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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
別台-04 琉球国中山王尚育より福建布政使司あて、英国の船が宮古・八重山に到り海陸を測量したこと、在福州英国領事の李太郭が琉球へ公文を提出したことを通知する旨の咨文(道光二十五《一八四五》、八、四)
琉球国中山王尚(育)、咨明する事の為にす。
照らし得たるに、道光二十四年十月、本国属島の太平・八重の両山の各地方官、先後して報称するに拠るに、上年、𠸄国の船隻到来する有り。数人は上岸し、海を巡り山を環り、水の浅深を試み、地の広狭を量り、数十余日にして帰去す、等の由あり。
道光二十五年五月、又、八重山轄下の与那国地方官の報称に拠るに、本月、𠸄国の船隻到来する有り。地方を度量し、久しからずして去る、等の由あり。
又、閩に在るの存留通事魏学賢の報称に拠るに(以下の如し)。
切かに、賢、去年、閩に到るの後、大英国領事の李太郭より送り来たれる文憑一紙有り。内に(次の如く)開せり。
大英欽命領事にして正三品の福州に駐箚するの李(太郭)は、貴国と両相に和好する為にす。本領事は心を尽くして貴国の官民の平安を施さんことを願うに由る。但だ大英の戦船は常に往来し、海盗を趕い、水度を探り地方を量りて図を画けば、恐らくは貴国の官民は戦船を見て懼怕すべし、と。今、特に文憑一紙を齎し来たれり。若し船官より水菜を要むれば、均しく価銭を約して公道に交易すべし。貴国の官民は礼に拘るべからず。此に照す、等の因あり。理として合に報明すべし、等の由あり。各々国に到る。此れを拠けたり。
茲に査するに、敝国は古より以来、天朝に臣属し、叨くも屛翰に列なる。該西土の人は何故に此に到りて地方を度量するやを知らず。甚だ疑惑を懐く。
五月十五日に至りて、果たして該国の船隻は那覇洋面に到来し抛泊する有り。即ちに員に委して来歴を探問せしめたるも、言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は金、名は朱勝と叫う。広東香山県の人に係る。称するに拠るに、𠸄咭唎国の急頓味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻に係る。通船、共に二百員名有り、等の語あり。即ち飭して牛・羊・鶏・豚・魚・酒・菜・水等の件を送給せしむ。随いで十七日に於て開船して回り去けり。
又、七月初九日に至りて、另に該国の船隻到来する有り。其の通事不在に因り、即ち飭して手を用いて勢を比し、略来歴を問わしむ。称するに拠るに、𠸄咭唎国の船隻に係る。通船、共に六十名有り。該味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻、再び来たるを俟ちて一同に帰去せんとす、等の語あり。即ち飭して需むる所の日用の物件を送給せしむ。十六日に至りて、味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻到来する有り。
本爵、其の海を巡り山を環り、水を試み地を量り、人民を騒動するを深く恐れ、即ち飭して之れに接するに礼を以てし、之れを待つに敬を以てせしめ、稟を具えて地方を丈量するの挙を停止せんことを懇乞う。随いで其の請う所を允したれば、二十日に於て、両船は連䑸して開行せり。
伏して惟うに、該𠸄人等、其の心に存する所は以て窺い測り難し。経に長行して回国すると雖も、而れども日後に至りて再来し、事を滋すやも知るべからず。現に愁慮の秋に在り。茲に接貢の閩に入るに際り、合に就ちに咨明すべし。此れが為に貴司に移咨す。請煩わくは査照して督撫両院に転詳し施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
道光二十五年(一八四五)八月初四日
注(1)太平・八重の両山 宮古・八重山の両島。〔別台―〇九〕では「太平八重両山地方官」、〔別台―一三〕では「太平八重山両地方官」とある。
(2)度量 測量すること。このときの英国船はサマラン号(ベルチャー艦長)。
(3)魏学賢 嘉慶十一~道光三十年(一八〇六~五〇)。久米村系魏氏(楚南家)九世。もとの名は学誠。牧志里之子親雲上。道光十六年西之平等学校所の講解師となり、十七年将軍家慶就任の慶賀使節の楽師となり江戸に上る。このとき浦添朝熹・鄭元偉らと漢詩集『東遊草』を著している。道光十七年都通事、二十八年長史となり中議大夫に陞る。道光二十四年存留通事となる。二十六年に帰国するはずだったが、二十六年の朝京都通事王邦選が福州で病没したため、代理を務めた(『家譜(二)』四四頁)。
(4)文憑一紙 文憑は証拠となる文書。証文。『琉球王国評定所文書』「辰秋走進貢船帰帆」に李太郭の琉球館訪問と書面一通(文憑)、文書一冊を提出したことが記されている。文書一冊は南京条約の内容を漢文で記したもの(『琉球王国評定所文書』第二巻、浦添市教育委員会、一九八九年、二五一~二五六頁)。
(5)駐箚 地に留まる。駐在。
(6)李(太郭) レイ。ジョージ・トレードスキャント・レイ(George Tradescant Lay)。一八〇〇?~一八四五年。一八二五年からビーチー船長率いるブロッサム号で探検航海に参加。広州駐在の英国領事。一八四三年(道光二十三年七月)に広州領事に任命され、翌年七月(道光二十四年五月)福州領事に転じ、さらに四五年四月(道光二十五年二月)厦門領事となる。
(7)両相 双方、互いに。
(8)懼怕 恐れおののくこと。
(9)水菜 水と野菜。飲料水と食物。
(10)公道 公平。
(11)屛翰 屛とその両辺に在ってこれをささえる柱。また、垣となって守る。転じて柱石の臣、重臣。また屛翰は屛扞、屛藩、藩屛に同じ。周辺の藩属国を指す。
(12)香山県 広東省広州府香山県。現中山市。珠江デルタの中南部に位置する。
(13)急頓 役職。キャプテンのこと。
(14)味叻啫 ベルチャー。エドワード・ベルチャー(Sir Edward Belcher)。一七九九~一八七七年。一八一二年にイギリス海軍に入り、一八二五年にビーチー率いる探検航海に参加。アヘン戦争が始まると香港に上陸して戦い、香港沿岸の測量を行った。戦争終了後、ナイトの称号を得た。一八四七年まで東インド諸島、フィリピン、巨文島などの測量作業に従事した。一八七二年に海軍大将に昇進した。一八四三年(道光二十三)から四四年にかけて、ベルチャーはサマラン号で宮古・石垣・与那国へ来航し、水陸の測量調査を強行した後、道光二十五年五月那覇沖に到来、琉球の官民を驚かせた。
(15)手を用いて勢を比し 手振り身振りで。
(16)愁慮 憂慮する。
琉球国中山王尚(育)、咨明する事の為にす。
照らし得たるに、道光二十四年十月、本国属島の太平・八重の両山の各地方官、先後して報称するに拠るに、上年、𠸄国の船隻到来する有り。数人は上岸し、海を巡り山を環り、水の浅深を試み、地の広狭を量り、数十余日にして帰去す、等の由あり。
道光二十五年五月、又、八重山轄下の与那国地方官の報称に拠るに、本月、𠸄国の船隻到来する有り。地方を度量し、久しからずして去る、等の由あり。
又、閩に在るの存留通事魏学賢の報称に拠るに(以下の如し)。
切かに、賢、去年、閩に到るの後、大英国領事の李太郭より送り来たれる文憑一紙有り。内に(次の如く)開せり。
大英欽命領事にして正三品の福州に駐箚するの李(太郭)は、貴国と両相に和好する為にす。本領事は心を尽くして貴国の官民の平安を施さんことを願うに由る。但だ大英の戦船は常に往来し、海盗を趕い、水度を探り地方を量りて図を画けば、恐らくは貴国の官民は戦船を見て懼怕すべし、と。今、特に文憑一紙を齎し来たれり。若し船官より水菜を要むれば、均しく価銭を約して公道に交易すべし。貴国の官民は礼に拘るべからず。此に照す、等の因あり。理として合に報明すべし、等の由あり。各々国に到る。此れを拠けたり。
茲に査するに、敝国は古より以来、天朝に臣属し、叨くも屛翰に列なる。該西土の人は何故に此に到りて地方を度量するやを知らず。甚だ疑惑を懐く。
五月十五日に至りて、果たして該国の船隻は那覇洋面に到来し抛泊する有り。即ちに員に委して来歴を探問せしめたるも、言語通ぜず。内に通事一名有り。姓は金、名は朱勝と叫う。広東香山県の人に係る。称するに拠るに、𠸄咭唎国の急頓味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻に係る。通船、共に二百員名有り、等の語あり。即ち飭して牛・羊・鶏・豚・魚・酒・菜・水等の件を送給せしむ。随いで十七日に於て開船して回り去けり。
又、七月初九日に至りて、另に該国の船隻到来する有り。其の通事不在に因り、即ち飭して手を用いて勢を比し、略来歴を問わしむ。称するに拠るに、𠸄咭唎国の船隻に係る。通船、共に六十名有り。該味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻、再び来たるを俟ちて一同に帰去せんとす、等の語あり。即ち飭して需むる所の日用の物件を送給せしむ。十六日に至りて、味叻啫(ベルチャー)の坐する所の船隻到来する有り。
本爵、其の海を巡り山を環り、水を試み地を量り、人民を騒動するを深く恐れ、即ち飭して之れに接するに礼を以てし、之れを待つに敬を以てせしめ、稟を具えて地方を丈量するの挙を停止せんことを懇乞う。随いで其の請う所を允したれば、二十日に於て、両船は連䑸して開行せり。
伏して惟うに、該𠸄人等、其の心に存する所は以て窺い測り難し。経に長行して回国すると雖も、而れども日後に至りて再来し、事を滋すやも知るべからず。現に愁慮の秋に在り。茲に接貢の閩に入るに際り、合に就ちに咨明すべし。此れが為に貴司に移咨す。請煩わくは査照して督撫両院に転詳し施行せられよ。
須らく咨に至るべき者なり。
右、福建等処承宣布政使司に咨す
道光二十五年(一八四五)八月初四日
注(1)太平・八重の両山 宮古・八重山の両島。〔別台―〇九〕では「太平八重両山地方官」、〔別台―一三〕では「太平八重山両地方官」とある。
(2)度量 測量すること。このときの英国船はサマラン号(ベルチャー艦長)。
(3)魏学賢 嘉慶十一~道光三十年(一八〇六~五〇)。久米村系魏氏(楚南家)九世。もとの名は学誠。牧志里之子親雲上。道光十六年西之平等学校所の講解師となり、十七年将軍家慶就任の慶賀使節の楽師となり江戸に上る。このとき浦添朝熹・鄭元偉らと漢詩集『東遊草』を著している。道光十七年都通事、二十八年長史となり中議大夫に陞る。道光二十四年存留通事となる。二十六年に帰国するはずだったが、二十六年の朝京都通事王邦選が福州で病没したため、代理を務めた(『家譜(二)』四四頁)。
(4)文憑一紙 文憑は証拠となる文書。証文。『琉球王国評定所文書』「辰秋走進貢船帰帆」に李太郭の琉球館訪問と書面一通(文憑)、文書一冊を提出したことが記されている。文書一冊は南京条約の内容を漢文で記したもの(『琉球王国評定所文書』第二巻、浦添市教育委員会、一九八九年、二五一~二五六頁)。
(5)駐箚 地に留まる。駐在。
(6)李(太郭) レイ。ジョージ・トレードスキャント・レイ(George Tradescant Lay)。一八〇〇?~一八四五年。一八二五年からビーチー船長率いるブロッサム号で探検航海に参加。広州駐在の英国領事。一八四三年(道光二十三年七月)に広州領事に任命され、翌年七月(道光二十四年五月)福州領事に転じ、さらに四五年四月(道光二十五年二月)厦門領事となる。
(7)両相 双方、互いに。
(8)懼怕 恐れおののくこと。
(9)水菜 水と野菜。飲料水と食物。
(10)公道 公平。
(11)屛翰 屛とその両辺に在ってこれをささえる柱。また、垣となって守る。転じて柱石の臣、重臣。また屛翰は屛扞、屛藩、藩屛に同じ。周辺の藩属国を指す。
(12)香山県 広東省広州府香山県。現中山市。珠江デルタの中南部に位置する。
(13)急頓 役職。キャプテンのこと。
(14)味叻啫 ベルチャー。エドワード・ベルチャー(Sir Edward Belcher)。一七九九~一八七七年。一八一二年にイギリス海軍に入り、一八二五年にビーチー率いる探検航海に参加。アヘン戦争が始まると香港に上陸して戦い、香港沿岸の測量を行った。戦争終了後、ナイトの称号を得た。一八四七年まで東インド諸島、フィリピン、巨文島などの測量作業に従事した。一八七二年に海軍大将に昇進した。一八四三年(道光二十三)から四四年にかけて、ベルチャーはサマラン号で宮古・石垣・与那国へ来航し、水陸の測量調査を強行した後、道光二十五年五月那覇沖に到来、琉球の官民を驚かせた。
(15)手を用いて勢を比し 手振り身振りで。
(16)愁慮 憂慮する。