もっと知りたい交流史 宝案入門 ―海で世界とつながる琉球人―
『歴代宝案』とは
『歴代宝案』とは、1424(永楽22)年から1867(同治6)年までの444年間にわたる、漢文で書かれた外交文書が収録されている資料で、本来は全部で266巻あったとされていますが、現存するのは246巻です。琉球のすべての外交文書が収録されているわけではなく、日本以外の、特に中国を中心とした朝鮮を含む東アジアや東南アジアの諸外国との往来文書が収録されています。編集したのは、琉球国の外交を担った久米村(現在の那覇市久米)の人々です。中国語に長け、中国や朝鮮、東南アジア諸国との外交をささえる存在でした。外交文書は久米村で作成された後に王府の承認を得て中国等へ送られました。また相手国から文書が届いた際にはこれを写し、控えを作成しました。これらの文書を整理し、編集したものが『歴代宝案』です。久米村の担当者は『歴代宝案』を文書作成等の業務の参考にしたと考えられています。『歴代宝案』の内容は、中国皇帝から送られた勅書や、中国の中央政府や地方の役所から送られてきた咨文とよばれる文書、さらに琉球国から中国へ送る各種文書(表文・奏本・咨文等)等があります。一国にとどまらない、東アジア全域に及ぶ交流の歴史を知る重要な資料で、なかには中国明清の王朝交替期において南明政権とよばれた旧明朝側の政権と交わした文書も含まれており、現代の中国にもあまり残っていない時代の大変貴重なものです。
<参考>もっと知りたい交流史『歴代宝案』という名称の由来について(田名真之)
『歴代宝案』の構成
『歴代宝案』は全体で第1集・2集・3集・別集で構成されています。第一集は明朝や清朝(前半期)の中国や、朝鮮や東南アジア諸国との文書が、文書の形式毎に年代順に収録されています。第二集は清朝との外交文書で、年代順に収録されています。第三集も年代順に収録されていますが、こちらは王国末期の琉球が直面した欧米諸国への対応について、中国(清朝)と交わした文書等がまめられています。
原本はどこにあるのか?
『歴代宝案』の原本は現存していません。宝案はもともと2部作成され、一部は首里に、もう一部は久米村に保管されていました。
うち、首里城に保管されていたものは、琉球処分の際の首里城明け渡しの後に、処分官の松田道之の命をうけた県令心得の木梨精一郎が王府から借りたことが尚家文書『明治十二卯年中 従琉球大坂鹿児嶋御問合役所』に記録として残っています。木梨は、借りた『歴代宝案』238冊を堅固に箱詰めして、船便にて東京へ移送したと考えられます。東京に運び込まれた『歴代宝案』は内務省に移管され、その後関東大震災で焼失した、と言われています。
もう一部の原本である久米村保管の『歴代宝案』は、明治政府による接収をおそれ、久米村の旧家を転々と移されその存在が秘密とされてきましたが、1931(昭和6)年那覇地方裁判所の判事であった奥野彦六郎氏の依頼により王朝時代の判例集を探していた仲本英炤氏によって久米村の旧家の一つである神村家で発見されます。その後、久米村の古老達の協議によって天尊廟内の久米村の事務所に移し、その後、1933(昭和8)年には沖縄県立沖縄図書館に移管されることになります。
移管の経緯については、当時、沖縄県立沖縄図書館長真境名安興の依頼をうけて、久米村の長老達との間をとりもった沖縄県立第二高等女学校の校長島袋全発による顛末記に詳しく記述があります(図2)。
移管時にはいくつか条件がつけられました。一つ目は「委託者ノ請求ニ依リ、何時ニテモ返還スルコト」で、二つ目が「原本ハ厳重ニ保管シ別ニ写本ヲ作製シテ一般研究者ニ閲覧セシムルコト」となっています。この条件に従い、すぐに写本がつくられました。さらに、台北帝国大学の依頼によってこの写本をさらに筆写した「国立台湾大学本」が作成されたほか、鎌倉芳太郎や東恩納寛惇は、久米村保管本の『歴代宝案』の一部を青焼き写真として撮影しました。
その後、沖縄戦によって沖縄県立沖縄図書館の蔵書のほとんどが失われた際に、久米村本『歴代宝案』の原本も焼失したとされます。この時に戦禍を免れた写本の一部が現在も残っており、これが現在那覇市歴史博物館が所蔵する旧県立図書館本の『歴代宝案』です。
このように、現存する『歴代宝案』は全て原本ではなく、写真や筆写本だけになります。
『歴代宝案』に描かれた中琉交流史の世界
『歴代宝案』には、琉球と中国や朝鮮、東南アジア諸国との外交や交易についての記録が収録されています。その多くが明清時代の中国との間にかわされた文書です。琉球が参加した中国(明朝・清朝)での朝貢儀礼の様子や、開館貿易といった、外交・交易の様子がわかる文書が収録されています。中には、中国領内に漂流・漂着した琉球人の処置に関する事務連絡や、琉球に漂着した中国や朝鮮人への対応報告等、外交・交易の表舞台だけではない、裏側のエピソードも記録されています。
本稿では、そのようなエピソードから1703年(康煕42)にとある琉球人が遭遇した漂流事件を紹介します。
金城・唐間の漂流記
『歴代宝案』2-02-13「福建布政使司より国王尚貞あて、進貢の受け入れと、員役の摘回を知らせ、あわせて浙江へ漂流した二人の水夫を附搭して帰国させるむねの咨(1703.05.16)」には、接貢船にて帰国しようとした「柯梛什庫(カナシク:かなぐしく)」と水手の「多馬(トゥオマ:とうま)」が1702(康煕41)年6月12日に福建を出発したものの、洋上で暴風に遭い、6月24日に浙江省寧波府象山県乱礁の沖合にて漁師の彭兆栄に救助されたことが記録されています。12月21日に象山県より福州に送致され、福州にて詳しい事情を聴取した際の二人の供述も記録されています。
これによれば、柯梛什庫は原冊(もともとの乗務員リスト)では金城といい、都通事鄭士綸(赤嶺親雲上)の護送船(執照[乗船証明書]:2-02-02 この護送船は前年帰国時に蘇州に漂着したので接貢船にて帰国)の水手でした。多馬は原冊では唐間といい、都通事梁成楫(屋比久親雲上)の接貢船(執照:2-02-05)の水手です。二人は、1702年6月11日に接貢船にて帰国の途につきました。この時の接貢船には当初142名が乗っていました。6月12日の巳の刻(10時頃)に五虎門を出発し、6月13日は風も浪も穏やかでした。
しかし、接貢船は6月14日に北からの暴風にあいます。員伴(乗組員)は驚き恐れどうしてよいかわからず、天に叩づいて「哀号」(なきさけぶ)します。船の帆とそれをつなぐ紐を切り船の荷物を棄てるも、風の勢いはますますつよくなり、水櫃(飲料水をためるための大きな桶)2個が壊れて海に落ち、船は南に流されました。6月15日の天明(あけがた)に風の勢いが弱まるも、辰(8時)にならないうちに南風がおき、豪雨に見舞われました。一時(2時間)の間、船は風雨の暴れるまま制御不能となり 、接貢船は船上の乗務員もろとも沈没します。そこは、果てしなく広がる大海で、何処の地方かわかりません。ただ金城等9人だけが生き残り、海中から浮いてきた杉板をとらえて上りました。その晩に3名が大波にさらわれ、6月16日にはさらに3名が大波にさらわれ、6月17日にはさらに1名が海に落ち、金城と唐間2名が残るだけになりました。その頃には風はやや収まりましたが、二人は杉板にすがりついて流れのまま漂流し、寒さと飢えで死にそうになります。
6月19日、二人がすがりつく杉板に、魚がたまたま2尾飛び乗ってきました。二人でこの魚を生でかじって飢えを凌ぎました。6月20日に、また魚が1尾杉板に飛び乗ってきたので食べることができました。6月24日に、浙江省象山県の乱礁方面にたどりつき、漁船に偶々見つかります。この船に助けられ食料をもらい、二人は命を救われました。6月26日に、象山県に到着して保護されたのです。
『歴代宝案』には、琉球人が海を舞台に西へ東へと世界とつながっていたことが感じられる記録が収録されています。
是非、この貴重な記録文書の世界を楽しんでください。
(冨田千夏)