もっと知りたい交流史 王国末期の外交課題と自己決定権の諸相
ー歴代宝案文書とその周辺から観るー②
事例②英仏艦船来航
英艦船サマラン号の測量調査
アヘン戦争に参加した英国艦船サマラン号〔ベルチャー艦長〕は、英国政府の命令を受け、清国航路とその周辺の地域の測量を目的として、1843年から45年にかけて、清国沿岸・ボルネオ・フィリッピン・台湾・琉球・日本・朝鮮等の広範な海域と陸地を測量調査しましたが、琉球列島が最も重要な調査対象となっていました。サマラン号の琉球列島調査は前後三回にわたっています。第一回は1843年の先島〔八重山・宮古〕調査、第二回は1845年5月からの石垣島・与那国・宮古島を経て沖縄本島に至る列島全域の調査、第三回は同年8月の沖縄本島〔那覇〕への再来航です。
第一回・第二回の先島調査については、現地役人から首里王府へ提出した報告書などで、その経緯が明らかにされています(『歴代宝案』訳注本第15冊「別台-4」、374~375頁参照)。また、『歴代宝案』文書以外にも、現地役人からの詳細な報告書が首里王府へ提出されています。それによりますと、サマラン号には官吏25人・兵士234人・清国人1人が乗船し、26門の大砲を含む多数の武器を備え付け、琉球側〔八重山役人〕の断固たる抵抗を排除して測量を強行したことから、衝突寸前のかなり緊迫した事態も発生したようです。八重山の現地役人たちはサマラン号の乗船者が従来の漂着者とは異なり、明確な目的意識をもって探査活動を遂行し、恐るべき侵入者であると受けとめて、警戒心を強めざるを得ませんでした(正木任翻刻「八重山島之内宮良津口に大英国之船壱艘致来着候次第左に申上候」『南島』第一輯所収、昭和15年、参照)。
中国駐在のイギリス領事の手紙
サマラン号が琉球列島を測量調査している時期に、福州駐在の英国領事レイ〔漢字名は李太郭〕は福州琉球館の存留通事〔琉球役人〕を通じて琉球当局へ「和好」を求める書簡を送り、サマラン号の来島目的は海陸の調査と海賊対策のためであると説明するとともに、英国と清国が締結した南京条約の写しを添付して、暗に琉球とも修好・貿易したいとの意思を示しました。書簡を受け取った琉球当局は慌てふためき、折しも那覇港へ来航したサマラン号のベルチャー艦長に、「小邦の痛ましい疲弊を洞察して」測量を停止されたい、との要請文を提出しています。琉球側の要請文を受け取ったベルチャー艦長は直ちに了解し、「我々は来年正月には、また貴国に来るつもりです。貴国の官民は我々の来航を恐れる必要はありません」と言い残して出港しました(前掲『歴代宝案』訳注本第15冊、『球陽』巻21、原文編472~480頁)。
フランスの和好・貿易要求と宣教師上陸
サマラン号と前後して、1844年4月に那覇港へ入港した仏国〔フランス国〕艦船アルクメーヌ号のデュプラン艦長も、修好・貿易を要求し、交渉のため間もなく「大総兵」〔提督〕が来訪することを予告しただけでなく、仏国人宣教師のフォルカードと中国人通訳1人を上陸させて引き返しました。フォルカードらは英国の琉球占領の意図を強調しつつ、それを阻止するためには仏国の保護の下に入るのが賢明だと勧告するとともに、「天主の聖教」〔キリスト教〕を琉球全土に布教したいので許可して頂きたい、と要求しました(『歴代宝案』訳注本第15冊「別台-01」、363~365頁)。
琉球側は和好・貿易・布教の要求を遠回しに断り、宣教師らの退去を求めたものの承諾を得られず、「不法」滞在を容認してしまいましたが、この前代未聞の事態を宗主国の清国へ報告しないわけにはいかなくなりました。報告のための咨文〔対等の官庁間で交わされる公文書=外交文書〕には次のように述べられています。
「仏国人たちは理由もなくわが琉球の境域内に入り、当初は修好貿易したいと言い、次いで仏国の特別の保護下に入ることを求め、最後には天主教を布教したいとまで要求しています。主張する言説は絶えず変化しますので、真意を推し量ることはできません。予告通り、もし大総兵がわが琉球国に来ることがあれば、どのような騒動を引き起こすかもわかりません。現在、担当官吏に指示して細心の注意を払って対策を協議させています。大総兵が到来した場合には、礼儀正しく応対し、筋の通る正義正論を主張し、騒動を起こすことがないように取り計らい、穏便に宣教師ら二人を連れ帰るよう要求するつもりです」(『歴代宝案』訳注本第15冊「別台-1」、365頁参照)。
この時点で琉球側は、独自の自己決定権にもとづく外交交渉を通じて大総兵〔セシーユ提督〕らに穏便に対処し、宣教師フォルカードらの退去を実現する方針だったことに注目したいと思います。
(西里喜行)※2023年3月入稿