もっと知りたい交流史 王国末期の外交課題と自己決定権の諸相
ー歴代宝案文書とその周辺から観るー④

事例④英国艦艦長の国書提出

 修好条約しゅうこうじょうやくの締結をせまる仏国ふつこくのアプローチとは異なり、英国えいこくは琉球との外交文書の往来によって実質的な外交関係を樹立する方向を追求し、修好条約の締結をせまるようなことはありませんでした。

イギリスとの外交文書のやりとり

 仏国セシーユ提督ていとくの来航から三年半後の、道光どうこう29年11月(1849年12月)、英国艦船えいこくかんせんパイロット号が那覇港へ来航した際に、艦長のライオンズ提督は、「特別に大英国の軍機大臣ぐんきだいじんにして外務時宜がいむじぎ総辧そうべんするの宰相さいしょう外務大臣がいむだいじん〕を特授された巴麦尊〔パーマストン〕の一通の憲箚けんさつ〔書簡=公文書〕を携帯して来ましたので、その書簡を開封して読んだ上で、返書をお寄せ頂きたい」と称して手渡しました。そこで、琉球当局は早速、パーマストン書簡を開封して読んでみたところ、次のような内容の文面が記されていました。
 「大英国政府の閣僚かくりょうが望むところは、英国と琉球国の双方が通交貿易を禁止することなく、長期にわたって友好親善を続けることです。もし琉球国にその意志があるならば、わが英国の商人数名を直ちに琉球国へ赴いて居住貿易させることとし、そのことによって英琉双方共に国益を増大させようと思います。伯徳令ベッテルハイムについて申しますと、英国の国民ですが、従来、西洋において病気を治療する医学の訓練を受け、法術〔医術〕にも精通した後に琉球へ渡来していますので、その志すところは患者を救済することであり、琉球の一般大衆を元気にすることができる人物です。ですので、どうか事情を了察りょうさつして頂き、従来どおり伯徳令が平穏に日常生活を営めるよう適切に取り計らって頂ければ幸いです」(『歴代宝案』訳注本第15冊「別鎌-09」、414頁参照)。
 英国外務大臣パーマストンのこの書簡に対して、琉球側は例の通り、「わが国の国土は貧瘠の土地で、産物もほとんどなく、貴国のような大国と通交貿易することはできません。医療については、清国の医療方法を習得して病気を治療することができますので、他国の医術を用いる必要はありません。どうか速やかに船舶を派遣して、伯徳令一家を引き取り帰国させますようお願いします」(前掲『歴代宝案』訳注本第15冊、同頁)との返書を提出しました。ライオンズ艦長は返書を受け取って帰国しましたので、英琉両国は外交文書を交換することで事実上の外交関係を形成したわけです。

図1 道光29年(1849)11月15日付け、琉球王府から外相パーマストン宛外交文書                      (The National Archives (UK), ref. FO17/165 )

イギリスのベッテルハイム支援要求と首里城強行入城

 さらにその翌年道光30年8月(1850年10月)、英国艦船レイナード号が来航し、艦長のクラクロフトは「英国政府の命令を受けて医師の伯徳令を訪問し、琉球の関係役人と会って(伯徳令の件を)協議したい」と要求しましたので、直ちに関係役人が会談したところ、「おこたりなく伯徳令を世話するように。もし侮辱するようなことがあれば、今後、戦火を免れることはできません」と脅迫しましたが、琉球当局が伯徳令一家を引き取って帰国するように懇願こんがんすると、さらに「伯徳令はわが政府が大切にしている重要人物です。もし琉球の官民が欺瞞的ぎまんてきな方法で境域外に強制的に追い出そうとすれば、わが政府の不興を買うことになります。ですので、決して琉球の要請に順うことはできません」と強圧的に対応し、伯徳令を留め置いたまま引き返しました(前掲『歴代宝案』訳注本第15冊、参照)。
 伯徳令は英国政府の支援を得て琉球における居住環境を改善しようと目論もくろみ、英琉間の外交を積極的に仲介しましたので、英国艦船が来航するたびに伯徳令の処遇問題が英琉間の交渉課題となりました。咸豊かんぽう元年12月(1852年2月)、英国艦船スフィンクス号が来航した際にも、シャドウエル艦長はパーマストン外務大臣の書簡を携帯していました。その書簡にも「伯徳令を引き取って帰国させるわけにはいきません。今後、戦艦を随時ずいじ往来させて伯徳令の保護に当たらせますので、どうか賓客ひんきゃく〔大事なお客〕をもてなす方法で応接して頂きたい。もし軽々しく扱い侮辱するようなことがあれば、大英国の義憤ぎふんき立てることになります。何事につけ、伯徳令が自由に行動することを認めて頂きたい」と記されていました。そのパーマストン書簡を、シャドウエル艦長は王宮〔首里城〕に入って直接琉球国の大臣にお渡ししたいと言い張り、琉球の担当役人が王宮以外の役所で受け取りたいと懇請こんせいすると、「大いに怒って許さず、直ちに兵士を率い威風堂々いふうどうどうと武力をひけらかして騒動を起こし、関所を突破して王宮へ入る勢いを示して脅迫しました。わが琉球には防ぐ方法がありませんので、泣く泣くその突入するにまかせたところ、シャドウエル艦長は外務大臣の書簡を担当役人に手渡して受け取らせ、伯徳令をよく世話するようにと言い残して、兵士を率いて帰って行きました」と前掲『歴代宝案』訳注本第15冊には記述されています。米国のペリー提督が首里城を訪問する1年前のことで、欧米人の中で最初に首里城へ強行入城したのは、英国人のシャドウエル艦長であったことに注目したいと思います。

図2 道光30年(1850)9月5日付け、琉球王府から外相パーマストン宛外交文書                        (The National Archives (UK), ref. FO17/170)

 なお、同年(咸豊二年)の5月に福州から帰国した接貢船せっこうせんで、「伯徳令を琉球国民同様に取り扱い、外国人として差別してはならない。わが英国内と同様に琉球でも耶蘇やそ教〔キリスト教〕の布教を認めるように」と言う趣旨の英国政府の外務大臣クラレンドン〔漢字名は克蘭敦〕の照会〔書簡〕が、伯徳令を経由して琉球当局へ届けられています(『歴代宝案』訳注本第15冊「別鎌-16」、425頁参照)。また、現在も英国外務省文書の中には伯徳令を経由した琉球当局の外交文書が含まれています。この事実から、英国当局と琉球当局との間では、英本国の外務大臣→福州駐在ちゅうざいの英国領事→琉球滞在の伯徳令→琉球当局というルート、あるいはその逆のルートで、外交文書の往来があったことを知ることができます。琉球側は宗主国の清国へ外交的支援を要請するだけでなく、英琉間の公式ルートをも利用して、自己決定権にもとづく対英外交を展開していたわけです。

(西里喜行)※2023年3月入稿