もっと知りたい交流史 琉球人が旅した中国ー那覇から福州へ
那覇から閩安鎮へ
那覇を出発した貢船は、慶良間諸島や久米島などを経由して、福州へと向かいます。閩江の河口附近にある五虎門から遡って進み、琉球館を目指しました。
嘉慶23年(1818)に派遣された接貢船の記録(2-123-09)を見てみると、嘉慶23年9月13日(1818年10月12日)未の刻(午後2時頃)に接貢船が福建の近海(四嶼洋面)に到達し、14日に清国側の護送により五虎門を通過して午の刻(12時頃)に亭頭怡山に到着します。この時に存留通事として派遣された蔡修の家譜資料(『那覇市史 家譜(二)』270頁)には、嘉慶23年9月6日(1818年10月5日)に那覇を出発したことが記録されていますので、那覇を出発してから一週間程度で五虎門に到着していることになります。五虎門は閩江の河口に位置し、福州への玄関口ともいえる場所です。亭頭怡山は怡山院天妃宮があったところで、近くには海防の要衝である閩安鎮があります。亭頭怡山に到着すると貢船は一度停泊して閩安鎮の役人の検査(会験)を受けました。
下船、そして福州琉球館へ
検査(会験)を終えた接貢船はさらに閩江を遡って進んで行きます。『歴代宝案』によれば、嘉慶23年9月18日(1818年10月17日)に南台の番船浦に船を停泊させます。南台は福建省閩侯県の南にある南台島のことで、番船浦は閩江沿いにある外国船の停泊所です。新港や官田墩、林浦など、貢船の停泊所は時代によって変化していきますが、嘉慶年間の終り頃から番船浦が使用されるのが一般的となっていきました。南台島と福州中心地の間には両地を結ぶ大万寿橋という長さが約400mある大きな橋があり、中間に位置する中洲島には閩海関という税関の役割を担う役所が置かれていました。ハーバード大学燕京図書館所蔵のEdward Bangs Drew Collectionの中には19世紀末ごろの福州の写真があり、万寿橋を行きかう人々や、閩江沿いに停泊するジャンク船や水上生活者(蛋戸・蛋民)の船が撮影されています。福州に到着した琉球人たちを出迎えたのはこのような風景だったかも知れません。
嘉慶23年9月21日(西暦1818年10月20日)に、閩海関などの役人による貢船の荷物や乗組員への検査を経て、一行はようやく琉球館に落ち着くことができました。琉球館には閩江から通っているクリークを、小舟を使用して近くまで遡上して上陸します。琉球館は柔遠駅とも呼ばれ、琉球館が位置した琯後街には貿易の仲買を担う商人である球商(客商)も住んでいました。琉球館は清国滞在中の琉球人たちの居住地であると共に開館貿易の場所でもあり、翌年に帰国するまで琉球人たちはここで進貢業務や貿易などに従事したのです。
【参考資料】
『中国福建省における琉球関係史跡調査報告書』(琉中関係研究会編、2009年)
(冨田 千夏)