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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
別鎌-09 琉球国中山王世子尚泰より福建布政使司あて、道光二十九年の接貢船の将来した咨文(伯徳令(ベッテルハイム)退去要請の件)に対する清国当局の対応措置についての報告を受領し、併びにその後の英米船隻の度重なる来琉、英国宰相の国書提出、伯徳令(ベッテルハイム)への優遇措置の要求等々について報告する旨の咨覆(道光三十《一八五〇》、九、十五)
琉球国中山王世子尚(泰)、咨覆する事の為にす。
照らし得たるに、道光三十年五月二十一日、貴司の咨を准けたるに(以下の如く)開せり。
道光二十九年九月二十三日、貴国の接貢使臣の面りに繳めたる王世子の咨文一件を拠けとりたるに、𠸄夷の留むる所の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)は、今まで逗遛すること四年の久しきを計うるも、未だ何日に回り去くやを知らざれば、本司に移咨し転詳して査辦せしむ、等の因を以てす。
随いで経に情に拠りて、総督部堂劉(韻珂)巡撫部院徐(継畬)に密詳し、恭摺して具奏せしめ、並びに欽差大臣にして両広督部堂の徐(広縉)に移咨し、𠸄酋に飭して迅やかに球に在りて居住するの𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに眷属人等を将て、一律に撤回せしめんことを請いて案に在り。
旋いで道光二十九年十二月二十日に於て、総督部堂劉(韻珂)巡撫部院徐(継畬)の行知を奉けたるところ、本年十二月十八日、硃批を奉到したるに、另に旨有り、とあり。此れを欽む。同日、十一月十七日の軍機大臣の片称を奉到したるに、貴督等の具奏せる前事の一件は、本日、已に寄信諭旨を奉有し、欽差大臣にして両広総督の徐(広縉)に交して辦理せしむ。司に行りて知照せしめよ、等の因あり。
茲に道光三十年三月二十一日に於て総督部堂の劉(韻珂)の行知を奉けたるところ、欽差大臣にして両広総督部堂の徐(広縉)の咨覆を准けたるに、𠸄夷の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)、琉球国に在りて尚お未だ撤回せざるの一案は、経に本大臣、道光二十九年十二月十八日に於て査辦して𠸄酋を開導し、飭して撤回せしむの縁由を将て、恭摺して覆奏せり。茲に本年二月二十四日に於て御批を奉到したるに、議に依りて妥辦せよ、とあり。此れを欽む。閩に咨すれば転咨して知照せしめよ、等の因あり。此れを奉けたり。
査するに、粤東は既に批諭を奉じたれば、自ずから必ず欽遵して妥辦すべし。欽差大臣にして両広督部堂の徐(広縉)の、機を相て𠸄酋を開導し、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)を将て撤回せしむるを俟ちて、另に咨覆するを行うを除くの外、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に咨す。請煩わくは査照せられよ、等の因あり。国に到る。此れを准けたり。
査するに、𠸄夷の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)の一案は、経に貴司、情に拠りて督撫両院に密詳し、恭摺して具奏せしめ、並びに欽差大臣の両広督部堂に移咨し、𠸄酋に飭して迅やかに𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに妻子を将て、一律に撤回せんことを請わしむるを蒙る。此れ、誠に皇恩の浩蕩、憲徳の周詳にして、感激涯り無き者なり。本より応に静かに候つべし。但だ今まで未だ該国は船を撥して撤回するを見ず。
又、道光二十九年十一月初八日、夷船一隻到来する有り。随いで着して来歴を訪ね問わしむるに、総兵の来雲(ライオンズ)の口称に拠るに、本総兵は特に大𠸄国の軍機大臣にして外務事宜を総辦するの宰相を特授されたる頭等巴図魯世襲子爵巴(麦尊)(パーマストン)の憲箚一封を捧げて来たれば、宜しく応に憲箚を披閲し、文を具えて回覆すべし、等の語あり。
随即に官に飭して箚を接らしめて開読するに、内に云えらく、大𠸄国の秉政各大臣の欲する所は、彼此両国、通商するを禁ぜずして永久に友睦することなり。倘し琉球、果たして此の意有れば、則ち本国の商民数名を即ちに琉球地方に往きて寄居貿易せしめ、藉りて賓主の利益を多増ならしめんとす。𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)に至りては、𠸄国の子民に属し、向に泰西国に於て疾病を医調するを習練し、広く法術に通ずるの後に琉球に過るに係れば、其の心志は既に患を救い人を済け、琉球の民庶をして精力旺盛ならしむる能う者に係る。仍って琉球に嘱するに、見諒せられて、前の如く再び妥く該呤(ベッテルハイム)の平安を保つを得せしむれば可なるべし、等の由あり。
随いで着して文を具えて回覆せしむるに、敝国は土痩せ地薄く、物産幾ばくも無ければ、大国と交を結びて貿易する能わず。医術に至りては亦た中朝の医法を伝習して以て病を治するを得れば、必ずしも他国の医を用いず。迅やかに船隻を遣撥するを賜り、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)併びに妻子を接取して回国せしめんことを懇請す、とあり。該総兵、覆文を接収し、十七日に於て開船して回り去けり。
又、道光三十年六月二十五日、亜米理幹船一隻到来する有り。船主の挖治(ウエルチ)に訊拠したるに口称すらく、坐する所の船隻は小呂宋より起程し洋中にて風に遇い漂い来たれり、等の語あり。随いで飭して物件を贈与せしめ、厚く礼待するを致す。七月初一日に至りて該船は開去せり。
又、八月二十八日、𠸄咭唎国の火輪船一隻到来する有り。随いで着して来歴を訪ね問わしむるに、水師都司克爾克喇孚(クラクロフト)の啓称に拠るに、本都司は特に皇政の命を奉じて琉球に到来し、医師の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)を訪問せんとす。球官に相い見えて会議せんことを請求す、等の由あり。随即に官を遣わし会面せしむるに、該都司の説うには、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)に於ては也好生に照看し怠慢するを得る毋かれ。倘し侮辱するの事有れば、日後、兵火を免れず、とあり。即ち該官は婉詞して回話し、並びに文を具えて𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)併びに妻子を接回せんことを懇請す。乃るに啓覆に拠るに、留むる所の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)は吾が皇政の珍重する所の者なり。如し琉球の官民、巧みに圧欺の術を用い、強いて境址に出さんと欲すれば、此れ吾が皇政の怡ばざる所なり。決して請う所に依順する能わず、等の由あり。九月初六日に於て長行して回国せり。
窃かに査するに、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)の一案は、逗遛して以来、便船に逢う毎に、其の回国せんことを勧むるも聴従するを肯ぜず。今、𠸄国の船隻到来するに逢えば、即ち飭して接回せんことを懇請せしむ。乃るに該都司は前に言説する所の如く、危懼の詞を出し並えて接回するの意無し。未だ其の心懐如何なるやを知らざるなり。憂慮益々切にして寐食安んぜず。
伏して祈るらくは、貴司より督撫両院に転詳して妥為く査辦せしめ、迅やかに𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに妻子を将て一律に撤回せしめ、敝国をして以て安謐を得せしめんことを。茲に進貢の便に値たれば、理として合に咨覆すべし。請煩わくは査照して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
道光三十年(一八五〇)九月十五日
注*本文書は〔別鎌―〇八〕の咨覆である。語注は〔別鎌―〇八〕参照。なお、英国国立公文書館(The National Archives(TNA))所蔵の外務省文書には、道光二十九年(一八四九)十一月十五日付の「琉球王府から外相パーマストン宛外交文書(FO17-165-14)」(琉球国中山府総理大臣尚国棟・布政大夫馬良才等が出した禀)、道光三十年九月初五日付の「琉球王府からパーマストン宛外交文書(FO17-170-122)」(琉球国中山府総理大臣尚大謨・布政大夫馬良才等が出した禀)(ともに原本)がある。両史料は内容的にはほぼ重複している。前者は道光二十九年十一月八日に来航し、十七日に出航した来雲(ライオンズ)が提出した英国外相巴麦尊(パーマストン)の文書に対する返答と思われる。また、後者は八月二十八日に来航し九月六日に出航したイギリス船船長克爾克喇孚(クラクロフト)に託した文書と思われる。なお、後者(道光三十年九月初五日付のパーマストン宛文書)は同内容の史料が『伯徳令(ベッテルハイム)其他往復文』(沖縄県立図書館東恩納寛惇文庫)にも収録されている。
(1)貴司の咨 〔別鎌―〇八〕。
(2)来雲 ライオンズ。エドモンド・モウブレー・ライオンズ(Edmund Moubray Lyons)。一八一九~五五年。イギリス海軍の大佐(Captain)。道光二十九年十一月八日パイロット号(pilot)で来琉し、パーマストンの書簡を提出した。
(3)巴(麦尊) パーマストン。第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple,3rd Viscount Palmerston)。一七八四~一八六五年。一八三〇年に成立したホイッグ党政権で外務大臣を務め、アヘン戦争を主導するなど強硬外交を行った。第一次ジョン・ラッセル卿内閣で一八四六年から五一年十二月まで外務大臣を務めた。 一八五五年に自由党(ホイッグ党を改組)政権初の首相となった。なお、「巴図魯」は満洲語で勇気のある者、勇者の意。「頭等巴図魯」は第一級の勇者の意。パーマストンの尊称として中国向けにつけられた肩書きか。
(4)披閲 書状などを開いて見ること。
(5)回覆 返答。
(6)秉政各大臣 秉政は政権を掌握すること、政権の座にある諸大臣。ここではイギリス政府、内閣の上級大臣をさす。
(7)賓主 賓客と主人。ここでは琉球と英国。「賓主の利益を多増ならしむ」は琉球と英国双方ともに利益をあげる、の意。
(8)法術 法律。
(9)心志 意志、こころざし。
(10)民庶 庶民、一般民衆。
(11)見諒 了承する。お許しいただく、了察する。
(12)挖治 ウエルチ(Welch)。道光三十年六月二十五日(一八五○年八月二日)に来琉したアメリカ船の船長。
(13)小呂宋 マニラ。フィリピンを大呂宋、ルソン島のマニラを小呂宋と称した。
(14)克爾克喇孚 クラクロフト。ピーター・クラクロフト(Peter Cracroft)。一八一六~六五年。イギリス海軍の中佐(Commander)。 道光三十年八月二十八日(一八五○年十月三日)にイギリス艦船レイナード号(Leynard)で来琉した。
(15)皇政 ここではイギリス政府の意。
(16)好生 よく、十分に。
(17)照看 気をつける。見守る。
(18)婉詞 婉曲(とおまわし)の表現。
(19)回話 回答。
(20)啓覆 啓は申し上げる意。書簡で回答すること。
(21)圧欺の術 圧迫欺瞞する手段。
(22)境址 境界。ここでは琉球国の領域。
(23)依順 百依百順。何でも人の言いなりになること。
(24)危懼の詞 脅迫の言辞。
(25)心懐如何なるや 心中何を考えているのか、の意。
琉球国中山王世子尚(泰)、咨覆する事の為にす。
照らし得たるに、道光三十年五月二十一日、貴司の咨を准けたるに(以下の如く)開せり。
道光二十九年九月二十三日、貴国の接貢使臣の面りに繳めたる王世子の咨文一件を拠けとりたるに、𠸄夷の留むる所の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)は、今まで逗遛すること四年の久しきを計うるも、未だ何日に回り去くやを知らざれば、本司に移咨し転詳して査辦せしむ、等の因を以てす。
随いで経に情に拠りて、総督部堂劉(韻珂)巡撫部院徐(継畬)に密詳し、恭摺して具奏せしめ、並びに欽差大臣にして両広督部堂の徐(広縉)に移咨し、𠸄酋に飭して迅やかに球に在りて居住するの𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに眷属人等を将て、一律に撤回せしめんことを請いて案に在り。
旋いで道光二十九年十二月二十日に於て、総督部堂劉(韻珂)巡撫部院徐(継畬)の行知を奉けたるところ、本年十二月十八日、硃批を奉到したるに、另に旨有り、とあり。此れを欽む。同日、十一月十七日の軍機大臣の片称を奉到したるに、貴督等の具奏せる前事の一件は、本日、已に寄信諭旨を奉有し、欽差大臣にして両広総督の徐(広縉)に交して辦理せしむ。司に行りて知照せしめよ、等の因あり。
茲に道光三十年三月二十一日に於て総督部堂の劉(韻珂)の行知を奉けたるところ、欽差大臣にして両広総督部堂の徐(広縉)の咨覆を准けたるに、𠸄夷の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)、琉球国に在りて尚お未だ撤回せざるの一案は、経に本大臣、道光二十九年十二月十八日に於て査辦して𠸄酋を開導し、飭して撤回せしむの縁由を将て、恭摺して覆奏せり。茲に本年二月二十四日に於て御批を奉到したるに、議に依りて妥辦せよ、とあり。此れを欽む。閩に咨すれば転咨して知照せしめよ、等の因あり。此れを奉けたり。
査するに、粤東は既に批諭を奉じたれば、自ずから必ず欽遵して妥辦すべし。欽差大臣にして両広督部堂の徐(広縉)の、機を相て𠸄酋を開導し、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)を将て撤回せしむるを俟ちて、另に咨覆するを行うを除くの外、合に就ちに移知すべし。此れが為に備に咨す。請煩わくは査照せられよ、等の因あり。国に到る。此れを准けたり。
査するに、𠸄夷の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)の一案は、経に貴司、情に拠りて督撫両院に密詳し、恭摺して具奏せしめ、並びに欽差大臣の両広督部堂に移咨し、𠸄酋に飭して迅やかに𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに妻子を将て、一律に撤回せんことを請わしむるを蒙る。此れ、誠に皇恩の浩蕩、憲徳の周詳にして、感激涯り無き者なり。本より応に静かに候つべし。但だ今まで未だ該国は船を撥して撤回するを見ず。
又、道光二十九年十一月初八日、夷船一隻到来する有り。随いで着して来歴を訪ね問わしむるに、総兵の来雲(ライオンズ)の口称に拠るに、本総兵は特に大𠸄国の軍機大臣にして外務事宜を総辦するの宰相を特授されたる頭等巴図魯世襲子爵巴(麦尊)(パーマストン)の憲箚一封を捧げて来たれば、宜しく応に憲箚を披閲し、文を具えて回覆すべし、等の語あり。
随即に官に飭して箚を接らしめて開読するに、内に云えらく、大𠸄国の秉政各大臣の欲する所は、彼此両国、通商するを禁ぜずして永久に友睦することなり。倘し琉球、果たして此の意有れば、則ち本国の商民数名を即ちに琉球地方に往きて寄居貿易せしめ、藉りて賓主の利益を多増ならしめんとす。𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)に至りては、𠸄国の子民に属し、向に泰西国に於て疾病を医調するを習練し、広く法術に通ずるの後に琉球に過るに係れば、其の心志は既に患を救い人を済け、琉球の民庶をして精力旺盛ならしむる能う者に係る。仍って琉球に嘱するに、見諒せられて、前の如く再び妥く該呤(ベッテルハイム)の平安を保つを得せしむれば可なるべし、等の由あり。
随いで着して文を具えて回覆せしむるに、敝国は土痩せ地薄く、物産幾ばくも無ければ、大国と交を結びて貿易する能わず。医術に至りては亦た中朝の医法を伝習して以て病を治するを得れば、必ずしも他国の医を用いず。迅やかに船隻を遣撥するを賜り、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)併びに妻子を接取して回国せしめんことを懇請す、とあり。該総兵、覆文を接収し、十七日に於て開船して回り去けり。
又、道光三十年六月二十五日、亜米理幹船一隻到来する有り。船主の挖治(ウエルチ)に訊拠したるに口称すらく、坐する所の船隻は小呂宋より起程し洋中にて風に遇い漂い来たれり、等の語あり。随いで飭して物件を贈与せしめ、厚く礼待するを致す。七月初一日に至りて該船は開去せり。
又、八月二十八日、𠸄咭唎国の火輪船一隻到来する有り。随いで着して来歴を訪ね問わしむるに、水師都司克爾克喇孚(クラクロフト)の啓称に拠るに、本都司は特に皇政の命を奉じて琉球に到来し、医師の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)を訪問せんとす。球官に相い見えて会議せんことを請求す、等の由あり。随即に官を遣わし会面せしむるに、該都司の説うには、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)に於ては也好生に照看し怠慢するを得る毋かれ。倘し侮辱するの事有れば、日後、兵火を免れず、とあり。即ち該官は婉詞して回話し、並びに文を具えて𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)併びに妻子を接回せんことを懇請す。乃るに啓覆に拠るに、留むる所の𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)は吾が皇政の珍重する所の者なり。如し琉球の官民、巧みに圧欺の術を用い、強いて境址に出さんと欲すれば、此れ吾が皇政の怡ばざる所なり。決して請う所に依順する能わず、等の由あり。九月初六日に於て長行して回国せり。
窃かに査するに、𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)の一案は、逗遛して以来、便船に逢う毎に、其の回国せんことを勧むるも聴従するを肯ぜず。今、𠸄国の船隻到来するに逢えば、即ち飭して接回せんことを懇請せしむ。乃るに該都司は前に言説する所の如く、危懼の詞を出し並えて接回するの意無し。未だ其の心懐如何なるやを知らざるなり。憂慮益々切にして寐食安んぜず。
伏して祈るらくは、貴司より督撫両院に転詳して妥為く査辦せしめ、迅やかに𪡈𪢝呤(ベッテルハイム)並びに妻子を将て一律に撤回せしめ、敝国をして以て安謐を得せしめんことを。茲に進貢の便に値たれば、理として合に咨覆すべし。請煩わくは査照して施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
道光三十年(一八五〇)九月十五日
注*本文書は〔別鎌―〇八〕の咨覆である。語注は〔別鎌―〇八〕参照。なお、英国国立公文書館(The National Archives(TNA))所蔵の外務省文書には、道光二十九年(一八四九)十一月十五日付の「琉球王府から外相パーマストン宛外交文書(FO17-165-14)」(琉球国中山府総理大臣尚国棟・布政大夫馬良才等が出した禀)、道光三十年九月初五日付の「琉球王府からパーマストン宛外交文書(FO17-170-122)」(琉球国中山府総理大臣尚大謨・布政大夫馬良才等が出した禀)(ともに原本)がある。両史料は内容的にはほぼ重複している。前者は道光二十九年十一月八日に来航し、十七日に出航した来雲(ライオンズ)が提出した英国外相巴麦尊(パーマストン)の文書に対する返答と思われる。また、後者は八月二十八日に来航し九月六日に出航したイギリス船船長克爾克喇孚(クラクロフト)に託した文書と思われる。なお、後者(道光三十年九月初五日付のパーマストン宛文書)は同内容の史料が『伯徳令(ベッテルハイム)其他往復文』(沖縄県立図書館東恩納寛惇文庫)にも収録されている。
(1)貴司の咨 〔別鎌―〇八〕。
(2)来雲 ライオンズ。エドモンド・モウブレー・ライオンズ(Edmund Moubray Lyons)。一八一九~五五年。イギリス海軍の大佐(Captain)。道光二十九年十一月八日パイロット号(pilot)で来琉し、パーマストンの書簡を提出した。
(3)巴(麦尊) パーマストン。第三代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple,3rd Viscount Palmerston)。一七八四~一八六五年。一八三〇年に成立したホイッグ党政権で外務大臣を務め、アヘン戦争を主導するなど強硬外交を行った。第一次ジョン・ラッセル卿内閣で一八四六年から五一年十二月まで外務大臣を務めた。 一八五五年に自由党(ホイッグ党を改組)政権初の首相となった。なお、「巴図魯」は満洲語で勇気のある者、勇者の意。「頭等巴図魯」は第一級の勇者の意。パーマストンの尊称として中国向けにつけられた肩書きか。
(4)披閲 書状などを開いて見ること。
(5)回覆 返答。
(6)秉政各大臣 秉政は政権を掌握すること、政権の座にある諸大臣。ここではイギリス政府、内閣の上級大臣をさす。
(7)賓主 賓客と主人。ここでは琉球と英国。「賓主の利益を多増ならしむ」は琉球と英国双方ともに利益をあげる、の意。
(8)法術 法律。
(9)心志 意志、こころざし。
(10)民庶 庶民、一般民衆。
(11)見諒 了承する。お許しいただく、了察する。
(12)挖治 ウエルチ(Welch)。道光三十年六月二十五日(一八五○年八月二日)に来琉したアメリカ船の船長。
(13)小呂宋 マニラ。フィリピンを大呂宋、ルソン島のマニラを小呂宋と称した。
(14)克爾克喇孚 クラクロフト。ピーター・クラクロフト(Peter Cracroft)。一八一六~六五年。イギリス海軍の中佐(Commander)。 道光三十年八月二十八日(一八五○年十月三日)にイギリス艦船レイナード号(Leynard)で来琉した。
(15)皇政 ここではイギリス政府の意。
(16)好生 よく、十分に。
(17)照看 気をつける。見守る。
(18)婉詞 婉曲(とおまわし)の表現。
(19)回話 回答。
(20)啓覆 啓は申し上げる意。書簡で回答すること。
(21)圧欺の術 圧迫欺瞞する手段。
(22)境址 境界。ここでは琉球国の領域。
(23)依順 百依百順。何でも人の言いなりになること。
(24)危懼の詞 脅迫の言辞。
(25)心懐如何なるや 心中何を考えているのか、の意。