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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-43-01 山南王他魯毎の、洪煕帝の即位を慶賀する表(一四二五、一二、一七)
琉球国山南王臣他魯毎、誠懽誠忭、稽首頓首して上言す。
伏して以うに、天、下民を佑け四時序ありて風雨時あり、五穀熟して民人育つ。恭しく惟うに、皇帝陛下、天を承け命を受け、宇内に君師たり。相して以て之を奠め、和して以て之を安んず。是を以て克く天心を享け、永く宝暦を膺け、一統文明の治を大いにし、万世太平の基を開く。
臣他魯毎、恭しく聖君の天位に嗣登するに遇い、遠く蕃維に処れども心は馳せて遥賀し、紫宸を仰ぎて三祝し、聖寿の以て天と斉しきを祈る。天を瞻み聖を仰ぎ激切屛営の至りに任うる無し。謹んで表を奉り賀を称して以聞す。
洪煕元年(一四二五)十二月十七日 琉球国山南王臣他魯毎、謹んで上表す
注*『歴代宝案』巻四三に収められる洪煕元年〔四三-〇一〕から宣徳四年〔四三-〇七〕までの五通の文書は、山南王に関する貴重な同時代史料である。
(1)山南王 沖縄本島南部を勢力圏とする(〔一六-〇一〕注(4)参照)。山南については『明実録』に、洪武十三年以来の山南王承察度・王叔汪英紫氏の度々の遣使と、永楽元年以降は、王弟汪応祖が二年に王に冊封されて入貢を続けたことが記されている。汪応祖の次の王が本文書の他魯毎である。
(2)他魯毎 『明実録』永楽十三年三月丁巳の条の山南王汪応祖の世子他魯毎の遣使請封の記事中に、汪応祖が兄の達勃期に殺され、各寨官が達勃期を誅して他魯毎を推挙したことが記されている。『明実録』には、同年五月の他魯毎に対する山南王冊封の記事の他、永楽十四年、十五年、二十二年、宣徳二年、四年に山南王他魯毎の入貢の記事があるが、それ以後山南王の名は見られない。
『世譜』は他魯毎を汪応祖の長子とし、即位の事情について記すところは『明実録』に同じで、宣徳四年(一四二九)中山王尚巴志によって滅ぼされた、とする。
一方、『蔡鐸本中山世譜』その他によって、汪応祖は尚巴志のことであり、他魯毎はその長子であるとする和田久徳「琉球国の三山統一についての新考察」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二八、昭和五〇年)があり、同論文は中山の外交文書集である『歴代宝案』に山南の文書が含まれる事情についても論じている。
琉球国山南王臣他魯毎、誠懽誠忭、稽首頓首して上言す。
伏して以うに、天、下民を佑け四時序ありて風雨時あり、五穀熟して民人育つ。恭しく惟うに、皇帝陛下、天を承け命を受け、宇内に君師たり。相して以て之を奠め、和して以て之を安んず。是を以て克く天心を享け、永く宝暦を膺け、一統文明の治を大いにし、万世太平の基を開く。
臣他魯毎、恭しく聖君の天位に嗣登するに遇い、遠く蕃維に処れども心は馳せて遥賀し、紫宸を仰ぎて三祝し、聖寿の以て天と斉しきを祈る。天を瞻み聖を仰ぎ激切屛営の至りに任うる無し。謹んで表を奉り賀を称して以聞す。
洪煕元年(一四二五)十二月十七日 琉球国山南王臣他魯毎、謹んで上表す
注*『歴代宝案』巻四三に収められる洪煕元年〔四三-〇一〕から宣徳四年〔四三-〇七〕までの五通の文書は、山南王に関する貴重な同時代史料である。
(1)山南王 沖縄本島南部を勢力圏とする(〔一六-〇一〕注(4)参照)。山南については『明実録』に、洪武十三年以来の山南王承察度・王叔汪英紫氏の度々の遣使と、永楽元年以降は、王弟汪応祖が二年に王に冊封されて入貢を続けたことが記されている。汪応祖の次の王が本文書の他魯毎である。
(2)他魯毎 『明実録』永楽十三年三月丁巳の条の山南王汪応祖の世子他魯毎の遣使請封の記事中に、汪応祖が兄の達勃期に殺され、各寨官が達勃期を誅して他魯毎を推挙したことが記されている。『明実録』には、同年五月の他魯毎に対する山南王冊封の記事の他、永楽十四年、十五年、二十二年、宣徳二年、四年に山南王他魯毎の入貢の記事があるが、それ以後山南王の名は見られない。
『世譜』は他魯毎を汪応祖の長子とし、即位の事情について記すところは『明実録』に同じで、宣徳四年(一四二九)中山王尚巴志によって滅ぼされた、とする。
一方、『蔡鐸本中山世譜』その他によって、汪応祖は尚巴志のことであり、他魯毎はその長子であるとする和田久徳「琉球国の三山統一についての新考察」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二八、昭和五〇年)があり、同論文は中山の外交文書集である『歴代宝案』に山南の文書が含まれる事情についても論じている。