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資料詳細
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 差出
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-02-13 福建布政使司より国王尚貞あて、進貢の受け入れと、員役の摘回を知らせ、あわせて浙江へ漂流した二人の水夫を附搭して帰国させるむねの咨(一七〇三、五、一六)
福建等処承宣布政使司、進貢の事の為にす。
康煕四十一年十二月十二日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准くるに開す。切照するに、敞国は海壌に僻居し、世々天朝の隆恩に沐す。貢典に遵依し、二年に一貢す。欽遵して案に在り。査するに、康煕四十一年は当に貢すべきの期なり。特に耳目官毛興龍・正議大夫蔡応祥・都通事蔡灼等を遣わして、海船二隻に坐駕し、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を分装し、前んで福建等処承宣布政司に至り投納せしむ。督/撫両院に転詳して題明し、陪臣毛興龍等をして表文・方物を齎解し、京に赴きて聖禧を叩祝せしむるを乞為う外、所有の原船二隻は、仍お貴司歴貢の事例を査明し、其の余の員役を将て、来歳夏至の期の汛に于て、時に及んで遣発して国に回るを賜わるを准さんことを乞う。末員海上に濤に驚くに至らざらん。皆貴司の再生の徳に出ずる者なり。
更に去冬、特に都通事梁成揖・使者温允俊等を差わして、水梢を率領し、海船一隻に坐駕して、前んで福建地方に抵り、皇上の勅書併びに欽賜の物件を迎接せしむ。貢使毛得範・鄭職良等と同に、該応に一斉に国に回るべし。擬せず、今夏より冬に至るも、未だ帰帆するを見ず。四十年四月内に発せる船一隻に至りては、都通事鄭士綸等を差わして、難商陳明等を駕送して閩に至らしむるも、亦た未だ回るを見ず。何の故なるかを知らず。誠に恐る、海洋測り叵くして、或いは颶風に遭いて遠飄せるか、或いは汛に阻まれて閩の地に留滞せるか、倶に未だ定むべからず。伏して貴司恩を垂れ、来夏の早汛に于て速やかに貢船を摘回し、国に帰るを賜わらんことを乞う。尤も梁成揖・鄭士綸等の両船を将て、并せて発遣して帰らしめんことを祈る。感佩涯り無し。理として合に貴司に移咨すべし。煩為わくは査照して施行せんことを、等の因あり。司に到る。此れを准く。
又、稟報の事の為にす。
康煕四十二年四月二十二日、総督福浙部院仍管福州将軍事務加二級金(世栄)の軍令牌を奉ずるに、康煕四十二年四月十九日、礼部の咨を准くるに開す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。該本部前事を題する内に開すらく、該臣等議得するに、福建巡撫梅(鋗)疏称す。琉球国中山王尚貞、耳目官毛興龍等を遣わして、方物の硫黄・紅銅・煉熟白剛錫を進貢す。査験するに、該国の印信執照と相い符す。倶に館駅に発し安挿して宴待し、另に委官に行して、来使と同に進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除き、其の余の員役は仍お原船二隻に坐し、前年の接貢・存留の官伴を将て、一同に附搭し国に返らしむ。統て部議を候つ、等の語あり。査するに、琉球国の貢する所の方物は前年の数目と相い符す。進貢の来使毛興龍等を将て、定例に照らして其の京に赴くを准す。貢する所の熟硫黄一万二千六百觔は福建に交与し、例に照らして収貯し、臣の部より工部に移文し、応に用うべき処に于て使用するを聴す。閩に留まる官伴は例に照らして存留する外、其の余の員役は仍お応に原船二隻に坐し、先ず摘回を行うべし。其の失水撈存の柯梛什庫・多馬の二人も亦た応に附搭し另に回すべきこと可ならん、等の因あり。康煕四十二年三月十二日題す。本月十四日旨を奉ずるに、議に依れ、と。此れを欽む。欽遵し、抄出して司に送る。此れを奉ず。相い応に閩浙総督に移咨すべきこと可なり。此の為に合に咨して前去すべし。旨内の事理に遵照して施行せんことを、等の因あり。本部院将軍に到る。此れを准く。牌を備えて司に行す。部文内の奉旨の事理に照依し、即便に転行せよ。欽遵して、熟硫黄を将て飭令し数に照らして収貯せよ。仍お官伴の赴京及び回国の各日期、并びに前官伴の存留及び失水撈存の柯梛什庫・多馬の二人の附搭して国に回る縁由を取りて、一併に査明して通詳せよ。憑を以て察奪し会題せん。違う毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。本月二十三日、巡撫都察院梅(鋗)の憲牌を奉ずるに、行すること前因に同じ。司に到る。此れを奉ず。
案照するに、先に稟報の事の為にす。康煕四十一年十二月初一日、前総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに、康煕四十一年十月二十六日、礼部の咨を准くるに開す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。該本部前事を題する内に開すらく、礼科の抄出せる浙江巡撫趙(申喬)の前事を題する内に開す。該臣看得するに、琉球国の人進貢に因り国に回る。侍者の柯梛什庫并びに水手の多馬は、耳目官の水手人等一百三十人と同に康煕四十一年六月十二日に于て、福建閩安鎮に在りて開船し、海洋に行駕す。陡にして颶風に遇いて打壊し、各々皆水に落つ。止だ侍者の柯梛什庫・水手の多馬のみ有りて、板を抱き漂して乱礁洋面に至る。本月二十四日、象邑の民人彭兆栄有り、洋に至り魚を捕えんとし、見て撈救し汛防に稟報す。査験して象協に転解す。随いで経に詢明し、象山県に交発して収管せしむ。臣文に拠り、布政司に批行して査報せしめ、并せて該地方官に厳飭して意を加えて軫恤し、遠人を失所するに致すこと毋からしむる去後、今、布政使郎廷極の詳に拠るに称すらく、外番内地に入らば、例として応に具題して旨を候ち遵行すべし。査するに、琉球国の進貢の往来は倶に閩省に由る。今伊等の国に回るや、又閩省に在りて開船す。応に柯梛什庫・多馬の二人を将て、督臣に咨送し、近きに就きて査明し、便船有るに遇わば、着して附搭して国に回らしむべし、等の因あり。具詳して前来す。該司に批行し、該県に転飭して日々口糧を給し、意を加えて軫恤し、旨を候ちて欽遵せしむるを除く外、臣謹んで督臣郭(世隆)と会同し合詞して具題す。伏して部に勅し議覆せしめ、施行せんことを乞う。此の為に具本す。謹んで題して旨を請う、等の因あり。康煕四十一年七月二十六日題す。八月二十四日旨を奉ずるに、該部議奏せよと。此れを欽む。欽遵して本月二十五日に于て部に到る。
該臣等議得するに、浙江巡撫趙(申喬)疏称す。琉球国の差来せる進貢の来使柯梛什庫等一百三十人は福建由り開船し国に回る。陡にして颶風に遇い、船隻を打壊し各々皆水に落つ。只だ来使の柯梛什庫・水手の多馬の二人のみ有りて、板を抱き漂して乱礁洋面に至り、漁人彭兆栄の撈救するに遇う、等の語あり。相い応に柯梛什庫・多馬の二人を将て、送りて該督に至らしめ、例に照らして館駅に安挿して口糧・食物を給与し、伊の国に返る便船有るを俟ちて一同に発回すべし。其の颶風の打壊する船隻、落水の一百二十八人の存亡の処は、該督撫に行文し査明して部に報ぜしむること可ならん、等の因あり。康煕四十一年九月初七日題す。本月十三日旨を奉ずるに、這の琉球国の失水撈存の二人は、地方官に着して意を加えて贍養し、便船を俟ちて資給し発還せよ。此等の船隻の損壊し、人の溺傷せらるるは、皆艌を修せるに堅ならざるの致す所に因る。嗣後琉球の貢使国に回る時は、該督撫、須らく船隻を験視すべし。務めて堅固ならしめて以て朕の遠人を矜恤するの意に副え、と。此れを欽む。欽遵し抄出して部に到る。司に送る。此れを奉ず。相い応に該督に知照すべきこと可なり。合に咨して前去すべし。旨内の事理に遵照して施行せんことを、等の因あり。部院に到る。此れを准く。擬するに合に就ち行すべし。牌を備えて司に行す。文内の奉旨の事理に照依して即便に転行せよ。欽遵して、琉球国の来使柯梛什庫・多馬二人を将て、地方官に着して館駅に安挿し、口糧・食物を給与し、意を加えて贍養せよ。便船有るを俟ちて資給し一同に発回し、并せて風に遭い水に落ちたる一百二十八人の存亡の処を将て、速即に査明し通詳せよ。憑を以て部に咨せん。嗣後琉球国の貢船国に回るに、務めて修理して堅固なるを要するに至りては、験視して違い忽せにするを得る毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。
案照するに、先に康煕四十一年十月二十三日に于て、巡撫都察院梅(鋗)の憲牌を奉ず。礼部の咨を准くるに前事と同じ。院に到る。司に行す。此れを奉ず。
康煕四十二年正月二十四日、浙江寧波府象山県の申に拠るに称す。本年十二月十二日、本府の信牌を蒙く。浙江布政使郎(廷極)の憲牌を奉ず。総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに、礼部の咨を准くるに開す。前事等の因あり。院に到る。司に行す。部文内の奉旨の事理に照依し即便に転行せよ。欽遵して、漂到せる琉球国の来使柯梛什庫・多馬二人を将て、立即に査明し沿途に転飭して口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめ、便船有るを俟ちて、一同に発回せよ。違い忽せにするを得る毋かれ。速速たれ、等の因あり。此れを奉ず。擬するに合に就ち行すべし。府に仰くるに、部文内の奉旨の事理に照依し即便に欽遵せよ。該府迅かに柯梛什庫・多馬二人を将て、査明し沿途に転飭して口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめよ。便船有るを俟ちて、一同に発回し、仍お落水の一百二十八人の存亡の処を査明し、一並に具覆せよ。憑を以て転覆せん。均しく刻遅する毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。擬するに合に就ち行すべし。此の為に県に仰くるに、官吏は部文内の奉旨の事理に照依し即便に欽遵せよ。該県迅かに柯梛什庫・多馬二人を将て転移し、沿途、口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめよ。便船有るを俟ちて、一同に発回し、仍お落水の一百二十八人の存亡の処を査明し、一並に具覆せよ。憑を以て転覆せん。均しく刻遅する毋かれ。立速たれ、立速たれ、等の因あり。此れを蒙く。
本年十二月十六日、又、本府の信牌を蒙く。行すること前事に同じ。藩憲を転奉す。飭して委員をして護送して閩に赴かしめよ、等の因あり。県に到る。此れを蒙く。
卑職遵いて即ち象山県典史徐雲龍に委令して、琉球国の失水せる柯梛什庫・多馬二人を将て、意を加え小心に本年十二月二十一日に于て浙より起程し、護送して閩に至り、憲台の安挿を聴候し、便船有るを俟ちて発回せしめんとす。此の為に理として合に由を備えて文を給し、該典史に飭令して、閩に到るの日、轅に赴いて投逓せしむべし。伏して乞うらくは、憲台、査照して安挿し施行せんことを、等の由あり。司に到る。此れに拠る。倶に経に福防庁に檄行して遵照せしめ、并せて柯梛什庫・多馬二人を将て、該庁に飭令して査収して安挿し、口糧・食物を給与して意を加えて贍養し、国に返る便船有るを俟ちて一同に附搭し国に回らしむ。仍お落水せる一百二十八人の存亡の処を査して、文を具して回覆せしむる去後、茲に福州府清軍海防同知閻士元の回に拠るに称す。行するに、伝訳琉球国引礼通事馮濬新等の呈に拠るに称す。遵いて即ち耳目官毛興龍・正議大夫蔡応祥に訳諭す。随いで即ち彝員を伝集し、失水せる二彝の名字を細詢し、又備に遭風落水の縁由を詢ぬ。二彝の口称に拠るに、我れ柯梛什庫、原冊の名は金城なり。難商を護送せる都通事鄭士綸の水手に係る。我れ多馬、原冊の名は唐間なり。接貢船上の水手に係る。我二人は旧年六月十一日に于て、正議大夫鄭職良等に随いて国に回る。通船の官伴・水梢は共に計一百四十二員名なり。船に駕し鎮を出で、十二日巳時五虎門に在りて開洋す。十三日は平風静浪なり。十四日、忽ち北風を起こすこと異常狂大にして、通船の員伴は驚惶措く無く、天に叩して哀号す。随いで風篷の綍を将て割断し、船上の什物は尽く水中に抛つ。奈せん、風勢越々狂にして水櫃二個打散して水に入る。船竟に飛飄して南去す。十五日天明、風稍息む。未だ半時辰ならずして、又突として大南風を起こし、大雨盆を傾く。一時の間、船を将て圧倒し、船上の員伴・梢役、覆没して存する無し。此れ汪洋たる大海に係る。甚麼地方なるかを知らず。只だ城等水梢共に九人有る有るのみ。杉板の底浮きて水中より出ずる有るを見る。衆人命をちて擒えて板上に在り。晩に到り、大浪に衝没せられて去るもの三人なり。十六日、又大浪に漂去せらるるもの三人。十七日、又一人を漂没して止だ城等二人を剰すのみ。時に風稍止む。牢として杉板の底を擒え、水に任せて漂流し、凍餓して死せんと欲す。十九日、忽ち魚二尾有り、跳びて板上に在り。城等此の魚を将て生囓して饑に充つ。二十日晩、又魚一尾有り、跳びて板上に在り。又魚を将て饑に充つ。二十四日に至り、漂して乱礁洋地方に在り。討魚の船一隻に遇着し、城等二人を将て撈救す。他の船上に在りて飯を与えられ命を救わる。二十六日に至り、城等二人を送りて象山県に到り収養せらる、等の情あり。前来す。新等謹んで風に遭い失水せる難彝の口供を将て、実に拠りて回覆す。伏して酌奪し転報して施行せんことを乞う、等の情あり。庁に到る。此れに拠る。随いで査するに、称に拠れば原冊報の回国の官伴・水梢共に一百四十二員名の数は相い符す。但だ浙に在りての難彝の報には一百三十人と称す。彼れ此れ互異す。復た即ち駁査したる去後、又引礼通事馮濬新等の覆に拠るに称す。貢使毛興龍等に訳諭す。査拠するに、柯梛什庫・多馬二人は果して原冊報の金城・唐間の名字に係る。其の浙省にて供する所の一百三十人は、彼の時海中に失水し漂流すること十日、幸いに漁船の撈救するに逢うも、奄奄として一息す。送られて象山県に至りし時、問を蒙くるも音語通ぜざれば、口に随いて船内は一百三十人と答応す。城等二人は乃ち水手下人にして、並びに原報冊内の名数を知らず、等の情あり。前来す。新等難彝二人の口称を細詢し、実に拠りて回覆す。伏して転報して施行せんことを乞う、等の情あり。此れに拠る。
該卑職査得するに、柯梛什庫は即ち原冊報の金城にして、其の多馬も亦た即ち原冊報の唐間なり。各々経に通事供を訳して前来せり。檄に遵い例に照らして館駅に安挿し、口糧を請給して贍養するを除く外、応に夏汛の貢船摘回の日を俟ちて附搭して帰国せしむべきこと可なり。其の余の落水の官梢伴役人等の存亡の処は、該通事の訳に拠れば、二彝の供に拠るに員伴・梢役、倶に已に覆没して存するもの無しと称す。再査するに、該国の前の接貢船隻の摘回并せて附搭の京回するものと難商を護送するものと、共に官伴・水梢一百四十二員名なり。現今止だ金城・唐間の二彝を存するのみ。其の浙省に在りて供報せるの数は、又、称に拠れば音語通ぜずして口に随いて答応す、等の語あり。卑職復た査するに異なる無し。理として合に一并に詳覆すべし。伏して察核して転詳するを候つ、等の縁由あり。司に到る。此れに拠る。該本司査得するに、琉球国の失水の難彝柯梛什庫・多馬等二人は、文を奉ずるに例に照らして館駅に安挿し、口糧・食物を給与し、便船有るを俟ちて発回せよ。其の颶風の打壊する船隻、落水の一百二十八人の存亡の処は、査明せよ。部に報ぜん、等の因あり。遵いて経に福防庁に行令し例に照らして安挿し、口糧を給与して贍養し、該国の貢船の遣回の日を俟ちて一同に発回せしむ。嗣後該国の貢船国に回るに至りては、務めて修理して堅固なるを要め験視する外、査するに、康煕四十一年六月内の該彝の接回する進貢の官伴・水梢は共に計一百四十二員名なり。前に柯梛什庫・多馬二人の浙に在りての報称に拠れば、一百三十人なり。其の名数已に互異に属す。且つ原冊内を査するに、並びに柯梛什庫・多馬の字様無し。其の名字も亦た符せざるに属す。倶に経に飭査せしむる去後、茲に該庁に拠るに、着して通事をして訳せしむ。二彝の口称に拠るに、柯梛什庫は原冊名は金城にして難商を護送せる都通事鄭士綸の水手に係り、多馬は原冊名は唐間にして接貢船上の水手に係る。其の浙省にて供する所の一百三十人は、彼の時海中に失水し、奄奄として一息し、音語も通ぜざれば、口に随いて答応するものにして、水手下人なれば、並びに原報冊内の名数を知らず。其の風に遭い水に落つる員伴・梢役は倶に已に覆没して存するもの無し、の各等の情あり。申覆して前来す。相い応に拠りて転ずべし。伏して憲台の察奪して部に咨するを候つこと可ならん、等の縁由あり。本年三月初五日に于て、巡撫都察院梅(鋗)の批を奉ずるに、仰くるに督部院の会咨を候て。繳すと。此れを奉ず。本年三月十五日、本部院将軍金(世栄)の批を奉ずるに、仰くるに部に咨するを候て。仍お撫院の批示を候て。繳すと。此れを奉ず。倶に各々遵行して案に在り。今前因を准く。合に就ち咨覆すべし。此の為に由を備えて貴国に移咨す。請煩わくは査照して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王尚(貞)に咨す
康煕四十二年(一七〇三)五月十六日
進貢の事
咨
注(1)尚(貞)の咨を准くるに開す 尚貞の咨は〔〇二-〇八〕。引用は「切照するに」から注(2)まで。
(2)等の因あり 注(1)の咨の終り。
(3)総督福浙部院仍管福州将軍事務 福州将軍から浙閩総督(総督福浙部院)にうつったが、なお以前の福州将軍の職務も兼ねている、の意。福州将軍は福州に駐する駐防八旗(八旗の官兵はその多くが北京近辺に駐したが、さらに他の省の要衝の地にも配された)の長官。
(4)金(世栄) 総督としては康煕四十一年十月より四十五年五月まで、将軍としては康煕三十三年十月より四十四年十二月までそれぞれ在任。
(5)軍令牌 上級機関から下級機関への指令文書である牌の一つ。牌といわずに軍令牌とするのは金世栄が将軍を兼ねているためとも思われる。「用語解説」参照(牌の項目)。金の軍令牌は「康煕四十二年四月十九日」から注(14)まで。
(6)礼部の咨を准くるに開す 咨の引用は「主客清吏司の案呈は」から注(13)まで。
(7)案呈 校訂本は「送呈」とするも「案呈」の誤りか。「案呈」とみなして読み下す。
(8)該本部前事を題する内に開すらく 題の内容は「該臣等議得するに」から注(11)まで。
(9)福建巡撫梅(鋗)疏称す 梅鋗は康煕三十九年十月より四十三年十月まで福建巡撫に在任。疏の引用は「琉球国中山王尚貞」から注(10)まで。
(10)等の語あり 注(9)の疏の終り。
(11)等の因あり 注(8)の題の終り。
(12)抄出 「出」の字、校訂本は不明とするも「出」とみなして読み下す。
(13)等の因あり 注(6)の咨の終り。
(14)等の因あり 注(5)の軍令牌の終り。
(15)郭(世隆)の憲牌を奉ずるに 憲牌の引用は「康煕四十一年十月二十六日」から注(30)まで。
(16)礼部の咨を准くるに開す 礼部の咨は「主客清吏司の案呈は」から注(29)まで。〔〇二-一二〕の礼部から琉球国王への咨と同内容だが、一部の字句に違いがある。
(17)趙(申喬)の前事を題する内に開す 趙の題の引用は「該臣看得するに」から注(21)まで。
(18)文に拠り 「文」の字、校訂本では「収」とするも「文」が正しい。〔〇二-一二〕では「報文」とする。
(19)郎廷極の詳に拠るに称すらく 詳の引用は「外番内地に入らば」から注(20)まで。
(20)等の因あり 注(19)の詳の終り。
(21)等の因あり 注(17)の題の引用の終り。
(22)該臣等議得するに 議得の引用は「浙江巡撫趙(申喬)」から注(26)まで。
(23)趙(申喬)疏称す 疏の引用は「琉球国の差来せる」から注(24)まで。
(24)等の語あり 注(23)の疏の引用の終り。
(25)処 (…の)こと、(…の)件、の意。「用語解説」参照。
(26)等の因あり 注(22)の議得の終り。
(27)旨を奉ずるに 旨の引用は「這の琉球国の」から注(28)まで。
(28)此れを欽む 注(27)の旨の終り。
(29)等の因あり 注(16)の礼部の咨の終り。
(30)等の因あり 注(15)の憲牌の終り。
(31)寧波府 浙江省東北部、今の寧波市を中心にした一帯。
(32)申に拠るに称す 申の引用は「本年十二月十二日」から注(49)まで。
(33)本府 寧波府の長官である知府。
(34)信牌 「憲牌」と同じように上級機関から下級機関への指令文書。ここは象山県(の知県)が寧波府(の知府)の指示を受けている。信牌の引用は「浙江布政使郎(廷極)の憲牌を奉ず」から注(43)まで。
(35)郎(廷極)の憲牌を奉ず 憲牌の引用は「総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに」から注(41)まで。
(36)郭(世隆)の憲牌を奉ずるに 憲牌の引用は「礼部の咨を准くるに開す」から注(39)まで。
(37)福建藩司 藩司は布政使司のこと。
(38)速速たれ すみやかに行え、の意。
(39)等の因あり 注(36)の郭の憲牌の終り。
(40)該府 ここは寧波府。
(41)等の因あり 注(35)の郎の憲牌の終り。
(42)立速たれ、立速たれ 立は「たちどころに」。ただちに行え、の意。
(43)等の因あり 注(34)の信牌の終り。
(44)此れを蒙く 「蒙」は上級機関からの文書・命令をうけとること。「用語解説」参照。
(45)藩憲 藩司の憲牌の略か。布政使司からの指示。
(46)卑職 小官、小職。役人が自分をへりくだっていう語。ここは象山県の知県自身をさす。
(47)典史徐雲龍 典史は知県の下で一県の警察行政を掌る官。徐は康煕二十四年から四十七年まで在任(『乾隆)象山県志』巻四)。
(48)轅に赴いて 轅は官庁の外門(大門)。ここは福建布政使司に赴くこと。
(49)等の由あり 注(32)の申の終り。
(50)福州府清軍海防同知閻士元 福州府知府の下で清軍(軍隊の糧食供給等を掌る)と海防(沿海一帯の防守)の事務を担当する同知の閻士元。閻は康煕四十年より四十七年まで海防同知(『(乾隆)福建通志』巻二七)。〔〇一-〇五〕の注(65)参照。
(51)閻士元の回に拠るに称す 「回」は回文。「用語解説」参照。回の引用は「行するに」から注(79)まで。
(52)伝訳琉球国引礼通事 琉球の朝貢使節とこれに接する中国官吏との間での通訳を行う中国人通事か。引礼は「引導行礼」の略。
(53)馮濬新等の呈に拠るに称す 呈の引用は「遵いて即ち」から注(66)まで。
(54)訳諭す ここは通事馮等が中国側の措置等を、毛興龍・蔡応祥に訳し伝えたことか。
(55)伝集 呼びあつめる。
(56)二彝の口称に拠るに 口称の引用は「我れ柯梛什庫」から注(64)まで。
(57)五虎門 閩江口の東側を通る水路上の要衝で、閩江と外洋の境界にあたる。
(58)風篷の綍 篷は船の帆。綍は帆を操作するための綱。
(59)打散 くだけちる、こわれる。
(60)汪洋たる 海がはてしなく広がるさま。
(61)甚麼地方 どこの地方。
(62)討魚の船 漁船。
(63)遇着 出あうこと。
(64)等の情あり 注(56)の口称の終り。
(65)酌奪 適当な処分・裁断を下すこと。「用語解説」奪の項を参照。
(66)等の情あり 注(53)の呈の終り。
(67)原冊報 (琉球から中国へ送った)もともとの文書。
(68)駁査 上級機関が下級機関からの報告に対して、問題点ありとしてつきかえし調べ直させること。
(69)馮濬新等の覆に拠るに称す 覆の引用は「貢使毛興龍等に訳諭す」から注(74)まで。
(70)査拠するに 毛興龍等が二人の難民にあらためて事情をたずねたところでは、の意か。引用は「柯梛什庫・多馬二人は」から注(73)まで。
(71)奄奄として 息がたえだえなさま。
(72)口に随いて…答応す 口から出まかせに…と答えた。
(73)等の情あり 注(70)の終り。
(74)等の情あり 注(69)の覆の終り。
(75)檄 上級機関からの指令の文書。「用語解説」参照。
(76)官梢伴役 「官伴梢役」の誤か。
(77)詳覆 詳をもって回答する。「用語解説」参照。
(78)察核 詳細に調査する。
(79)等の縁由あり 注(51)の回の終り。
(80)文を奉ずるに ここの文は郭世隆からのもの(注(15)から注(30)までの憲牌)。ただしここでは郭からの指示(本文一六八頁を参照)は簡略に記されている。引用は注(81)まで。
(81)等の因あり 注(80)の簡略化された郭の指示の終り。
(82)口称に拠るに 口称は「柯梛什庫は」から注(83)まで。
(83)の各等の情あり 注(82)の口称の終り。
(84)申覆 申によって回答する。
(85)会咨 会は共同で、の意。「用語解説」参照。総督(金世栄)と巡撫(梅鋗)とが共同で礼部への咨を送る、の意か。
福建等処承宣布政使司、進貢の事の為にす。
康煕四十一年十二月十二日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准くるに開す。切照するに、敞国は海壌に僻居し、世々天朝の隆恩に沐す。貢典に遵依し、二年に一貢す。欽遵して案に在り。査するに、康煕四十一年は当に貢すべきの期なり。特に耳目官毛興龍・正議大夫蔡応祥・都通事蔡灼等を遣わして、海船二隻に坐駕し、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を分装し、前んで福建等処承宣布政司に至り投納せしむ。督/撫両院に転詳して題明し、陪臣毛興龍等をして表文・方物を齎解し、京に赴きて聖禧を叩祝せしむるを乞為う外、所有の原船二隻は、仍お貴司歴貢の事例を査明し、其の余の員役を将て、来歳夏至の期の汛に于て、時に及んで遣発して国に回るを賜わるを准さんことを乞う。末員海上に濤に驚くに至らざらん。皆貴司の再生の徳に出ずる者なり。
更に去冬、特に都通事梁成揖・使者温允俊等を差わして、水梢を率領し、海船一隻に坐駕して、前んで福建地方に抵り、皇上の勅書併びに欽賜の物件を迎接せしむ。貢使毛得範・鄭職良等と同に、該応に一斉に国に回るべし。擬せず、今夏より冬に至るも、未だ帰帆するを見ず。四十年四月内に発せる船一隻に至りては、都通事鄭士綸等を差わして、難商陳明等を駕送して閩に至らしむるも、亦た未だ回るを見ず。何の故なるかを知らず。誠に恐る、海洋測り叵くして、或いは颶風に遭いて遠飄せるか、或いは汛に阻まれて閩の地に留滞せるか、倶に未だ定むべからず。伏して貴司恩を垂れ、来夏の早汛に于て速やかに貢船を摘回し、国に帰るを賜わらんことを乞う。尤も梁成揖・鄭士綸等の両船を将て、并せて発遣して帰らしめんことを祈る。感佩涯り無し。理として合に貴司に移咨すべし。煩為わくは査照して施行せんことを、等の因あり。司に到る。此れを准く。
又、稟報の事の為にす。
康煕四十二年四月二十二日、総督福浙部院仍管福州将軍事務加二級金(世栄)の軍令牌を奉ずるに、康煕四十二年四月十九日、礼部の咨を准くるに開す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。該本部前事を題する内に開すらく、該臣等議得するに、福建巡撫梅(鋗)疏称す。琉球国中山王尚貞、耳目官毛興龍等を遣わして、方物の硫黄・紅銅・煉熟白剛錫を進貢す。査験するに、該国の印信執照と相い符す。倶に館駅に発し安挿して宴待し、另に委官に行して、来使と同に進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除き、其の余の員役は仍お原船二隻に坐し、前年の接貢・存留の官伴を将て、一同に附搭し国に返らしむ。統て部議を候つ、等の語あり。査するに、琉球国の貢する所の方物は前年の数目と相い符す。進貢の来使毛興龍等を将て、定例に照らして其の京に赴くを准す。貢する所の熟硫黄一万二千六百觔は福建に交与し、例に照らして収貯し、臣の部より工部に移文し、応に用うべき処に于て使用するを聴す。閩に留まる官伴は例に照らして存留する外、其の余の員役は仍お応に原船二隻に坐し、先ず摘回を行うべし。其の失水撈存の柯梛什庫・多馬の二人も亦た応に附搭し另に回すべきこと可ならん、等の因あり。康煕四十二年三月十二日題す。本月十四日旨を奉ずるに、議に依れ、と。此れを欽む。欽遵し、抄出して司に送る。此れを奉ず。相い応に閩浙総督に移咨すべきこと可なり。此の為に合に咨して前去すべし。旨内の事理に遵照して施行せんことを、等の因あり。本部院将軍に到る。此れを准く。牌を備えて司に行す。部文内の奉旨の事理に照依し、即便に転行せよ。欽遵して、熟硫黄を将て飭令し数に照らして収貯せよ。仍お官伴の赴京及び回国の各日期、并びに前官伴の存留及び失水撈存の柯梛什庫・多馬の二人の附搭して国に回る縁由を取りて、一併に査明して通詳せよ。憑を以て察奪し会題せん。違う毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。本月二十三日、巡撫都察院梅(鋗)の憲牌を奉ずるに、行すること前因に同じ。司に到る。此れを奉ず。
案照するに、先に稟報の事の為にす。康煕四十一年十二月初一日、前総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに、康煕四十一年十月二十六日、礼部の咨を准くるに開す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。該本部前事を題する内に開すらく、礼科の抄出せる浙江巡撫趙(申喬)の前事を題する内に開す。該臣看得するに、琉球国の人進貢に因り国に回る。侍者の柯梛什庫并びに水手の多馬は、耳目官の水手人等一百三十人と同に康煕四十一年六月十二日に于て、福建閩安鎮に在りて開船し、海洋に行駕す。陡にして颶風に遇いて打壊し、各々皆水に落つ。止だ侍者の柯梛什庫・水手の多馬のみ有りて、板を抱き漂して乱礁洋面に至る。本月二十四日、象邑の民人彭兆栄有り、洋に至り魚を捕えんとし、見て撈救し汛防に稟報す。査験して象協に転解す。随いで経に詢明し、象山県に交発して収管せしむ。臣文に拠り、布政司に批行して査報せしめ、并せて該地方官に厳飭して意を加えて軫恤し、遠人を失所するに致すこと毋からしむる去後、今、布政使郎廷極の詳に拠るに称すらく、外番内地に入らば、例として応に具題して旨を候ち遵行すべし。査するに、琉球国の進貢の往来は倶に閩省に由る。今伊等の国に回るや、又閩省に在りて開船す。応に柯梛什庫・多馬の二人を将て、督臣に咨送し、近きに就きて査明し、便船有るに遇わば、着して附搭して国に回らしむべし、等の因あり。具詳して前来す。該司に批行し、該県に転飭して日々口糧を給し、意を加えて軫恤し、旨を候ちて欽遵せしむるを除く外、臣謹んで督臣郭(世隆)と会同し合詞して具題す。伏して部に勅し議覆せしめ、施行せんことを乞う。此の為に具本す。謹んで題して旨を請う、等の因あり。康煕四十一年七月二十六日題す。八月二十四日旨を奉ずるに、該部議奏せよと。此れを欽む。欽遵して本月二十五日に于て部に到る。
該臣等議得するに、浙江巡撫趙(申喬)疏称す。琉球国の差来せる進貢の来使柯梛什庫等一百三十人は福建由り開船し国に回る。陡にして颶風に遇い、船隻を打壊し各々皆水に落つ。只だ来使の柯梛什庫・水手の多馬の二人のみ有りて、板を抱き漂して乱礁洋面に至り、漁人彭兆栄の撈救するに遇う、等の語あり。相い応に柯梛什庫・多馬の二人を将て、送りて該督に至らしめ、例に照らして館駅に安挿して口糧・食物を給与し、伊の国に返る便船有るを俟ちて一同に発回すべし。其の颶風の打壊する船隻、落水の一百二十八人の存亡の処は、該督撫に行文し査明して部に報ぜしむること可ならん、等の因あり。康煕四十一年九月初七日題す。本月十三日旨を奉ずるに、這の琉球国の失水撈存の二人は、地方官に着して意を加えて贍養し、便船を俟ちて資給し発還せよ。此等の船隻の損壊し、人の溺傷せらるるは、皆艌を修せるに堅ならざるの致す所に因る。嗣後琉球の貢使国に回る時は、該督撫、須らく船隻を験視すべし。務めて堅固ならしめて以て朕の遠人を矜恤するの意に副え、と。此れを欽む。欽遵し抄出して部に到る。司に送る。此れを奉ず。相い応に該督に知照すべきこと可なり。合に咨して前去すべし。旨内の事理に遵照して施行せんことを、等の因あり。部院に到る。此れを准く。擬するに合に就ち行すべし。牌を備えて司に行す。文内の奉旨の事理に照依して即便に転行せよ。欽遵して、琉球国の来使柯梛什庫・多馬二人を将て、地方官に着して館駅に安挿し、口糧・食物を給与し、意を加えて贍養せよ。便船有るを俟ちて資給し一同に発回し、并せて風に遭い水に落ちたる一百二十八人の存亡の処を将て、速即に査明し通詳せよ。憑を以て部に咨せん。嗣後琉球国の貢船国に回るに、務めて修理して堅固なるを要するに至りては、験視して違い忽せにするを得る毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。
案照するに、先に康煕四十一年十月二十三日に于て、巡撫都察院梅(鋗)の憲牌を奉ず。礼部の咨を准くるに前事と同じ。院に到る。司に行す。此れを奉ず。
康煕四十二年正月二十四日、浙江寧波府象山県の申に拠るに称す。本年十二月十二日、本府の信牌を蒙く。浙江布政使郎(廷極)の憲牌を奉ず。総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに、礼部の咨を准くるに開す。前事等の因あり。院に到る。司に行す。部文内の奉旨の事理に照依し即便に転行せよ。欽遵して、漂到せる琉球国の来使柯梛什庫・多馬二人を将て、立即に査明し沿途に転飭して口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめ、便船有るを俟ちて、一同に発回せよ。違い忽せにするを得る毋かれ。速速たれ、等の因あり。此れを奉ず。擬するに合に就ち行すべし。府に仰くるに、部文内の奉旨の事理に照依し即便に欽遵せよ。該府迅かに柯梛什庫・多馬二人を将て、査明し沿途に転飭して口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめよ。便船有るを俟ちて、一同に発回し、仍お落水の一百二十八人の存亡の処を査明し、一並に具覆せよ。憑を以て転覆せん。均しく刻遅する毋かれ、等の因あり。此れを奉ず。擬するに合に就ち行すべし。此の為に県に仰くるに、官吏は部文内の奉旨の事理に照依し即便に欽遵せよ。該県迅かに柯梛什庫・多馬二人を将て転移し、沿途、口糧・食物を資給し、意を加えて贍養せよ。小心に護送して福建藩司に赴き、査収して安挿せしめよ。便船有るを俟ちて、一同に発回し、仍お落水の一百二十八人の存亡の処を査明し、一並に具覆せよ。憑を以て転覆せん。均しく刻遅する毋かれ。立速たれ、立速たれ、等の因あり。此れを蒙く。
本年十二月十六日、又、本府の信牌を蒙く。行すること前事に同じ。藩憲を転奉す。飭して委員をして護送して閩に赴かしめよ、等の因あり。県に到る。此れを蒙く。
卑職遵いて即ち象山県典史徐雲龍に委令して、琉球国の失水せる柯梛什庫・多馬二人を将て、意を加え小心に本年十二月二十一日に于て浙より起程し、護送して閩に至り、憲台の安挿を聴候し、便船有るを俟ちて発回せしめんとす。此の為に理として合に由を備えて文を給し、該典史に飭令して、閩に到るの日、轅に赴いて投逓せしむべし。伏して乞うらくは、憲台、査照して安挿し施行せんことを、等の由あり。司に到る。此れに拠る。倶に経に福防庁に檄行して遵照せしめ、并せて柯梛什庫・多馬二人を将て、該庁に飭令して査収して安挿し、口糧・食物を給与して意を加えて贍養し、国に返る便船有るを俟ちて一同に附搭し国に回らしむ。仍お落水せる一百二十八人の存亡の処を査して、文を具して回覆せしむる去後、茲に福州府清軍海防同知閻士元の回に拠るに称す。行するに、伝訳琉球国引礼通事馮濬新等の呈に拠るに称す。遵いて即ち耳目官毛興龍・正議大夫蔡応祥に訳諭す。随いで即ち彝員を伝集し、失水せる二彝の名字を細詢し、又備に遭風落水の縁由を詢ぬ。二彝の口称に拠るに、我れ柯梛什庫、原冊の名は金城なり。難商を護送せる都通事鄭士綸の水手に係る。我れ多馬、原冊の名は唐間なり。接貢船上の水手に係る。我二人は旧年六月十一日に于て、正議大夫鄭職良等に随いて国に回る。通船の官伴・水梢は共に計一百四十二員名なり。船に駕し鎮を出で、十二日巳時五虎門に在りて開洋す。十三日は平風静浪なり。十四日、忽ち北風を起こすこと異常狂大にして、通船の員伴は驚惶措く無く、天に叩して哀号す。随いで風篷の綍を将て割断し、船上の什物は尽く水中に抛つ。奈せん、風勢越々狂にして水櫃二個打散して水に入る。船竟に飛飄して南去す。十五日天明、風稍息む。未だ半時辰ならずして、又突として大南風を起こし、大雨盆を傾く。一時の間、船を将て圧倒し、船上の員伴・梢役、覆没して存する無し。此れ汪洋たる大海に係る。甚麼地方なるかを知らず。只だ城等水梢共に九人有る有るのみ。杉板の底浮きて水中より出ずる有るを見る。衆人命をちて擒えて板上に在り。晩に到り、大浪に衝没せられて去るもの三人なり。十六日、又大浪に漂去せらるるもの三人。十七日、又一人を漂没して止だ城等二人を剰すのみ。時に風稍止む。牢として杉板の底を擒え、水に任せて漂流し、凍餓して死せんと欲す。十九日、忽ち魚二尾有り、跳びて板上に在り。城等此の魚を将て生囓して饑に充つ。二十日晩、又魚一尾有り、跳びて板上に在り。又魚を将て饑に充つ。二十四日に至り、漂して乱礁洋地方に在り。討魚の船一隻に遇着し、城等二人を将て撈救す。他の船上に在りて飯を与えられ命を救わる。二十六日に至り、城等二人を送りて象山県に到り収養せらる、等の情あり。前来す。新等謹んで風に遭い失水せる難彝の口供を将て、実に拠りて回覆す。伏して酌奪し転報して施行せんことを乞う、等の情あり。庁に到る。此れに拠る。随いで査するに、称に拠れば原冊報の回国の官伴・水梢共に一百四十二員名の数は相い符す。但だ浙に在りての難彝の報には一百三十人と称す。彼れ此れ互異す。復た即ち駁査したる去後、又引礼通事馮濬新等の覆に拠るに称す。貢使毛興龍等に訳諭す。査拠するに、柯梛什庫・多馬二人は果して原冊報の金城・唐間の名字に係る。其の浙省にて供する所の一百三十人は、彼の時海中に失水し漂流すること十日、幸いに漁船の撈救するに逢うも、奄奄として一息す。送られて象山県に至りし時、問を蒙くるも音語通ぜざれば、口に随いて船内は一百三十人と答応す。城等二人は乃ち水手下人にして、並びに原報冊内の名数を知らず、等の情あり。前来す。新等難彝二人の口称を細詢し、実に拠りて回覆す。伏して転報して施行せんことを乞う、等の情あり。此れに拠る。
該卑職査得するに、柯梛什庫は即ち原冊報の金城にして、其の多馬も亦た即ち原冊報の唐間なり。各々経に通事供を訳して前来せり。檄に遵い例に照らして館駅に安挿し、口糧を請給して贍養するを除く外、応に夏汛の貢船摘回の日を俟ちて附搭して帰国せしむべきこと可なり。其の余の落水の官梢伴役人等の存亡の処は、該通事の訳に拠れば、二彝の供に拠るに員伴・梢役、倶に已に覆没して存するもの無しと称す。再査するに、該国の前の接貢船隻の摘回并せて附搭の京回するものと難商を護送するものと、共に官伴・水梢一百四十二員名なり。現今止だ金城・唐間の二彝を存するのみ。其の浙省に在りて供報せるの数は、又、称に拠れば音語通ぜずして口に随いて答応す、等の語あり。卑職復た査するに異なる無し。理として合に一并に詳覆すべし。伏して察核して転詳するを候つ、等の縁由あり。司に到る。此れに拠る。該本司査得するに、琉球国の失水の難彝柯梛什庫・多馬等二人は、文を奉ずるに例に照らして館駅に安挿し、口糧・食物を給与し、便船有るを俟ちて発回せよ。其の颶風の打壊する船隻、落水の一百二十八人の存亡の処は、査明せよ。部に報ぜん、等の因あり。遵いて経に福防庁に行令し例に照らして安挿し、口糧を給与して贍養し、該国の貢船の遣回の日を俟ちて一同に発回せしむ。嗣後該国の貢船国に回るに至りては、務めて修理して堅固なるを要め験視する外、査するに、康煕四十一年六月内の該彝の接回する進貢の官伴・水梢は共に計一百四十二員名なり。前に柯梛什庫・多馬二人の浙に在りての報称に拠れば、一百三十人なり。其の名数已に互異に属す。且つ原冊内を査するに、並びに柯梛什庫・多馬の字様無し。其の名字も亦た符せざるに属す。倶に経に飭査せしむる去後、茲に該庁に拠るに、着して通事をして訳せしむ。二彝の口称に拠るに、柯梛什庫は原冊名は金城にして難商を護送せる都通事鄭士綸の水手に係り、多馬は原冊名は唐間にして接貢船上の水手に係る。其の浙省にて供する所の一百三十人は、彼の時海中に失水し、奄奄として一息し、音語も通ぜざれば、口に随いて答応するものにして、水手下人なれば、並びに原報冊内の名数を知らず。其の風に遭い水に落つる員伴・梢役は倶に已に覆没して存するもの無し、の各等の情あり。申覆して前来す。相い応に拠りて転ずべし。伏して憲台の察奪して部に咨するを候つこと可ならん、等の縁由あり。本年三月初五日に于て、巡撫都察院梅(鋗)の批を奉ずるに、仰くるに督部院の会咨を候て。繳すと。此れを奉ず。本年三月十五日、本部院将軍金(世栄)の批を奉ずるに、仰くるに部に咨するを候て。仍お撫院の批示を候て。繳すと。此れを奉ず。倶に各々遵行して案に在り。今前因を准く。合に就ち咨覆すべし。此の為に由を備えて貴国に移咨す。請煩わくは査照して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王尚(貞)に咨す
康煕四十二年(一七〇三)五月十六日
進貢の事
咨
注(1)尚(貞)の咨を准くるに開す 尚貞の咨は〔〇二-〇八〕。引用は「切照するに」から注(2)まで。
(2)等の因あり 注(1)の咨の終り。
(3)総督福浙部院仍管福州将軍事務 福州将軍から浙閩総督(総督福浙部院)にうつったが、なお以前の福州将軍の職務も兼ねている、の意。福州将軍は福州に駐する駐防八旗(八旗の官兵はその多くが北京近辺に駐したが、さらに他の省の要衝の地にも配された)の長官。
(4)金(世栄) 総督としては康煕四十一年十月より四十五年五月まで、将軍としては康煕三十三年十月より四十四年十二月までそれぞれ在任。
(5)軍令牌 上級機関から下級機関への指令文書である牌の一つ。牌といわずに軍令牌とするのは金世栄が将軍を兼ねているためとも思われる。「用語解説」参照(牌の項目)。金の軍令牌は「康煕四十二年四月十九日」から注(14)まで。
(6)礼部の咨を准くるに開す 咨の引用は「主客清吏司の案呈は」から注(13)まで。
(7)案呈 校訂本は「送呈」とするも「案呈」の誤りか。「案呈」とみなして読み下す。
(8)該本部前事を題する内に開すらく 題の内容は「該臣等議得するに」から注(11)まで。
(9)福建巡撫梅(鋗)疏称す 梅鋗は康煕三十九年十月より四十三年十月まで福建巡撫に在任。疏の引用は「琉球国中山王尚貞」から注(10)まで。
(10)等の語あり 注(9)の疏の終り。
(11)等の因あり 注(8)の題の終り。
(12)抄出 「出」の字、校訂本は不明とするも「出」とみなして読み下す。
(13)等の因あり 注(6)の咨の終り。
(14)等の因あり 注(5)の軍令牌の終り。
(15)郭(世隆)の憲牌を奉ずるに 憲牌の引用は「康煕四十一年十月二十六日」から注(30)まで。
(16)礼部の咨を准くるに開す 礼部の咨は「主客清吏司の案呈は」から注(29)まで。〔〇二-一二〕の礼部から琉球国王への咨と同内容だが、一部の字句に違いがある。
(17)趙(申喬)の前事を題する内に開す 趙の題の引用は「該臣看得するに」から注(21)まで。
(18)文に拠り 「文」の字、校訂本では「収」とするも「文」が正しい。〔〇二-一二〕では「報文」とする。
(19)郎廷極の詳に拠るに称すらく 詳の引用は「外番内地に入らば」から注(20)まで。
(20)等の因あり 注(19)の詳の終り。
(21)等の因あり 注(17)の題の引用の終り。
(22)該臣等議得するに 議得の引用は「浙江巡撫趙(申喬)」から注(26)まで。
(23)趙(申喬)疏称す 疏の引用は「琉球国の差来せる」から注(24)まで。
(24)等の語あり 注(23)の疏の引用の終り。
(25)処 (…の)こと、(…の)件、の意。「用語解説」参照。
(26)等の因あり 注(22)の議得の終り。
(27)旨を奉ずるに 旨の引用は「這の琉球国の」から注(28)まで。
(28)此れを欽む 注(27)の旨の終り。
(29)等の因あり 注(16)の礼部の咨の終り。
(30)等の因あり 注(15)の憲牌の終り。
(31)寧波府 浙江省東北部、今の寧波市を中心にした一帯。
(32)申に拠るに称す 申の引用は「本年十二月十二日」から注(49)まで。
(33)本府 寧波府の長官である知府。
(34)信牌 「憲牌」と同じように上級機関から下級機関への指令文書。ここは象山県(の知県)が寧波府(の知府)の指示を受けている。信牌の引用は「浙江布政使郎(廷極)の憲牌を奉ず」から注(43)まで。
(35)郎(廷極)の憲牌を奉ず 憲牌の引用は「総督福浙部院郭(世隆)の憲牌を奉ずるに」から注(41)まで。
(36)郭(世隆)の憲牌を奉ずるに 憲牌の引用は「礼部の咨を准くるに開す」から注(39)まで。
(37)福建藩司 藩司は布政使司のこと。
(38)速速たれ すみやかに行え、の意。
(39)等の因あり 注(36)の郭の憲牌の終り。
(40)該府 ここは寧波府。
(41)等の因あり 注(35)の郎の憲牌の終り。
(42)立速たれ、立速たれ 立は「たちどころに」。ただちに行え、の意。
(43)等の因あり 注(34)の信牌の終り。
(44)此れを蒙く 「蒙」は上級機関からの文書・命令をうけとること。「用語解説」参照。
(45)藩憲 藩司の憲牌の略か。布政使司からの指示。
(46)卑職 小官、小職。役人が自分をへりくだっていう語。ここは象山県の知県自身をさす。
(47)典史徐雲龍 典史は知県の下で一県の警察行政を掌る官。徐は康煕二十四年から四十七年まで在任(『乾隆)象山県志』巻四)。
(48)轅に赴いて 轅は官庁の外門(大門)。ここは福建布政使司に赴くこと。
(49)等の由あり 注(32)の申の終り。
(50)福州府清軍海防同知閻士元 福州府知府の下で清軍(軍隊の糧食供給等を掌る)と海防(沿海一帯の防守)の事務を担当する同知の閻士元。閻は康煕四十年より四十七年まで海防同知(『(乾隆)福建通志』巻二七)。〔〇一-〇五〕の注(65)参照。
(51)閻士元の回に拠るに称す 「回」は回文。「用語解説」参照。回の引用は「行するに」から注(79)まで。
(52)伝訳琉球国引礼通事 琉球の朝貢使節とこれに接する中国官吏との間での通訳を行う中国人通事か。引礼は「引導行礼」の略。
(53)馮濬新等の呈に拠るに称す 呈の引用は「遵いて即ち」から注(66)まで。
(54)訳諭す ここは通事馮等が中国側の措置等を、毛興龍・蔡応祥に訳し伝えたことか。
(55)伝集 呼びあつめる。
(56)二彝の口称に拠るに 口称の引用は「我れ柯梛什庫」から注(64)まで。
(57)五虎門 閩江口の東側を通る水路上の要衝で、閩江と外洋の境界にあたる。
(58)風篷の綍 篷は船の帆。綍は帆を操作するための綱。
(59)打散 くだけちる、こわれる。
(60)汪洋たる 海がはてしなく広がるさま。
(61)甚麼地方 どこの地方。
(62)討魚の船 漁船。
(63)遇着 出あうこと。
(64)等の情あり 注(56)の口称の終り。
(65)酌奪 適当な処分・裁断を下すこと。「用語解説」奪の項を参照。
(66)等の情あり 注(53)の呈の終り。
(67)原冊報 (琉球から中国へ送った)もともとの文書。
(68)駁査 上級機関が下級機関からの報告に対して、問題点ありとしてつきかえし調べ直させること。
(69)馮濬新等の覆に拠るに称す 覆の引用は「貢使毛興龍等に訳諭す」から注(74)まで。
(70)査拠するに 毛興龍等が二人の難民にあらためて事情をたずねたところでは、の意か。引用は「柯梛什庫・多馬二人は」から注(73)まで。
(71)奄奄として 息がたえだえなさま。
(72)口に随いて…答応す 口から出まかせに…と答えた。
(73)等の情あり 注(70)の終り。
(74)等の情あり 注(69)の覆の終り。
(75)檄 上級機関からの指令の文書。「用語解説」参照。
(76)官梢伴役 「官伴梢役」の誤か。
(77)詳覆 詳をもって回答する。「用語解説」参照。
(78)察核 詳細に調査する。
(79)等の縁由あり 注(51)の回の終り。
(80)文を奉ずるに ここの文は郭世隆からのもの(注(15)から注(30)までの憲牌)。ただしここでは郭からの指示(本文一六八頁を参照)は簡略に記されている。引用は注(81)まで。
(81)等の因あり 注(80)の簡略化された郭の指示の終り。
(82)口称に拠るに 口称は「柯梛什庫は」から注(83)まで。
(83)の各等の情あり 注(82)の口称の終り。
(84)申覆 申によって回答する。
(85)会咨 会は共同で、の意。「用語解説」参照。総督(金世栄)と巡撫(梅鋗)とが共同で礼部への咨を送る、の意か。