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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-01-02 皇帝より国王(世子ノ誤)尚巴志へ、永楽帝の死去を報ずる勅諭(一四二四、八、一六)
皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。
我が皇考大行皇帝、天下の生霊の為に胡寇を討平し、振旅し班師するも、不幸にして則ち七月十八日賓天す。中外の臣民に遺命し、喪服の礼儀は、一に太祖高皇帝の遺制に遵わしむ。特に王に報じて之を知らしむ。故に諭す。
宝
永楽二十二年(一四二四)八月十六日
注*『明実録』永楽二十二年九月己卯の条に、行人周彜を遣わし勅をもたらしめた記事があり、勅は本文書および〔〇一-〇三〕をさすと思われる。しかし〔〇一-〇四〕に行人周彜を遣わす、〔〇一-〇五〕に内官柴山を遣わす、とある他、〔一六-〇一〕には、永楽帝の死去を報ずる勅諭を齎捧した行人陳資茂が、尚巴志冊封と思紹諭祭のための使者、内官柴山・行人周彜と共に洪煕元年六月に琉球に至った、とある。又、『明実録』洪煕元年四月丙寅の条には、世子尚巴志が永楽帝の万寿聖節を賀して入貢し「蓋詔書未至琉球故也」と記されている。
本文書をもたらすべき使者は陳資茂に変更となり、出発も『明実録』に尚巴志冊封の遣使の記事のある洪煕元年二月辛丑朔(〔〇一-〇四〕〔〇一-〇五〕も同じ)以降となり、冊封の使柴山、諭祭の使周彜と共に琉球に至ったのであろう。したがって〔〇一-〇二〕から〔〇一-〇六〕までは同時にもたらされたものである。
(1)皇帝 明朝第四代の仁宗洪煕帝。永楽二十二年(一四二四)八月丁巳(十五日)即位。在位一四二四-二五年。
(2)中山王 中山王世子の誤りか。
(3)皇考 薨去した先代の天子。
(4)大行皇帝 薨去してまだ謚がつかない間の天子の呼称。ここでは明朝第三代の成祖永楽帝(在位一四〇二-二四年)。
(5)生霊 人民。
(6)胡寇を討平 胡は塞外民族、北狄。永楽帝は一四〇五年(永楽三)から一四二四年までに五回にわたって、塞北のモンゴル軍を親征し、第五次の遠征の帰途に病死した。
(7)振旅し班師 振旅は隊をととのえて軍が帰還すること。班師は軍をかえすこと。あわせて凱旋する意。
(8)賓天 天子の崩御をいう。
(9)太祖高皇帝 明朝の創始者である洪武帝。その廟号が太祖。謚が高皇帝。
(10)故に諭す 勅書の結びの用語。冒頭の「皇帝勅諭」と対応する常套語。
(11)宝 天子の印のこと。原文書のこの部分(実際は年時の上)に御宝が捺してあったことを示したもの。
皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。
我が皇考大行皇帝、天下の生霊の為に胡寇を討平し、振旅し班師するも、不幸にして則ち七月十八日賓天す。中外の臣民に遺命し、喪服の礼儀は、一に太祖高皇帝の遺制に遵わしむ。特に王に報じて之を知らしむ。故に諭す。
宝
永楽二十二年(一四二四)八月十六日
注*『明実録』永楽二十二年九月己卯の条に、行人周彜を遣わし勅をもたらしめた記事があり、勅は本文書および〔〇一-〇三〕をさすと思われる。しかし〔〇一-〇四〕に行人周彜を遣わす、〔〇一-〇五〕に内官柴山を遣わす、とある他、〔一六-〇一〕には、永楽帝の死去を報ずる勅諭を齎捧した行人陳資茂が、尚巴志冊封と思紹諭祭のための使者、内官柴山・行人周彜と共に洪煕元年六月に琉球に至った、とある。又、『明実録』洪煕元年四月丙寅の条には、世子尚巴志が永楽帝の万寿聖節を賀して入貢し「蓋詔書未至琉球故也」と記されている。
本文書をもたらすべき使者は陳資茂に変更となり、出発も『明実録』に尚巴志冊封の遣使の記事のある洪煕元年二月辛丑朔(〔〇一-〇四〕〔〇一-〇五〕も同じ)以降となり、冊封の使柴山、諭祭の使周彜と共に琉球に至ったのであろう。したがって〔〇一-〇二〕から〔〇一-〇六〕までは同時にもたらされたものである。
(1)皇帝 明朝第四代の仁宗洪煕帝。永楽二十二年(一四二四)八月丁巳(十五日)即位。在位一四二四-二五年。
(2)中山王 中山王世子の誤りか。
(3)皇考 薨去した先代の天子。
(4)大行皇帝 薨去してまだ謚がつかない間の天子の呼称。ここでは明朝第三代の成祖永楽帝(在位一四〇二-二四年)。
(5)生霊 人民。
(6)胡寇を討平 胡は塞外民族、北狄。永楽帝は一四〇五年(永楽三)から一四二四年までに五回にわたって、塞北のモンゴル軍を親征し、第五次の遠征の帰途に病死した。
(7)振旅し班師 振旅は隊をととのえて軍が帰還すること。班師は軍をかえすこと。あわせて凱旋する意。
(8)賓天 天子の崩御をいう。
(9)太祖高皇帝 明朝の創始者である洪武帝。その廟号が太祖。謚が高皇帝。
(10)故に諭す 勅書の結びの用語。冒頭の「皇帝勅諭」と対応する常套語。
(11)宝 天子の印のこと。原文書のこの部分(実際は年時の上)に御宝が捺してあったことを示したもの。