琉球の外交方針の決定プロセスと『歴代宝案』①伴送官の拡充
伴送官の拡充

那覇を出航し、福州に到着した琉球国王の使者は朝貢品をともなって清朝皇帝のいる北京を目指します。およそ3000㎞もある長い行程です。20人ほどの琉球人と朝貢品だけとはいえ、山を越えたり川を上ったりする困難な旅程でした。当然、琉球人だけで向かうのではなく、清朝から護送のための役人が同伴しました。それが伴送官です。
伴送官は、福州と北京を往還する琉球人と朝貢品の北京行きの責任者として、その重責を果たします。清朝のはじめのころの伴送官は巡検(県知事の属官)など官位の低い役人(文官)一人だけでつとめていましたが、1770年(乾隆35)からは同知や知州(府・州の長官の補佐官)などの役人(文官)がつとめており、それまでに比べて官位が高くなっています。その後、1812年(嘉慶17)以降になると伴送官の人数は基本的に文官二人・武官一人の三人となり、文官は道台や知府(府の長官)というさらに高官が充てられ、副員を同知や知州などが担いました。また、武官は参将や副将、総兵などが伴送官を任命されたことも確認できます。このように、清代の伴送官制度は段階的に拡充されていきました。
使者派遣か、代奏か

伴送官制度の拡充は待遇改善を意味しますので、宗主国(清朝)から朝貢国(琉球)への恩恵のひとつと考えられました。そのため、琉球国王は清朝皇帝に伴送官増員に対する謝意を示す必要がありましたが、そのためにはいくつか考慮すべき問題がありました。
そのひとつは、謝礼を述べる方法です。琉球国王から清朝皇帝への謝礼の示し方には、いくつかの方法がありました。もっとも敬意を表する方法は特使の派遣です。おもに王位を承認する冊封などで取られた方法で、この使節を謝恩使などと表記します。謝意を示す方法にはほかにも謝礼の任務を進貢使に兼務させる兼任方式のほか、使者は派遣せずに国王からの謝意を福建省の役人に代わりに伝えてもらう「代奏」(転奏とも書きます)という方法もあります。特使派遣がもっとも格式の高い方法ですが、みだりに特使を派遣すると、例えば冊封謝恩などほかの謝礼の意味が軽くなってしまうばかりか、特使への接遇が必要となるため清朝側の負担となるかもしれません。そのため兼任方式や代奏も現実的な対応でした。
また、タイミングの問題もありました。琉球からは二年に一度、北京まで赴く進貢使節が派遣されますが、進貢使節が派遣されない年には進貢使を迎えるために接貢船が派遣されます。接貢船にも王府の役人が乗っていますが、かれらは北京までは行きません。兼任方式は、謝意を示す意味では代奏よりも重い謝礼方法と言えますが、代奏は接貢船で清朝に赴く使者でもおこなえるため、タイミング次第では代奏の方が早く謝礼を述べることができました。使者派遣のタイミングと、清朝への謝意の「度合い」を検討する必要があったと言えます。
慣例や先例があれば、検討すべき問題はタイミングだけとなるはずですが、先例のない場合、王府は謝礼の時期や方法(特使、兼任、代奏)について、類例を参考にしながら対応を決めました。また、王府だけでは判断ができない場合には福建の役人などに判断を仰いでいます。『歴代宝案』(2-115-11 )には、1812年の伴送官の拡充に対する謝礼について、兼任方式とすべきか、あるいは代奏とすべきかについて、福建布政使司を介して福建省を統括する閩浙総督と福建巡撫に照会する内容が含まれています。琉球国王から福建布政使司に宛てた書状の文面の一部を見てみましょう。はじめに読み下し文を引用し、意訳を提示したいと思います。
[読み下し文]
(前略)本爵は世々皇恩を蒙り、天朝に納款し、貢期に逢う毎に、経に員一人を派し、使臣を伴送して京に赴かしむるを蒙る。此れ亦た、皇上の懐柔するの隆恩より出づ。曷ぞ感激に勝えんや。
茲に前届の伴送官那紱、京に在りて病故したるに縁り、特に大皇帝の諭令を蒙り、幹員二人を揀派し、京より使臣を伴送せしむ。嗣後、使臣の入貢する有るに遇えば、文武の員弁内より明幹なる者両三人を遴派し、伴送して京に来たらしむ。此れ誠に皇上の格外の開恩、遠藩を綏懐するの至意にして、已む無くして又已む無き者なり。
茲に天恩に感激するの意を具奏して謝恩せんと欲するも、未だ敢えて遽かに瀆奏を行わず。応に貢期を俟ちて奏謝すべきや、或いは両院の代わりて題謝を為すべきや否やは、煩為わくは両院に転詳して酌宜し施行せられんことを、等の因あり(後略)。
[意訳]
わたし琉球国王尚灝は、代々清朝皇帝の恩恵を受け、清朝に進貢し、貢期に当たって北京へ上るごとに役人一人を派遣してもらい、琉球の使者を護送して北京まで送っていただいている。これは、皇帝の琉球を気遣う厚意により実施されるものである。どうしてこの配慮に感激せずにいられようか。
前回の伴送官である那紱(人名)が北京で病故したため、特に皇帝の命により、適任者二人を選抜して派遣し、北京より琉球の使者を護送し、今後、琉球の使者が北京へ赴く際には、文官・武官より適任者二、三人を選んで派遣し、護送して北京に連れ上るようにせよ、という命令があった。この命令は誠に皇帝の特別な恩恵であり、遠い地にある琉球ヘの最大の気遣いであり、やむことのない大きな恵みである。
そのためここに、このご配慮に感激した気持ちを上奏して謝恩したいが、みだりに上奏を行いたくない。そこで進貢使派遣の機会に上奏文で謝意を示すべきか、あるいは福建総督・巡撫に代奏をお願いすべきかを、総督・巡撫に取り次いで報告して決定していただきたい。
『歴代宝案』に見えるように、王府は、国王からの謝礼を兼任使者に述べさせるべきか、代奏にすべきかを福建を管轄する清朝の役人(総督・巡撫)に委ねたのです。その結果、福建布政使司は、代奏案を総督・巡撫に提案し、総督と巡撫は、琉球側から送られてきた「摺稿」(上奏文の写し)を引用して皇帝に提出しました。こうして、王府は福建の役人と連携し、伴送官制度拡充をめぐる外交交渉を無事に解決しました。
『歴代宝案』からは、このような王府の政治決定のプロセスや、そのむずかしさを垣間見ることができます。
伴送官拡充への対応から
さて、この事例から、王府のどのような外交姿勢がうかがえるでしょうか。
まずは、王府の外交的な判断は、案件によっては王府だけで対応を決定しなかったということです。さきに述べたように、タイミングや謝意の「度合い」を踏まえて謝意を示す必要がありましたが、ほかにも清朝側の事情を考慮する必要があったはずです。とくに福建当局との調整は重要でした。首里王府と清朝との外交は、首里と北京のあいだで展開しただけでなく、福建との折衝を踏まえて展開していたと言えるでしょう。
つぎに、王府は慎重かつ細やかな外交を展開したということです。伴送官拡充に対して王府は謝礼方法を丁寧に検討しました。外交手続きに関する内容のため、現代のわたしたちにとっては、実感の伴わない事例かもしれませんが、支配・被支配関係や階層性を前提とする国際関係のなかに置かれた王府は、高度な政治判断と調整能力が求められる外交交渉を展開したと言えます。なお、この交渉からおよそ45年後の王府史料には、この時の王府の対応は、清朝側の印象も良い判断であったと述べられています(②太平軍への対応、参照)。1812年からの伴送官増員に対する謝礼方針の決定は、清朝との外交が成功した事例として記録され、後代の案件の参考となっていったのです。(麻生伸一)
【参考文献】
- 陳碩炫「清代琉球進貢使節派遣日程について」赤嶺守・朱徳蘭・謝必震編『中国と琉球 人の移動を探る 明清時代を中心としたデータの構築と研究』彩流社、2013年。
- 豊見山和行『琉球王国の外交と王権』吉川弘文館、2004年。