋江・南安・恵安・安渓等の県に転飭し、一体に該民人等は平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやを確査せしめ、各該族房の保隣各一人に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送して通詳せしむべし。該道は職ら夷務を司れば、必ず須らく督飭して認真に査辦せしめ、稍も泄延して遷就するに任せ、大いに未だ便ならざるに干わるを得る毋からしむべし。
曁た汀漳龍道に行じて漳州府龍渓県に転飭し、該民人等は平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやを確査せしめ、該族房の保隣各一人に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送し通詳して核辦せしむべし。琉球国より咨送せる原冊に開造せるの蘇章一名は汀州府の龍江県人に係る、等の語に至りては、査するに、閩省汀州府には並えて龍江県無ければ、該府所属の各県内に蘇章其の人有りや無きやを究竟せしめ、並びに即ちに分飭して査覆せしむべし。並びに福臬司に行じて一体に飛速に移行し、分別に遵照して辦理せしむべし。該司、並びに閩省総局・司道に移し、夷務の各委員を督同して移飭して査照せしむるの外、合并して抄片もて行知す。牌を備えて司に到れば、即速に一体に移行し遵辦せしめよ。該司、仍お此の案を査訊し明確なるを俟ち、随時、琉球国王世子に咨覆して査照せしめよ。遅るる毋かれ。速速せよ、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたる興泉永道の具稟は(次の如し)。
奉査したるに「閩省の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国の船の前往して六十余人を拿え回さるること、並びに当時、鎗斃・縊死するものの外、尚お二百余人有りて仍お琉球に在れば、飭して即ちに条約に遵照して𠸄国の夷酋に照会し、先に拿え回りたるの人を将て交出せしめて審辦し、一面には各節を査照して明晰に声覆せしむべし」等の因あり。遵いて経に道より𠸄領事巴遘士に照会して査復せしむ。
旋いで復称に拠るに「査するに、此の案は前に米国領事の移に拠るに称すらく、伊の国の商船一隻の船主曁び水手数名は、倶に船に搭るの閩人に兇殺せらる。後に経に罪を畏れて琉球地方に逃匿したれば、厦門には米国の兵船無きに因り、𠸄船を撥派して前赴せしめ、代為りて兇手を追擒して以て閩省に転交し審辦するに便ならしめんことを求請す。当に経に前領事の蘇は、戦船二隻を特派し、琉球に往赴して逃匿せる閩人数十名を拿え回りて厦に到らしむ。当に米国官船も厦に来たる有り。経に𠸄国の水師官、拿え回りたる閩人等を将て名に按じて交代し明白ならしめ、随いで経に帯びて粤省に至る。米官より章程に依照し、華官に転交して審辦せしむ、とあり。来文の指す所の案内の情節は稽査するに従る無し。煩わくは米国官員に向いて査詢して方めて実情を得さしめんことを」等の語あり。
又、経に請に拠りて米国領事裨烈利に照会し去後れり。
茲に復称に拠るに「按ずるに、此の事は本合衆国に属するに係り、𠸄船に非ざるなり。該船主は沿海に在りて閩省の民人共に四百零一十名を搭せて、本合衆国金山地方に往きて工と作さしめんと欲す。詎んぞ料らん、船、洋面に出て数日、搭せる所の人等は船に在りて機に乗じて乱を作し、船主一名・舵工二名・水手四名を殺死するとは。共に七名に係る。後に殺し余すの水手を強圧して舟を行して崎枝の洋面に至り、暗礁に走り上るの時、衆くの閩人は倶に各々逃走し島に上る。唯だ二十一名のみ留りて船に在り。船は潮に随いて礁を下るに及び、殺し余す所の水手は乃ち機に乗じ、並びに留まる所の二十一名の閩人を載せて厦に転ず。其の兵船は崎洋の海島に到りて諸閩人を拿獲し、経に帯びて粤省に往く有り。本合衆国の大員より、章程に依照して審辦し、罪を定めたる十八名は華官に交するを除くの外、余は皆、本合衆国の兵船に配載し厦に到りて田里に放ち帰らしむ。另に審辦する所の情節は、粤省に在るに縁りて本領事は詳細を甚だしくする無し。但だ思うに、此の案は粤に在りては経已に審辦し定着したれば、則ち其の余は以て問わざるべし。尚お留まりて崎枝洋の海島に在る所の人は、或いは琉球国より船を配して載せ回り、或いは華国船、処に到りて載せ回るも倶に可なり」等の由ありて前来す。
伏して査するに、該夷酋等の先後して照復せる各情は、琉球国王世子の原咨と逐一吻合すること能わずと雖も、其の大概の情形を核べたるに、尚お大いに相剌謬するには至らず。該夷の前咨に、拿え回りたるの数十人は、先に経に粤省に帯往して地方官に交して審辦せしむるを除くの外、余は倶に厦門に載せ回り釈放して完案せり。其の現に琉球に在るの人は、該夷、亦た復た顧みて問わず。惟だ該民人の蔡祥慶等は、平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやは、必ず須らく査訊して明確にし、方めて核実を昭らかにすべし。分別に汀漳龍道・泉州府に移行し、原籍の各県に分飭して迅即に族保・隣佑に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送して通詳し察辦せしむるを除くの外、合に査詢せる情形を将て稟もて察核を乞うべし、との縁由あり。
批を奉けたるに「査するに、現に琉球国に住まるの内地の民人蔡祥慶等は、既に米国の夷領事より前情を移覆するに拠り、該民人等は是れ良なるや是れ匪なるやを、応に即ちに船を配して載せ回りて査訊し辦理すべし。其の前に𠸄船に拿え回さるる数十人の内、称に拠るに、十八名は粤東に帯往せられ、米国の夷官より章程に依照して粤省に転交し、審辦して罪を定めしむ。其の余は船を配して厦に到れば田里に放ち帰らしむべし、等の語あり。応に移咨して査覆せしむべきや否やは、司に仰じて前指に遵照せしめ、並びに蔡祥慶等は応に何船に配して内地に載せ回すべきやを将て、日を剋して心を悉くして妥議し、通詳して察奪せしめよ。一面に各道府に移行し、各籍の県に分飭して族隣に査伝し、切結を訊取し、通詳して核辦せしめよ、並びに𠸄船の載せ回りたる民人は曾て厦に到りて放ち回らせるや否やを査明し、覆を具えて察査せしめよ、仍お督部堂の批示を候て、繳す、稟は抄発す」とあり。並びに興泉永道の移を准けたるに、前因に同じ。各々司に到る。此れを奉准せり。
復た経に両院憲に詳請し、欽差大臣両広督部堂葉(名琛)に移咨して転飭し査覆せしむ。曁び興泉永道・汀漳龍道に分移し、各籍の県に檄飭して各該族隣に査伝し、該民人等は平日家に在りて是れ良なるや是れ匪なるやを訊明し、切実の供結を取具し、通送して核辦せしむ。並びに𠸄船の載せ回りたる民人は曾て厦に到りて放ち回らせるや否やを査明し、覆を具えて察査せしむ。曁び琉球国は現に何項の便船の、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回らしむるに堪うる有るやの処は、福防庁に飭拠して詳称せしめたるところ(次の如し)。
札を奉けたるに、本年、琉球国は何項の便船の閩に来たり、以て着して現琉球に住まるの内地の民人蔡祥慶等を将て配運して内地に載せ回りて審辦するに堪うること有るや無きやを飭査せしめ、日を剋して妥議し、詳覆して察奪せしむ、等の因あり。正に飭査して核辦せしむるの間に在りて、琉球の請諭の正使王舅馬克承等の稟に拠るに称すらく「切かに上年二月二十三日、𠸄船、敝国の八重山島の洋面に漂到する有り。船内の難民三百八十名・𠸄夷一名は上岸したるに、其の船は随即に開去せり。敝国主、当即に飭査せしむ。詢いたるところ、難人蔡祥慶の供称に拠るに、倶に福建の漳・泉各属の人氏に係る。本年二月初一日、厦門に在りて搭船し𠸄国に開往し貿易せんとして、洋に在りて風に遭い、漂流して此に至れば護送せんことを懇求す、等の語あり。当に経に館を設け安頓して撫恤せしむ。三・四両月の間に迨んで、又、𠸄船三隻、先後して到来する有り。𠸄夷は各々器械を持ちて岸に登ること畳次、拿えらるる難民八十余名を船に載せて去る。又、該難民の陸続として病故せる二十三人は、倶に棺衾を給して葬埋するの外、現に在るの二百七十一名は、理として合に船に配して護送すべし。縁みに該通事羅元祐の云うに拠るに、難民は𠸄夷と船に在りて互いに人命を傷つけ肇衅多端なり、等の語あり。若し遽かに該難民を将て内地に護送すれば、誠に恐るらくは、𠸄船の再た来たりて訪拿せんとするも踪無ければ勢い必ず憤怒し、球国は擾を被ること益々甚だしかるべし。是を以て敝国主は先に咨文を具えて承等を遣わして恭しく齎し、二号貢船に搭駕して閩に来たらしめ、呈もて藩憲に咨を給するを詳請するを懇いて案に在り。
復た行に臨むの際に於て命を奉けたるに諄嘱すらく、閩に抵るの後、当に護送を准さるるを蒙るを候ちて、即ちに須らく法を設け、船を購いて梢を撥し咨を齎し、先に趕ぎ回るを行いて、以て辦理するに便ならしむるを准さるるを賜わらんことを稟請すべし、等の語あり。
蓋し八重山島は王府と離隔し地方遙遠なるに因り、船隻、相去くは一年の間に惟だ二・三月内の東北の風汛に乗ずるを得るの時に値たりて方めて駕して該島に抵るべし。伏して思うに、貢船は向に夏至の返棹に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて将に該島に撥往せんとすれば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送して閩に来たるに及ばざらん。況んや該難民の人数甚だ多ければ、久しく海隅に留めんか、瘠土の区たれば祗だ恐るらくは、供応週からず、殊に未だ便ならざること多からん。承等、館に在るの各官は、再四籌商したるも、惟だ迅やかに咨を給するを賜わるを詳請せられんことを籲懇する有るのみ。並びに船隻を購い備え、貢船上の海道を熟諳するの水梢を派撥し、咨を齎し趕緊に回国せしめ、以て船を配して護送し閩に抵るに便ならしむるを允准せられんことを乞う。庶為わくは妥協せられんことを。派撥するの水梢の花名・人数を将て另に造冊を行いて呈送するを除くの外、合に亟やかに情を瀝いて稟を具うべし。
伏して乞うらくは、俯して転詳するを賜わり、恩もて迅やかに咨を給せられんことを。並びに承等、船を購いて趕ぎ回り、以て護送して閩に来たるに便ならしむるを准予され、本国をして以て事無きを得さしめんことを懇う。深く徳便為るべし」等の情あり。転詳して司に到る。
当に査するに、此の案は先に琉球国中山王世子の移咨を准け、即ちに経に情に拠りて詳したれば、前督憲より分別に飭査せしめ、並びに欽差大臣両広督部堂に移咨し、夷酋に咨詢せしめ、閩に覆して遵辦せしめ、並びに漂収・査辦するの各縁由を将て附片もて奏明するを奉じて案に在り。
嗣いで経に興泉永道より米国領事に照会して査覆せしめたるところ、現、琉球に住まるの人は、或いは琉球国より配船して載せ回るも、或いは華国より船を遣わして往載するも倶に可なり、等の情あり。
稟もて前督憲の批を奉けたる局の核議に、省局司道より司に移し、琉球国には現に何項の便船の、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回らしむるに堪うる有るやの処を査明せしめ、咨もて案に帰し、核議して詳辦せしめんことを請う、等の因あり。
又、経に福防庁に檄飭して確査せしめ、本年、琉球国は何項の便船の閩に来たりて、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回り審辦するに堪うること有るや無きや、日を剋して妥議し、詳覆せしめ去後れり。
茲に該庁の詳に拠るに(次の如し)。
該夷使の稟に拠るに称すらく「八重山島は王府と離隔し地方遙遠なれば、船隻往来するに風汛は只だ二・三両月の内に在りて方めて駕して該島に抵るべし。貢船の返棹に至りては、向に夏至に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて該島に撥往するを行わば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送するに及ばざらん。咨を給するを詳請し、並びに船隻を購い備え、以て水梢を派撥し、先に咨を齎し趕ぎ回るを行うに便ならしめ、該民人等を将て船を配して以て秋の間に接貢船隻に随同し、護送して閩に来たるに便ならしむるを准されんことを懇乞う」とあり。応に俯して請う所の如く辦理し、以て稽遅するを免れしめて体恤を示すべきに似たり、とあり。
該庁に飭して、迅やかに該夷使の購い備える何項の船隻を将て、派撥するの水梢の姓名・人数と同に、日を剋して冊を造り結を取りて詳送するを除くの外、合に就ちに文を具えて詳請せしむべし。批示を察核して以て咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしむるに便ならしむれば、実に公便と為す、等の由あり。
詳もて兼署総督部堂王(懿徳)の批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仰むらくは即ちに咨を給し、備に琉球国王世子に移して査照せしめよ、一面、福防庁に飭して迅やかに該夷使の購い備える何項の船隻を将て、派撥するの水梢の姓名・人数と同に、日を剋して冊・結を取造して詳辦せしめよ、遅るる毋かれ、仍お撫部院衙門の批示を候て、繳す、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳の如く辦理せしめよ、仍お督部堂衙門の批示を候て、繳す、各等の因あり。此れを奉けたり。并びに福防庁の詳報に拠るに、該夷使の購買せる梁士快の商船一隻は、派撥するの水梢の姓名と同に冊を造りて呈送す、とありて前来す。
合に就ちに移咨すべし。請煩わくは、査照して迅やかに八重山島に漂収するの内地の民人蔡祥慶等二百七十一名を将て、向例に遵照して官を撥し、護送して閩に来たらしめて審辦せしめんことを。望むこと切なり。速やかなるを望む、等の因あり。国に到る。此れを准けたり。
遵いて即ちに員役を派撥し、船に駕して八重山島に前往し、該難人等を将て向例に遵照し辦理して護送せしむ。
惟だ是れ該難人等の漂収して島に到るは、原共三百八十名、又𠸄夷一名なり。内、経に報じたるの先後して拿え回りたる難人八十名、接回せる𠸄夷一名、鎗斃・縊死するもの六名、病故せるもの二十三名は、倶に経に棺を給し収埋するを除き、又、大疫流行して先後して身故する者、顔退・劉坡・蔡松・陳木・劉悪・石黨・程狡・曾興・許樹・頼沢・黄義・盧発・楊東・蔡採・黄成・林木・呂白・林忠・周守・郭有・林添・蔡大・陳河・胡朝・黄陀・林丁・李湿・柯団・邱樹・柯器・洪進・伝春・許好・董耳・処栄・李坊・陳進・黄自・林周・王海・王所・曾欽・王鏡・呉集・呉杞・鄭年・黄車・張明・頼生・彭能・林本・黄喜・呉路・呉河・葉遠・黄宙・陳帝・陳翁・高六・梁乞・陳両宜・巌元・蘓財・孫味・張江・洪老・林風・王発・陳哖・顔闘・荘勇・何福・呉天・長生・陳合・荘成・王成・李鑾・張束・安約・陳狡・蔡星・李二・張敬・李园・鄭終・黄安・王才・呉怍・黄闖・許興・蔡益等の九十二名、先後して縊死する者、鄭徳成・黄摻・盧忠・黄有等の四名は倶に経に棺を給して収埋するを除くの外、現に在るの陳昌等の一百七十五名は、人数衆多なれば、必ず須らく海船二隻を派撥して分匀して配載し、以て擁擠するを免るべし。
茲に特に都通事の王家錦等を遣わし、梢役を率領して該難人陳昌等七十名を将て海船一隻に駕坐し、前みて閩省に詣らしむ。
統べて例に照らして題明せられんことを祈る。希わくは来船の員伴を将て館駅に安頓せしめ、事務の完竣するを俟ちて、来夏の早汛に於て原船に坐駕して遣発し、返棹するを准されんことを。則ち航海の末員は驚濤の虞を免るるを得るに庶からん。
此の次、貴司曁び両院、仰いで皇上の藩服を懐柔するを体し、向例に照らして船を撥して送り回すを准さるるを渥く荷くす。
又、俯して使臣の請う所の如く、閩に就きて船を購い、咨を齎らして先に回らしめ、時に乗じて護送するを得せしめ、以て惶恐の憂を免るるを蒙り、実に深く感戴せり。此に附して咨もて謝し、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に貴司に咨す。請煩わくは査照して代わりて両院に転詳するを為して、以て謝悃を伸べられんことを。並びに該難人等を将て査収して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
咸豊三年(一八五三)八月十五日
注*本文書は、護送される中国人苦力の代表者名や人数、護送船の都通事名がちがうだけで〔一九四―〇七〕とほぼ同文である。
(1)貴司の咨 〔一九三―一〇〕。
(2)遣 校訂本は「遺」だが台湾本は「遣」。
(3)王家錦 大田親雲上。久米村系王氏十世(『久米村王氏門中会資料(一)』一九八八)。咸豊三年の護送都通事。『宝案』では咸豊八年の在船都通事(巻二〇〇)、同治三年の結状では正議大夫(第三集巻一〇)として名がみえる。
琉球国中山王世子尚(泰)、難人を解送する事の為にす。
照らし得たるに、咸豊三年五月十一日、貴司の咨を准けたるに(次の如く)開せり。
咸豊二年十月二十八日、請諭の正使王舅馬克承・副使の正議大夫梁必達等の稟もて繳めたる王世子の咨に拠るに(次の如く)開せり。
照らし得たるに、咸豊二年三月二十三日、本国属島の八重山地方官の報に拠るに称すらく「咸豊二年二月十九日、𠸄国船隻、本島の崎枝の洋面に漂到する有り。走りて暗礁に上り、正に危急に在れば、該𠸄夷、即ちに搭駕せる中国人三百八十名・𠸄人一名を将て上岸せしむ。翌朝、船纔かに潮に随いて礁を下る。二十三日に至りて上岸の人等を捨て置き開洋して去れり。
詢いたるところ、難人蔡祥慶等の口称に拠るに、慶等は福建泉州府の同安県・晋江県・南安県・恵安県・安渓県、汀州府の龍江県、漳州府の龍渓県等の処の人民に係る。𠸄国に往きて生理を為さんとして該船に搭駕す。咸豊二年二月初一日、厦門に在りて開船し、洋に在りて風に遭い貴島に漂到す。礁に上りて危険なれば、慶等、上岸して其の礁を下るを候つ。乃るに𠸄夷、慶等三百八十名並びに𠸄人一名を将て島に置きて開去せり。船を撥して護送せられんことを懇求す、等の語あり。即ちに例に照らして館に発りて安頓せしめ、食を給して養贍せり。該難人の内、一十名は先後して病故したれば、倶に経に棺を給して埋葬す」等の由ありて前来す。
随即に聖祖仁皇帝の諭旨を欽遵し、将に船を撥して該難人等を護送して閩に到らしめんとす。詎らざるも、四月二十日に於て、又、該地方官の報に拠るに称すらく「三月十六・十八等の日、𠸄船二隻先後して島に到る有り。随いで来歴を訪ねたるに言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は羅、名は元祐、即ち福建海澄県の人なり。称に拠るに、該難人等は前月、𠸄船に搭駕して往きて金山に到らんとするの時、洋に在りて船主・水梢共に六名を兇殺せり。是を以て厦門に駐箚する𠸄官は、船二隻を遣わして島に到りて拿獲して罪を問わんとす、等の語あり。即ちに𠸄人四十余名、兵器を携帯し上岸して査拿する有り。当に経に該難人等、情を講じて𠸄夷に附従する者一十八名、擒獲せらるる者五名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死する者二名あり。其の余は山中に竄躱し拿捕するを得ず。
該通事羅元祐、本官に告げて、該難人等は共に是れ奸邪の匪徒なれば、必ず再た来たりて捕獲せんとす、と云う。乃ち獲らえたる所の二十五名並びに𠸄人一名を将て両隻に派載し、二十三日に於て連䑸して開去せり。該の山中に竄躱せる者は仍ち旧館に来たりて居住す。
本官、即ちに𠸄夷、何の縁故有りて此の如く騒擾せるやと問うに、答えて云う。前月、洋に在るの時、𠸄夷、我が同輩の病を患う者二人を将て海中に抛棄したれば、我等三、四十人、忽然として怒りを発し船主・水梢共に六名を打殺せり。是の時、我が同輩五名も亦た𠸄夷に打殺せらる。今、𠸄夷、専ら此の事の為に島に来たりて騒擾す、等の語あり。
嗣いで四月初四日に於て、又、𠸄船一隻、島に到りて五十七名を拿獲する有り。其の余は山中に竄躱し拿獲するを得ず。該通事、告ぐるに再た来たりて拿尽せんとするを以てす。乃ち獲らえたる所の五十七名を将て原船に載せ、十二日に於て開去せり。該の竄躱せる者は即ちに山中より館に回りて居住す。内、一十三名は先後して病故し、一名は縊死したれば、倶に経に棺を給して埋葬せり。附従する者一十八名、擒獲せらるる者六十二名、並びに接取せる𠸄人一名、鳥鎗に中りて斃るる者三名、縊死せる者三名、前後して病故せる者二十三名を除くの外、現に在るの二百七十一名は旧に仍って収養せり」等の由ありて前来す。
査するに、該難人等は実に天朝の民に係る。今、遠く海島に在りて郷を離れること日久しければ、誠に憐れむべきに属す。本より応に早きに及んで解送して閩に到らしむべし。但だ𠸄夷、其の洋に在りて𠸄国の船主・水梢等を打殺せらるるに因り、怒りを含みて怨みを蓄え、屢々経に船を遣わし島に到り、或いは之を擒らえ、或いは之を殺し、其の山中に竄躱する者は、告ぐるに重ねて来たりて拿尽せんとするを以てす。
且つ顧うに、𠸄夷の兇暴なること非常にして、𪡈𪢝呤の国に留まりてより以来、船隻往来し、常に隙を窺い事を滋さんとするの意有り。若し苟且に船を撥し該難人等を護送して閩に到らしむれば、𠸄夷、重ねて来たるのとき、其の命に違うを以て怒りを発し罪を加えて禍害の国家に及ぶを深く恐る。現今、飭して衣食を給与し、意を加えて撫恤して、護送の挙を将て暫く停止を行わしむ。統べて情に拠りて督/撫両院に転詳し、妥為く査辦せしめ、敝国をして該難人を護送して以て事無きを得さしめんことを祈る。理として合に咨もて請うべし。査照して施行せしを賜覆されたし、等の因ありて司に到る。此れを准けたり。
又、抄片もて行査する事の為にす。
咸豊二年十一月初十日、前総督部堂季(芝昌)の憲箚を奉けたるに(以下の如し)。
照らし得たるに、本部堂、咸豊二年十一月初七日に於て福建撫部院王(懿徳)と会同し、附片もて具奏せるところの、琉球国王世子、使を遣わして咨文を齎到せしめたること、閩省内地の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国夷船の前往して六十余人を拿え回さるること、尚お二百余人は該国に寄寓する有ること、現に経に分別に査辦しつつあることの各縁由の一片あり。硃批を奉到するを俟ちて另に録して飭知するを除き、并びに片稿・原咨・名冊を抄録して、欽差大臣両広督部堂に飛咨し、粤に在るの夷酋に照会せしめ、厦門領事に転飭して迅速に交審せしむ。及た興泉永道に行じて即速に厦防同知を督同し、𠸄国の厦に在るの領事巴遘士に照会し、条約に遵照して迅やかに前に琉球国に在りて拿え回りたるの閩省内地の民人を将て名に按じて交出せしめ、該道・庁等の公を秉りて審辦するを聴候せしめ、並びに抄片内に指す所の各節を将て明晰に実に拠り声覆して核辦せしむべし。一面には、泉州府及び同安・晋江・南安・恵安・安渓等の県に転飭し、一体に該民人等は平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやを確査せしめ、各該族房の保隣各一人に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送して通詳せしむべし。該道は職ら夷務を司れば、必ず須らく督飭して認真に査辦せしめ、稍も泄延して遷就するに任せ、大いに未だ便ならざるに干わるを得る毋からしむべし。
曁た汀漳龍道に行じて漳州府龍渓県に転飭し、該民人等は平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやを確査せしめ、該族房の保隣各一人に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送し通詳して核辦せしむべし。琉球国より咨送せる原冊に開造せるの蘇章一名は汀州府の龍江県人に係る、等の語に至りては、査するに、閩省汀州府には並えて龍江県無ければ、該府所属の各県内に蘇章其の人有りや無きやを究竟せしめ、並びに即ちに分飭して査覆せしむべし。並びに福臬司に行じて一体に飛速に移行し、分別に遵照して辦理せしむべし。該司、並びに閩省総局・司道に移し、夷務の各委員を督同して移飭して査照せしむるの外、合并して抄片もて行知す。牌を備えて司に到れば、即速に一体に移行し遵辦せしめよ。該司、仍お此の案を査訊し明確なるを俟ち、随時、琉球国王世子に咨覆して査照せしめよ。遅るる毋かれ。速速せよ、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたる興泉永道の具稟は(次の如し)。
奉査したるに「閩省の民人蔡祥慶等、洋に在りて琉球地方に漂収して安頓したること、𠸄咭唎国の船の前往して六十余人を拿え回さるること、並びに当時、鎗斃・縊死するものの外、尚お二百余人有りて仍お琉球に在れば、飭して即ちに条約に遵照して𠸄国の夷酋に照会し、先に拿え回りたるの人を将て交出せしめて審辦し、一面には各節を査照して明晰に声覆せしむべし」等の因あり。遵いて経に道より𠸄領事巴遘士に照会して査復せしむ。
旋いで復称に拠るに「査するに、此の案は前に米国領事の移に拠るに称すらく、伊の国の商船一隻の船主曁び水手数名は、倶に船に搭るの閩人に兇殺せらる。後に経に罪を畏れて琉球地方に逃匿したれば、厦門には米国の兵船無きに因り、𠸄船を撥派して前赴せしめ、代為りて兇手を追擒して以て閩省に転交し審辦するに便ならしめんことを求請す。当に経に前領事の蘇は、戦船二隻を特派し、琉球に往赴して逃匿せる閩人数十名を拿え回りて厦に到らしむ。当に米国官船も厦に来たる有り。経に𠸄国の水師官、拿え回りたる閩人等を将て名に按じて交代し明白ならしめ、随いで経に帯びて粤省に至る。米官より章程に依照し、華官に転交して審辦せしむ、とあり。来文の指す所の案内の情節は稽査するに従る無し。煩わくは米国官員に向いて査詢して方めて実情を得さしめんことを」等の語あり。
又、経に請に拠りて米国領事裨烈利に照会し去後れり。
茲に復称に拠るに「按ずるに、此の事は本合衆国に属するに係り、𠸄船に非ざるなり。該船主は沿海に在りて閩省の民人共に四百零一十名を搭せて、本合衆国金山地方に往きて工と作さしめんと欲す。詎んぞ料らん、船、洋面に出て数日、搭せる所の人等は船に在りて機に乗じて乱を作し、船主一名・舵工二名・水手四名を殺死するとは。共に七名に係る。後に殺し余すの水手を強圧して舟を行して崎枝の洋面に至り、暗礁に走り上るの時、衆くの閩人は倶に各々逃走し島に上る。唯だ二十一名のみ留りて船に在り。船は潮に随いて礁を下るに及び、殺し余す所の水手は乃ち機に乗じ、並びに留まる所の二十一名の閩人を載せて厦に転ず。其の兵船は崎洋の海島に到りて諸閩人を拿獲し、経に帯びて粤省に往く有り。本合衆国の大員より、章程に依照して審辦し、罪を定めたる十八名は華官に交するを除くの外、余は皆、本合衆国の兵船に配載し厦に到りて田里に放ち帰らしむ。另に審辦する所の情節は、粤省に在るに縁りて本領事は詳細を甚だしくする無し。但だ思うに、此の案は粤に在りては経已に審辦し定着したれば、則ち其の余は以て問わざるべし。尚お留まりて崎枝洋の海島に在る所の人は、或いは琉球国より船を配して載せ回り、或いは華国船、処に到りて載せ回るも倶に可なり」等の由ありて前来す。
伏して査するに、該夷酋等の先後して照復せる各情は、琉球国王世子の原咨と逐一吻合すること能わずと雖も、其の大概の情形を核べたるに、尚お大いに相剌謬するには至らず。該夷の前咨に、拿え回りたるの数十人は、先に経に粤省に帯往して地方官に交して審辦せしむるを除くの外、余は倶に厦門に載せ回り釈放して完案せり。其の現に琉球に在るの人は、該夷、亦た復た顧みて問わず。惟だ該民人の蔡祥慶等は、平日家に在りて実在、是れ良なるや是れ匪なるやは、必ず須らく査訊して明確にし、方めて核実を昭らかにすべし。分別に汀漳龍道・泉州府に移行し、原籍の各県に分飭して迅即に族保・隣佑に査伝し、切実の供結を訊取し、呈送して通詳し察辦せしむるを除くの外、合に査詢せる情形を将て稟もて察核を乞うべし、との縁由あり。
批を奉けたるに「査するに、現に琉球国に住まるの内地の民人蔡祥慶等は、既に米国の夷領事より前情を移覆するに拠り、該民人等は是れ良なるや是れ匪なるやを、応に即ちに船を配して載せ回りて査訊し辦理すべし。其の前に𠸄船に拿え回さるる数十人の内、称に拠るに、十八名は粤東に帯往せられ、米国の夷官より章程に依照して粤省に転交し、審辦して罪を定めしむ。其の余は船を配して厦に到れば田里に放ち帰らしむべし、等の語あり。応に移咨して査覆せしむべきや否やは、司に仰じて前指に遵照せしめ、並びに蔡祥慶等は応に何船に配して内地に載せ回すべきやを将て、日を剋して心を悉くして妥議し、通詳して察奪せしめよ。一面に各道府に移行し、各籍の県に分飭して族隣に査伝し、切結を訊取し、通詳して核辦せしめよ、並びに𠸄船の載せ回りたる民人は曾て厦に到りて放ち回らせるや否やを査明し、覆を具えて察査せしめよ、仍お督部堂の批示を候て、繳す、稟は抄発す」とあり。並びに興泉永道の移を准けたるに、前因に同じ。各々司に到る。此れを奉准せり。
復た経に両院憲に詳請し、欽差大臣両広督部堂葉(名琛)に移咨して転飭し査覆せしむ。曁び興泉永道・汀漳龍道に分移し、各籍の県に檄飭して各該族隣に査伝し、該民人等は平日家に在りて是れ良なるや是れ匪なるやを訊明し、切実の供結を取具し、通送して核辦せしむ。並びに𠸄船の載せ回りたる民人は曾て厦に到りて放ち回らせるや否やを査明し、覆を具えて察査せしむ。曁び琉球国は現に何項の便船の、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回らしむるに堪うる有るやの処は、福防庁に飭拠して詳称せしめたるところ(次の如し)。
札を奉けたるに、本年、琉球国は何項の便船の閩に来たり、以て着して現琉球に住まるの内地の民人蔡祥慶等を将て配運して内地に載せ回りて審辦するに堪うること有るや無きやを飭査せしめ、日を剋して妥議し、詳覆して察奪せしむ、等の因あり。正に飭査して核辦せしむるの間に在りて、琉球の請諭の正使王舅馬克承等の稟に拠るに称すらく「切かに上年二月二十三日、𠸄船、敝国の八重山島の洋面に漂到する有り。船内の難民三百八十名・𠸄夷一名は上岸したるに、其の船は随即に開去せり。敝国主、当即に飭査せしむ。詢いたるところ、難人蔡祥慶の供称に拠るに、倶に福建の漳・泉各属の人氏に係る。本年二月初一日、厦門に在りて搭船し𠸄国に開往し貿易せんとして、洋に在りて風に遭い、漂流して此に至れば護送せんことを懇求す、等の語あり。当に経に館を設け安頓して撫恤せしむ。三・四両月の間に迨んで、又、𠸄船三隻、先後して到来する有り。𠸄夷は各々器械を持ちて岸に登ること畳次、拿えらるる難民八十余名を船に載せて去る。又、該難民の陸続として病故せる二十三人は、倶に棺衾を給して葬埋するの外、現に在るの二百七十一名は、理として合に船に配して護送すべし。縁みに該通事羅元祐の云うに拠るに、難民は𠸄夷と船に在りて互いに人命を傷つけ肇衅多端なり、等の語あり。若し遽かに該難民を将て内地に護送すれば、誠に恐るらくは、𠸄船の再た来たりて訪拿せんとするも踪無ければ勢い必ず憤怒し、球国は擾を被ること益々甚だしかるべし。是を以て敝国主は先に咨文を具えて承等を遣わして恭しく齎し、二号貢船に搭駕して閩に来たらしめ、呈もて藩憲に咨を給するを詳請するを懇いて案に在り。
復た行に臨むの際に於て命を奉けたるに諄嘱すらく、閩に抵るの後、当に護送を准さるるを蒙るを候ちて、即ちに須らく法を設け、船を購いて梢を撥し咨を齎し、先に趕ぎ回るを行いて、以て辦理するに便ならしむるを准さるるを賜わらんことを稟請すべし、等の語あり。
蓋し八重山島は王府と離隔し地方遙遠なるに因り、船隻、相去くは一年の間に惟だ二・三月内の東北の風汛に乗ずるを得るの時に値たりて方めて駕して該島に抵るべし。伏して思うに、貢船は向に夏至の返棹に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて将に該島に撥往せんとすれば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送して閩に来たるに及ばざらん。況んや該難民の人数甚だ多ければ、久しく海隅に留めんか、瘠土の区たれば祗だ恐るらくは、供応週からず、殊に未だ便ならざること多からん。承等、館に在るの各官は、再四籌商したるも、惟だ迅やかに咨を給するを賜わるを詳請せられんことを籲懇する有るのみ。並びに船隻を購い備え、貢船上の海道を熟諳するの水梢を派撥し、咨を齎し趕緊に回国せしめ、以て船を配して護送し閩に抵るに便ならしむるを允准せられんことを乞う。庶為わくは妥協せられんことを。派撥するの水梢の花名・人数を将て另に造冊を行いて呈送するを除くの外、合に亟やかに情を瀝いて稟を具うべし。
伏して乞うらくは、俯して転詳するを賜わり、恩もて迅やかに咨を給せられんことを。並びに承等、船を購いて趕ぎ回り、以て護送して閩に来たるに便ならしむるを准予され、本国をして以て事無きを得さしめんことを懇う。深く徳便為るべし」等の情あり。転詳して司に到る。
当に査するに、此の案は先に琉球国中山王世子の移咨を准け、即ちに経に情に拠りて詳したれば、前督憲より分別に飭査せしめ、並びに欽差大臣両広督部堂に移咨し、夷酋に咨詢せしめ、閩に覆して遵辦せしめ、並びに漂収・査辦するの各縁由を将て附片もて奏明するを奉じて案に在り。
嗣いで経に興泉永道より米国領事に照会して査覆せしめたるところ、現、琉球に住まるの人は、或いは琉球国より配船して載せ回るも、或いは華国より船を遣わして往載するも倶に可なり、等の情あり。
稟もて前督憲の批を奉けたる局の核議に、省局司道より司に移し、琉球国には現に何項の便船の、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回らしむるに堪うる有るやの処を査明せしめ、咨もて案に帰し、核議して詳辦せしめんことを請う、等の因あり。
又、経に福防庁に檄飭して確査せしめ、本年、琉球国は何項の便船の閩に来たりて、以て着して内地の民人蔡祥慶等を将て載せ回り審辦するに堪うること有るや無きや、日を剋して妥議し、詳覆せしめ去後れり。
茲に該庁の詳に拠るに(次の如し)。
該夷使の稟に拠るに称すらく「八重山島は王府と離隔し地方遙遠なれば、船隻往来するに風汛は只だ二・三両月の内に在りて方めて駕して該島に抵るべし。貢船の返棹に至りては、向に夏至に係る。若し此の時、回国するの後を俟ちて始めて該島に撥往するを行わば、風汛もて行き難く、恐らくは本秋に於ては護送するに及ばざらん。咨を給するを詳請し、並びに船隻を購い備え、以て水梢を派撥し、先に咨を齎し趕ぎ回るを行うに便ならしめ、該民人等を将て船を配して以て秋の間に接貢船隻に随同し、護送して閩に来たるに便ならしむるを准されんことを懇乞う」とあり。応に俯して請う所の如く辦理し、以て稽遅するを免れしめて体恤を示すべきに似たり、とあり。
該庁に飭して、迅やかに該夷使の購い備える何項の船隻を将て、派撥するの水梢の姓名・人数と同に、日を剋して冊を造り結を取りて詳送するを除くの外、合に就ちに文を具えて詳請せしむべし。批示を察核して以て咨を給し、備に該国王世子に移して査照せしむるに便ならしむれば、実に公便と為す、等の由あり。
詳もて兼署総督部堂王(懿徳)の批を奉けたるに、詳に拠りて已に悉れり、仰むらくは即ちに咨を給し、備に琉球国王世子に移して査照せしめよ、一面、福防庁に飭して迅やかに該夷使の購い備える何項の船隻を将て、派撥するの水梢の姓名・人数と同に、日を剋して冊・結を取造して詳辦せしめよ、遅るる毋かれ、仍お撫部院衙門の批示を候て、繳す、とあり。
又、巡撫部院王(懿徳)の批を奉けたるに、詳の如く辦理せしめよ、仍お督部堂衙門の批示を候て、繳す、各等の因あり。此れを奉けたり。并びに福防庁の詳報に拠るに、該夷使の購買せる梁士快の商船一隻は、派撥するの水梢の姓名と同に冊を造りて呈送す、とありて前来す。
合に就ちに移咨すべし。請煩わくは、査照して迅やかに八重山島に漂収するの内地の民人蔡祥慶等二百七十一名を将て、向例に遵照して官を撥し、護送して閩に来たらしめて審辦せしめんことを。望むこと切なり。速やかなるを望む、等の因あり。国に到る。此れを准けたり。
遵いて即ちに員役を派撥し、船に駕して八重山島に前往し、該難人等を将て向例に遵照し辦理して護送せしむ。
惟だ是れ該難人等の漂収して島に到るは、原共三百八十名、又𠸄夷一名なり。内、経に報じたるの先後して拿え回りたる難人八十名、接回せる𠸄夷一名、鎗斃・縊死するもの六名、病故せるもの二十三名は、倶に経に棺を給し収埋するを除き、又、大疫流行して先後して身故する者、顔退・劉坡・蔡松・陳木・劉悪・石黨・程狡・曾興・許樹・頼沢・黄義・盧発・楊東・蔡採・黄成・林木・呂白・林忠・周守・郭有・林添・蔡大・陳河・胡朝・黄陀・林丁・李湿・柯団・邱樹・柯器・洪進・伝春・許好・董耳・処栄・李坊・陳進・黄自・林周・王海・王所・曾欽・王鏡・呉集・呉杞・鄭年・黄車・張明・頼生・彭能・林本・黄喜・呉路・呉河・葉遠・黄宙・陳帝・陳翁・高六・梁乞・陳両宜・巌元・蘓財・孫味・張江・洪老・林風・王発・陳哖・顔闘・荘勇・何福・呉天・長生・陳合・荘成・王成・李鑾・張束・安約・陳狡・蔡星・李二・張敬・李园・鄭終・黄安・王才・呉怍・黄闖・許興・蔡益等の九十二名、先後して縊死する者、鄭徳成・黄摻・盧忠・黄有等の四名は倶に経に棺を給して収埋するを除くの外、現に在るの陳昌等の一百七十五名は、人数衆多なれば、必ず須らく海船二隻を派撥して分匀して配載し、以て擁擠するを免るべし。
茲に特に都通事の王家錦等を遣わし、梢役を率領して該難人陳昌等七十名を将て海船一隻に駕坐し、前みて閩省に詣らしむ。
統べて例に照らして題明せられんことを祈る。希わくは来船の員伴を将て館駅に安頓せしめ、事務の完竣するを俟ちて、来夏の早汛に於て原船に坐駕して遣発し、返棹するを准されんことを。則ち航海の末員は驚濤の虞を免るるを得るに庶からん。
此の次、貴司曁び両院、仰いで皇上の藩服を懐柔するを体し、向例に照らして船を撥して送り回すを准さるるを渥く荷くす。
又、俯して使臣の請う所の如く、閩に就きて船を購い、咨を齎らして先に回らしめ、時に乗じて護送するを得せしめ、以て惶恐の憂を免るるを蒙り、実に深く感戴せり。此に附して咨もて謝し、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に貴司に咨す。請煩わくは査照して代わりて両院に転詳するを為して、以て謝悃を伸べられんことを。並びに該難人等を将て査収して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
咸豊三年(一八五三)八月十五日
注*本文書は、護送される中国人苦力の代表者名や人数、護送船の都通事名がちがうだけで〔一九四―〇七〕とほぼ同文である。
(1)貴司の咨 〔一九三―一〇〕。
(2)遣 校訂本は「遺」だが台湾本は「遣」。
(3)王家錦 大田親雲上。久米村系王氏十世(『久米村王氏門中会資料(一)』一九八八)。咸豊三年の護送都通事。『宝案』では咸豊八年の在船都通事(巻二〇〇)、同治三年の結状では正議大夫(第三集巻一〇)として名がみえる。