もっと知りたい交流史 進貢活動を支えたエキスパート①船方・船頭
進貢活動のために中国へ赴く琉球人は、直接外交業務に関わる者だけではありませんでした。「船方」と呼ばれる、船頭や佐事、水主のような船乗り達や、貿易の実務を担当する五主といった実務者達がいました。
船頭をのぞき、彼らのほとんどは『歴代宝案』に名前すら記録されていませんが、福州と那覇の安全な移動や、福州での貿易等、琉球の中国における様々な活動には、彼らの存在が大きく関わっていました。ここでは、航海の責任者である船頭と貿易の実務担当の五主に焦点をあててみていきましょう。
船方・船頭とは

船頭以下の船乗りたちを総称して「船方」といいます。そのトップである「船頭」は琉球の呼称で、渡唐の際の渡航証明書となる「執照」では「管船直庫」として、個人の名前も記されています。船頭の下に補佐役として佐事(作事とも)や水夫の定加子・水主(下級水夫)といった乗組員がおり、彼らは『宝案』では単に「水梢」と記されています。船頭は船舶と航海の総責任者にあたり、那覇と福州の間の往来にあたっては高い技術と経験が求められたとされています。雍正~乾隆年間に船頭として活動した若狭町村の阮開基(照喜納筑登之親雲上)の家譜の記録(『那覇市史』資料篇第1巻8)には、「その上、右照喜納事、水主より渡唐船頭まで旅数28度」と、阮開基が水主から船頭に到るまで、28回の渡航経験があり、また彼の兄弟である安次嶺掟親雲上や安次嶺筑登之親雲上も「二男安次嶺、三男安次嶺にも水主より渡唐作事まで、旅数20度余ずつ相い勤め」と、水主から佐事に到るまで20回ほどの経験があると記されており、船頭をはじめとする船方が琉球とその他の地域を多く移動し、経験を積み重ねていたことがわかります。
船頭の人選は、「田里筑登之親雲上渡唐準備日記」(渡名喜明「〈資料紹介〉田里筑登之親雲上渡唐準備日記(一)」『紀要』第1号、沖縄県教育委員会文化課、1984年)によれば、在船使者の才府や官舎など渡唐船の上級役人と海運関係を所管する御船手奉行、さらに田畑の管理や進貢船の出入を所管する高奉行が船手座に集合して協議を行っていたことが記録されており、経験や功績などを踏まえ選出されていました。
船方・船頭の職務

CC BY4.0 一部改変)
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船頭をはじめとした船方達には、安全に福州-那覇の間を航行することが求められていました。そのためにも、航路上にある中国福建や浙江の沿岸地域で遭遇する可能性がある海賊への防戦も必要なことでした。沖縄県立図書館所蔵の「戌秋走小唐船方陣賦」は、海上にて海賊に遭遇した場合の乗務員達の船上配置図になっています。図の下部には名前や役職が明記された付箋が並べて貼り付けられていますが、本来は配置図上の各武器の担当として貼られていたものが剥がれたと考えられています(富島壯英「唐船(進貢船・接貢船)に関する覚書-全乗船者の構成を中心に-」『歴代宝案研究』第6・7合併号、1996年)。海賊に対抗し、無事に防戦できたとして船頭や船方だけでなく才府や大通事といった渡唐役者も褒賞を受けている事例が、当時の船頭であった昂永基(山田筑登之親雲上)の家譜記録にあり、乗務員一丸となって海賊に立ち向かうことが求められていたことがわかります(『那覇市史』資料篇第1巻8)。
また、渡唐船が福州を出港して那覇へ向かう時期の見極めも安全な航海にとっては重要で、そこは船頭の判断に拠るところが大きかったようです。首里王府の最高審議機関である評定所の記録「御条書写」(『琉球王国評定所文書』第1巻)の薩摩からの指示に、渡唐船の帰国途中の破損や漂着の理由として中国出国の時期が遅いことが原因ではないか、と船頭らに対して福州の出帆時期についてしっかり検討するようにとあります。薩摩側としても、渡唐船が那覇に帰帆した後、貿易品が無事に薩摩まで送り届けられることが重要でしたので、そのためにも福州-琉球間を安全に航行することは大事なことであったと考えられます。
さらに、渡唐船の維持管理も船頭の職務のひとつとされていました。評定所の記録「年中各月日記(帳当座)」(『琉球王国評定所文書』第12巻)には、渡唐船の維持管理に関して船頭や佐事達から御船手奉行に宛てられた提案書に類する文書が収められています。これには、基本的な渡唐船のメンテナンス方法について述べられており、出帆前と帰国後の全体的なメンテナンスや福州に滞在中は毎日船に潮を打つかもしくは洗うようにすることとあります。さらには渡唐船の状態維持に良い方法を吟味するようにと指示がなされるなど、船頭達が専門的な知識を生かして船の耐久年数を保つ方法等を検討している様子がうかがわれます。
船頭の移動
『歴代宝案』に収録されている執照には、船頭(管船直庫)としてのべ313人が記録されています。派遣回数を調べてみると1回の者が67人、2回が27人、3回が24人、4回が11人、5回が4人、6回が3人、7回が2人、それ以上が3人となっています。最も回数が多いのは丙起才の13回で、1688~1701年(康煕27~40)の間に、進貢頭号船に6回、二号船に1回、接貢船にて6回派遣されています。次に多いのは長立功で、1702~1718年(康煕41~57)の間に、進貢頭号船に2回、二号船に4回、接貢船に5回の計11回渡唐をしています。松永茂は1694~1704年(康煕33~43)の間に、進貢頭号船に1回、二号船が4回、接貢船が2回の計8回となっています。また、他の役人達と違い、複数回派遣されている場合に同じ船に連続して派遣されている事例が多いことも船頭の渡唐の特徴です。例えば、平崇禮(大城筑登之親雲上)は1820年(嘉慶25)から1824年(道光4)の間に3回連続して二号船の船頭を勤めています(『那覇市史』資料篇第1巻8)。
派遣回数が6回以上の者は康煕~乾隆前半に集中し、後に派遣回数は5回以下となっていきます。明治期に沖縄県庁の官吏となり、各地に残る王国時代の産業制度の記録を調査した仲吉朝忠の記録である「古老集記類」(「琉球産業制度史料、第九巻 古老集記類の二 [仲吉朝忠]」〔小野武夫編『近世地方経済史料』第十巻、 近世地方経済史料刊行会、 1932年〕)によれば、船頭の職は佐事や加子といった船方達にとって目標とする役目であったと記録されています。そのため、船頭の交代の間隔が長くなることは、若いときから海上交通の危険を厭わずに旅を重ねた者が船頭役に就ける機会が減るため、5回で交代するようになった事が記述されており、船頭が連続して渡唐する回数には後に制限が決められたものと見られます。(冨田千夏)
【参考文献】
- 富島壯英「唐船(進貢船・接貢船)に関する覚書-全乗船者の構成を中心に-」(『歴代宝案研究』No.6・7合併号、1996年)
- 深澤秋人『近世琉球中国交流史の研究』(2011年、榕樹書林)
- 深澤秋人「福州における琉球船の船舶乗組員-19世紀の事例を中心に」『順風相送:中琉歴史文化:第十三屆中琉歴史関係国際学術会議論文集』海洋出版社、2013年