進貢活動を支えたエキスパート②五主
五主とは
五主とは、吾主とも書きます。渡唐船が福州に滞在中に才府や官舎といった貿易を担当する役人(『歴代宝案』では主に「在船使者」と書かれています)の下で実務を行う役目の者をさしています。進貢船もしくは接貢船には一隻あたりに10名、護送船の場合は6名が派遣されていました。10名派遣される場合は、大五主2名、脇五主3名、時役1名、南風文子1名、三方目1名、四方目2名で構成され眞境名安興の『沖縄一千年史』(島倉竜治・真境名安興共著、1923年)のなかでは、それぞれ担当する貿易物品が分かれていたと述べられており、「貢船の唐物を取扱うものに吾主という役目がある。大吾主は2人で常置され、脇吾主は8(ママ)人で年ごとに交代する。そして大吾主は薩摩藩主御用の唐物を購入し上納することを命ぜられた者で、脇吾主はそれぞれ分担がある。たとえば薬種類を購入する者、反物類を購入する者、砂糖・紙類あるいは香物を購入する者などである。その下に南風文子、三方目のように金銭の出納を管理する者、あるいは四方目のように国王御用の茶や糸反物類を購入する者、あるいは三司官以下の士族または薩摩の役人の用を務める者もいる」とあります。
五主の職務

CC BY4.0 一部改変)
(https://creativecommons.jp/licenses/)
では、具体的に五主達は福州でどのような活動をしていたのでしょうか。
首里王府の行政の中心を担った評定所の記録である「産物方日記(同治七年~八年、1687号)」(『琉球王国評定所文書』第16巻)では、福州の街を五主達が必要な品物を探索する様子が記録されており、五主の福州での貿易業務における活動を垣間見ることができます。
また、五主の中には福州滞在中に様々な技術を習得し、その技術を琉球にもたらすきっかけとなった者もいます。
口唇口蓋裂の手術法(補唇術)を福州で学び、琉球に伝えた人物としては久米村の魏士哲(平敷屋通事親雲上、後の高嶺親方)が知られていますが、彼の家譜の記録(『那覇市史』資料篇第1巻6)には、補唇術を最初に耳にしたのは五主役として福州に滞在していた大嶺詮勇という者であったことが記述されています。大嶺はすでに何度か中国を往来していることから中国語に長けていました。大嶺は偶然補唇術の技術をもつ医師の存在を知り、水梢として共に福州を訪れていた妻の兄與那嶺が生まれつき「欠唇」だったのでその医師の元に連れて行き、手術を受けさせることができたのです。これをきっかけとして魏士哲は福州の医師黄会友のもとで技術を学んだと記録されています。
関忠勇(大見武憑武、後に嘉手納親雲上)は、紙漉きや煮貝の技術(漆器製作に用いる貝片の作り方)を琉球にもたらした人物として知られていますが、彼の生涯の多くは五主や北京宰領といった貿易担当者として記録されています。関忠勇は 1642年(崇禎15)生まれで、1663年から65年(康煕2~4)までは壺細工でしたが、病により職を辞した後五主となっています。1666年(康煕5)満24歳の時に四方目として進貢二号船にて渡唐し、1667年には脇五主、1669年には大五主となっています。1673年以降は北京宰領となり、また1686年には荷付として薩摩にも赴いています。関忠勇は、中国や薩摩に滞在中、様々な工芸技術を学び、琉球に持ち帰りました。1682年の謝恩使の派遣の際北京宰領として渡唐した関忠勇は、杭州にて「白糸挽拵」「縮緬織煮」について学び、1686年には荷付として派遣された薩摩で楮を主原料とした紙である杉原紙の製紙法を学びました。また、1690年に北京宰領として上京した際、揚州にて煮貝の技術を学んでいます。1699年にはこれらの功績がみとめられ、家譜への記述が許されるとともに、系図を持たない無系の百姓身分から士の身分へと取り立てられ、1704年には北谷間切嘉手納の地頭職に任じられています(『那覇市史』資料篇第1巻8)。
家譜に残されている五主達の記録はそう多くはありませんが、彼らの多くは中国語に長けており、また貿易の実務者として活動していたことから、福州での情報収集力や人的なネットワークを有し、行動範囲が広かったことが推測されます。彼らの人的なコネクションの存在を知る事例として、五主や船方が福州で中国人に借金をすることがあったことが挙げられます。「田里筑登之親雲上渡唐準備日記」(渡名喜明「〈資料紹介〉田里筑登之親雲上渡唐準備日記(一)」『紀要』第1号、沖縄県教育委員会文化課、1984年)に、中国の商人達から借銀をする五主や船方がいることを憂慮する触書があることから、彼らの行動力やコミュニケ-ション能力が福州の商人相手に借金ができる程度には高いものだったと考えられます。

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五主の人選
五主の人選については、五主として渡唐を希望する者の中から、渡唐船の官舎・才府および筆者達の意向もふまえて、ふさわしい者を任じる形をとっていたようです。評定所の記録のうち、「八重山島江異国船来着唐人𠸄人等下置候付一巻帳」(『琉球王国評定所文書』第6巻)には、護送船にて派遣する五主の人選についてまとめられた文書があり、貿易業務に携わるによりふさわしい五主役を選びたい役人達と、一方で五主役の機会を逃したくない五主候補達との応酬の記録が残されています。
また、18世紀に三司官を勤めた伊江親方朝睦の日記である『伊江親方日々記』(『沖縄県史』資料編7「伊江親方日々記」近世1、沖縄県教育委員会、1999年)のなかには、五主等の旅役をめぐって士族層との複雑な関係性をうかがわせる記録を見ることができます。
1811年(嘉慶16)1月25日に、池原筑登之親雲上という者が、伊江親方(朝睦)を頼って、渡唐役人の永松里之子親雲上に対して屋比久筑登之を五主役にという口利きを依頼したことが記録されています。朝睦は永松里之子親雲上に相談し、結果屋比久は五主役として渡唐することができたようです。屋比久は進貢船が帰国した1813年の6月6日に朝睦のもとを訪れ、「清明茶」や「氷砂糖」などのお土産を朝睦に贈っています。
また、朝睦は他にも五主役の口利きを他の士族に依頼した記録がありますが、この時は相手の士族から自身の家内困窮時に援助をしてくれた者からすでに五主役の口利きを依頼されている、ということで前向きとは言えない返事がありました。このように、五主役などの旅役を希望する者が、奉公先の士族を頼り、渡唐予定の役人への口利きを依頼する場合があり、また家内困窮の折りに金銭的な援助を受けたことがある者の願いに報いる形で五主役への肝煎に奔走する士族の様子が記録されています。『伊江親方日々記』にみえる文書中の「由緒之者」や「無拠者」といった表現からも、口利きを依頼された士族としても無碍にはできない関係性があったことがわかる記録です。
五主の移動と功績
五主の中には、生涯多くの時期を琉球と中国の間を移動し、さらには福州から帰国後も荷付という勤めで、貿易品と共に薩摩に赴くなど、一年のほとんどを琉球の外で過ごす者もいたようです。ここでは、五主の一人であり、後に五主としての活動が功績として認められて新参士となった林維新(瀬名波筑登之親雲上成英)(『那覇市史』資料篇第1巻8)を例に取りあげ、彼の家譜の記録から五主の移動の様子と、王府が彼のどのような部分を功績として評価したのかを見てみましょう。
林維新は 1694年(康煕33)に若狭町村に生まれました。1718年に満24歳で三方目として渡唐、1720年に南風文子、1722年に脇五主となっています。その後、1724年から1730年(雍正2~8)までに脇五主を6度勤め、1731年に大五主となりました。大五主としては、1751(乾隆16)年までに9度勤め、五主としての勤めのあいだには、「糸荷付」として薩摩にも赴いています。1756年(乾隆21)に満62歳で亡くなる数年前、1753年までの間に林維新が移動したのは中国へ18回、薩摩へ8回となっています。1751年にはそれまでの功績が認められて家譜を賜り、新参士となりました。
林維新の琉球と中国の移動の様子やその回数は五主の渡唐の特徴とも言えます。数年連続して渡唐している場合もあり、例えば1724年から1732年の間、1728年の帰路において宮古島に漂着したことを除けば、毎年那覇と福州の間を往復していることになります。さらに薩摩に赴く場合もあり、一年の内の大半を琉球国外で過ごしている年もあります。
林維新は五主としての働きが認められ、1751年に家譜を賜りますが、文書には彼が五主や荷付役として中国や薩摩へあわせて24回移動しており、貿易上の慣習をよく理解し、また中国語が巧みであったことや、船頭や佐事と同様に船乗りとしてもよく働いたことが記されています。さらには、福州滞在中における遣銀(関係部署・役人への礼銀)の取扱についても功績があったと、進貢使節の正使である耳目官や副使の正議大夫をはじめとした渡唐役者の評価もあります。こういったことが功績として王府に認められていることから、林維新の働きは五主として理想的であったと考えることができます。
(冨田千夏)
【参考文献】
- 冨田千夏「第3章:管船直庫(船頭)・五主と接貢船」『琉球王国接貢制度の研究 : 清代における「接貢」に関わる人々の往還の分析 : 家譜資料を中心に』(琉球大学, 2014年)
- 冨田千夏「琉球~中国を移動する五主-琉球の環海性による事象の一例として-」『東アジアの文化と琉球・沖縄 琉球/沖縄・日本・中国・越南』(琉球大学 人の移動と21世紀のグロ-バル社会 Ⅱ、彩流社、2010年)