了解更多交流史 漂着した琉球⼈と琉球炉
中国に漂着した琉球⼈の救済措置

『歴代宝案』には、多くの漂流・漂着にかかわる文書が収録されています。なかでも中国に漂着した件数は、近隣諸国のなかで琉球がもっとも多かったようです。漂着船をみると、漁船や琉球・鹿児島間の定期船(楷船)のほか、琉球の島嶼間を航行していた公用船(地船)が多くを占めますが、そのほとんどは、暴風などの突発的な自然現象によって引き起こされ、台風が襲来しやすい旧暦6~7月に集中しています。漂着地は、浙江省がもっとも多く、ついで福建省(台湾府含む)・江蘇省・山東省など、ほぼ中国の沿岸全域におよんでいます。
明代・清代の中国では、漂着者の救助・送還に関する細かい規定があり、各地の役人はその規定にそって彼らを救済していました。
琉球船が漂着すると、まず当該地の役人による取り調べがおこなわれました。福州から比較的近い地域では、中国人の琉球語通訳である土通事が現地へ派遣されることもありました。漂着した琉球人は琉球館のある福州へ送って、福州から琉球に帰国させるのが通例でした。もともと乗ってきた船が堅固な場合は軍船が福州まで護送し、進貢船や接貢船とともに帰国しました。船が失われた場合は陸路で護送し、福州から帰国する進貢船や接貢船、あるいは他の漂着船などに便乗させていました。
漂着地では、毎日米や塩などの食料のほか、季節にあわせて衣服なども支給されました。また、漂着者が交易をおこなうことは禁止されていましたが、福州まで運ぶことが困難な船や貨物を現地で売却し銀両などを持ち帰ることは、救済の一環として許可されていました。『歴代宝案』ではこの売却を「変売」と呼び、換金して得た銀子を「変価銀」といいます。たとえば積荷の米などを売ってその銀両を持ち帰ることは許されていました。一方で、琉球人が持ち込んだ品物が、売却される代わりに世話になった現地役人へ贈られた例もありました。ここでは、その事例について取り上げてみましょう。
中国に残る「琉球炉」

江蘇省の東北部にある連雲港市博物館には「琉球炉」とよばれるものが保管されています。これは、1816年(嘉慶21)6⽉に江蘇省海州に漂着した⽑朝⽟が、救助にあたった海州の知州(州の⻑官)師亮采に感謝の印として贈った銅炉です。高さ20.5㎝、口径17.7㎝、重さ5.1㎏、円形で胴部は鼓のようになっています。三つ足で、炉身には中央に大きく「琉球鑪」と刻まれ、その両側に「嘉慶丙子秋月/朝議大夫知海州事/韓城師亮采題」と記され、反対側に炉が寄贈された由来が刻まれているようです。
この琉球炉は、なかに炭を入れ、湯を沸かしたり物を煮炊きする道具、または茶道で使われる風炉だと思われます。
毛朝玉は首里系毛氏、琉球名を兼本親雲上盛白といいます。『御使者在番記』に1814年(嘉慶19)、八重山在番として、筆者(書記官)の泊村明氏森松筑登之親雲上長恒・那覇の親泊筑登之親雲上英恒とともに八重山に渡ったこと、子年(1816年)6月6日、御米漕馬艦船主泊村端慶山里之子親雲上の船より乗合帰帆、森松・親泊も同じく帰帆と記されています。
「琉球炉」を寄贈された師亮采(1768~?)は陕西省韓城県の人で、師亮采は号で本名は師兆龍、字名を承祖といいました。1798年に科挙の郷試に合格し、1804年に安東県(現在の江蘇省連江県)の知県(知事)となり代理として海州直隷州の知州(州の長官)も兼任。1812年には海安県の同知を務め、1815年には秦郵(現在の江蘇省高郵市)の太守に任じられています。⽑朝⽟等が漂着した嘉慶丙子年(嘉慶21=1816)当時は、海州(現在の江蘇省にあった州)の知州でした。なお、清代中国の制度では、朝議大夫は従四品の官僚に与えられる官位で一代限りのものです。
「琉球炉」はどのような経緯で中国に残されたのでしょうか、まずは寄贈した毛朝玉の漂着事件についてみていきましょう。
⽑朝⽟等の中国漂着
『歴代宝案』2-121-04 (咨覆〔返書〕は2-122-02 )には「琉球国の巡⾒官⽑朝⽟等23名が、⼋重⼭に赴いて年貢の粟・米・布疋などを徴収し帰帆する。」という記述があります。
「巡⾒官」とは、王国時代、疲弊した間切の再建や⾵俗の引き締め等で王府が派遣した役人(下知役)のことです。以下、『歴代宝案』の記述から概略をみていきます。
⽑朝⽟等23名は、1816年(嘉慶21)6⽉13⽇⼋重⼭を出航後、次の⽇暴⾵に遇って漂流を続け江蘇省海州に漂着しました。海州では江蘇省城に送り、番銀(メキシコドル銀貨)および食料などを支給し、さらに⽑朝⽟等の船を売却した番銀500円が⽀払われ、陸路より護送されて福建に向かい、9月4日および6日に琉球館に到着しました。また、布政使の瑞麟は、江蘇省ですでに番銀や物件を支給したので、福建ではかさねて支給する必要はない、琉球館到着の日より数えて毎日一人当たり米一升・塩菜銀(米以外の副食物の規定額)六厘を給し、帰国するときには一ヶ月分の食料を支給するように、それらはすべて嘉慶21年分の存公銀(公金)より支出し、一連のことが終われば決算報告を作成するように、と述べています。
当時福州には、琉球に漂着した中国・朝鮮⼈漂着⺠を護送してきた都通事⾦思明・⽑元会・王秉⾏の護送船3隻が係留しており、⽑朝⽟等23⼈はこの3隻の護送船に分乗し、翌年3⽉22⽇に⽑朝⽟等16⼈は王秉⾏の乗る護送船に乗船し帰国の途についています。
なお、出洋後、⽑朝⽟等16⼈の乗った護送船は、洋上で再び暴⾵に遇い、さらに⼤桅(メインマスト)を折って広東省に再漂着、そこで船を修復し福州に戻り、その後、福州で⾵待ちをして無事に帰国しています(歴代宝案2-122-02)。
『歴代宝案』2-121-04は、代理の福建布政使であり按察使である覚羅麟祥より琉球国王に送られた文書です。本文書には、福建巡撫兼代理総督の王紹蘭の指示文書のなかに、江蘇巡撫の胡克家の報告と福建布政使の瑞麟の文書が引用されるなど、『歴代宝案』独特の入れ子構造をなしており、なかなか複雑な構造の文書ですが、⽑朝⽟等を最初に保護した海州地州の師亮采の名は『歴代宝案』には出てきません。「江蘇撫臣胡(克家)の報告を受けたところ、(中略)毛朝玉等23名の人船、海州に漂至するあり」と記されるだけです。
『海州⽂献録』に記された漂着事件
ところが、中国の地方志である『海州⽂献録』(巻15雑綴)には、⽑朝⽟等の漂流・漂着、そして救済の経緯が、『歴代宝案』よりも詳しく記されています。以下はその概要です。
海州の鷹遊山は、東連島と西連島の間にあり、海洋へ出る門戸となるところです。嘉慶丙子二十一年、風に流された琉球国の船がその地に漂着しました。海州知州の師亮采が漂着地に出向いて毛朝玉等を保護しました。琉球の船は、舳先が細く船腹が広い船で、漂着者はみな僧⾐のようなものを纏い幅広い帯を締め、裸⾜に下駄を履き頭はカタカシラを結い、冠はかぶらず、簪を挿していました。そのなかに50余歳と思われる者一人が儒者の⾵貌で⻩冠(⻩⾊の⼋巻。正二品から従七品の士族の冠)をかぶっていました。⾔葉が通ぜず筆談をしたところ、琉球国の⼋品の巡⾒官・⽑朝⽟とのことでした。⾵俗を引き締めるために王府から八重山に派遣され、3年の満期を経て王府に戻るため、租賦(年貢)の⽶や粟を積んだ船に乗り込んだということでした。⼋重⼭を出航した後に、暴⾵に遇い、15昼夜漂流を続け海州に漂着しました。荒波の中、船のバランスがとれなくなったため積荷の6・7割を海中に棄ててしまった、ということでした。ちょうど海州では賓興礼(郷試受験生のために地方官が催す宴)が開かれており、師亮采は毛朝玉等を引き連れて公館で宴に参加させました。一方で、師亮采は⽑朝⽟等を閩(福建)へ護送し、貢船で帰国させるよう上官に請うています。薛瓞村(人名)がその像を描き、衣襟に各々の姓氏を記しました。銭泳(人名、号は梅渓)がその絵に「鷹遊登岸図」と題しています。
『海州⽂献録』には、『歴代宝案』には記されていない⽑朝⽟以外の⽑邦翼・⻑顕宗・夏林賢といった漂着者の名前も記録されています。 また、当時、銅は持ち出しが禁⽌されていたことから、通常はこうした銅類は現地あるいは福州琉球館で変売されるケースが多いのですが、この琉球炉は、もてなしを受けた毛朝玉が売却せず世話になった海州知州の師亮采に贈ったものなのだということがわかります。その経緯が炉身に刻まれ、地方志にも記されたということは、漂着した琉球人と地元文化人の意外な交流の一面を示すものといえましょう。(⾚嶺 守)
【参考⽂献】
- 財団法⼈沖縄県⽂化振興会公⽂書管理部史料編集室編、金城正篤校訂『歴代宝案』校訂本第9冊、沖縄県教育委員会、2003年
- 許喬林編『海州⽂献録』(1842年〔道光25〕刊)
- 外間みどり「琉球国八品巡見官毛朝玉等二十三人の漂流と『琉球鑪』」『沖縄史料編集紀要』第35号、沖縄県教育委員会、2012年