もっと知りたい交流史 歴代宝案と琉明関係
琉球と明との関係は、1372年(洪武5年)に洪武帝が使者の楊載を琉球に派遣したことから始まります(太祖実録(二))。これに対して中山王の察度が泰期を明に派遣し(太祖実録(三))、以後琉球は明の朝貢国となります。やがて琉球からは山南王・山北王も明に朝貢するようになり、いわゆる「三山」が並立する時期がしばらく続きました。残念ながら『歴代宝案』に山北王に関わる文書は収録されていませんが、山南王が発信/受信した文書が5件収録されています(歴代宝案1-43-01・02・03・06・07)。
『歴代宝案』に収録される文書の中で最も古いものは、1424年に先帝の永楽帝が死去したことを知らせる洪熙帝の勅諭です(歴代宝案1-01-02)。この勅諭は翌年に中山王尚巴志を冊封する際に洪熙帝の即位の詔(歴代宝案1-01-03)と共に琉球にもたらされ、山南王のもとに転送されました(歴代宝案1-16-01、1-43-03)。当時の明と中山・山南の関係をうかがう上で貴重な史料ですが、山南王に関わる文書は1429年を最後に確認できなくなり、以後は中山王のみが朝貢を行うこととなります(明代を通じた琉球の朝貢回数の推移は【図1 10年期単位の琉球朝貢の動向】)。
「三山」が並立していた14世紀末から15世紀前半は、とりわけ琉球から明への使節派遣が多かった時期でした。他の朝貢国の多くは「三年一貢」(三年に一度の朝貢)であったのに対し、琉球は「朝貢不時」とされ、平均すると一年に三回以上の朝貢を行っていました。明は琉球に対し、とりわけ多数の海船を下賜するなどの優遇政策をとっていましたが、その理由は倭寇の活動などで流動的な海域世界を統制するため、新興勢力であった琉球を取り込んで「受け皿」として活用するためであったとも考えられています。
琉球と他国との関係を見ても、琉明関係の影響が見て取れます。例えば、琉球から暹羅に送られた最初期の咨文には、交易をすることで「以て大明の御前に進貢するに備う」と書かれています(歴代宝案1-40-02)。その後の東南アジア向けの咨文でも決まり文句となるこの表現は、琉球の海上交易が琉明関係を前提としていたことをうかがわせます。
15世紀半ば以降になると、明の琉球優遇政策は徐々に後退していきました。1475年、琉球使節が福州で起こした強盗殺人事件をきっかけに、琉球に対して二年一貢を命ずる勅諭が出されました(歴代宝案1-01-21)。以後一年一貢に戻される時期もあったものの、琉球の明への使節往来は制限を受けることになり、やがて琉球の海上貿易は次第に下火になってゆきます。とはいえ、琉球は豊臣秀吉の朝鮮侵略の際にも明に対して日本の情勢を通報(歴代宝案1-31-31)するなど対明関係を重視し続け、明の滅亡に至るまで朝貢関係を維持し続けたのです。
【参考文献】
岡本弘道『琉球王国海上交渉史研究』榕樹書林、2010
(岡本弘道)