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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-07-13 太常寺少卿夏子陽・光禄寺寺丞王士楨より国王尚寧あて、倭との通商の厳禁を諫言する咨(一六〇七、一二、一九)
大常寺少卿夏(子陽)/光禄寺寺丞王(士楨)、夷情を俯恤し、題請して通商を議処して以て国用に需え、以て諸艱を済うを賜うを懇う事の為にす。
万暦三十五年(一六〇七)十月内、琉球国の差来せる謝恩の陪臣王舅毛鳳儀、大夫鄭道・阮国、都通事毛国鼎等の呈送せる中山王の咨文に拠るに称すらく、前事の為にす。内に称するに、切に以うに、聖人は極を御し中国に涖みて四夷を撫す。東西二洋を開きて興販し、餉に充てて以て辺費を足す。琉球も亦た属国に在るも、貿易通ぜずして国瘦せ民貧ならしむるを致す。琉球は旧開国の初めより、欽んで聖祖の三十六姓を恩撥し入琉して幹国するを蒙る。旧例を稽査するに、原、朝鮮・交址・暹邏・柬埔寨と興販する有り。是れに縁りて卑国は陸続として資藉に依るを得たるも、今に迄りて三十六姓世々久しく人湮び、夷酋は指南車の路を諳んぜず。是を以て各港に販するを断つ。計るに今六十多年、毫も利の入る無く、日鑠月銷し貧にして洗うが若し。況んや又、地窄く人希なるをや。賦税の入る所は略出ずる所を償うも、斯くの如く匱窘なり。若し議処を懇乞せざれば則ち国本は日に虚しく、民間は日に罄きん。幸いに天使按臨して頒封するに逢い、正当に議処するを懇乞し、富庶に資せしむべし。理として合に題請を懇乞すべし。両院に通行し引を給して商販せしめ、毎年定めて一、二隻の船を以て率と為し、例として東洋に比して餉に充て、或いは船隻の往来は、卑国、号引を詳査し、給するに勘合印信を以てし、回に照らして査験せん。倘し回文・印信無くば、則ち是れ別港に私通するの情弊なり、等の因ありて前来す。
此れに拠りて査得するに、貴国の給引通商は、原旧例無し。即ち聖祖は国の初め、賜うに三十六姓有るも亦た該国入貢の航海は風濤測り叵き為にして、彼の三十六姓なる者は能く操舟を習知すれば以て導引と為さしめんのみ。豈に興販の為にして設けんや。夫れ貴国は素より貧瘠を称し、既に物産の貿易を通ず可き無く、又資財の積儲に備う可き無し。其の患う所は貧に在りと雖も、其の恃みて以て安しと為す所も亦た貧に在り。若し富国を浮慕して通商を欲するを議せば、名を往来に託して貴国は陰かに実に倭夷と市を為さん。但だに禁を隳りて奸を長ぜしむるのみならず、将来中国の憂を遺す。窃かに恐るに、争奪して啓釁し、殺掠之に随わん。所謂延寇入室にして、亦た貴国の為す所の自保の計に非ざるのみ。豈に惟だに利を失うのみならんや、害、焉より大なるは莫し。
本寺等、前に貴国に在りし時、適々倭舶も亦た来りて貿易す。本寺等、禁絶を厳示して、一人も倭夷と交易するを許さざるは、正に此れを見る有ればなり。貴国豈に利有るを知りて害有るを知らず、目前を急ぎて後患を顧みざる可けんや。通商の議は断じて開く可からず。即ち貴国此れより前、進貢船の回るに、夷官往往にして奸徒を夾帯して潜かに日本に販し、口を飄風に藉るも亦た、査究して之を申厳せざる可からざるなり。合行に咨覆すべし。煩為わくは査照して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王に咨す
万暦三十五年(一六〇七)十二月十九日
注(1)大常寺少卿夏(子陽)、光禄寺寺丞王(士楨) 大常寺は正しくは太常寺。万暦三十四年(一六〇六)、中山王尚永の諭祭と尚寧の冊封のために派遣された正使夏子陽と副使王士楨は、帰国後この官に陞った。『明実録』万暦三十五年閏六月己卯の条を参照。なお、太常寺は祭祀礼楽の一切の具体的な手順を行う役所で、卿一人、少卿二人、寺丞二人、等である。光禄寺は祭享・宴労等に必要な食料その他の物資を収貯し管理する。卿一人、少卿二人、寺丞二人、等の職がある。
(2)俯恤 かえりみて気遣う。
(3)聖人 天子をさす。
(4)極を御し 天子の位にあること。
(5)東西二洋を開きて…足す 明では、隆慶六年(一五七二)より、港を福建の漳州府海澄の一カ所に限って、一定の管理下に餉税等を課して商船の下海を許した(張燮『東西洋考』巻七、餉税考)。すなわち開洋である。東西二洋とは、商船の行先を針路によって大きく二つに分け、呂宋国から蘇禄国、文萊国方面を東洋と称し、交阯東京、占城国、暹羅国、および旧港・啞斉国等々の方面を西洋としたものである(同、巻九、舟師考)。はじめは輸入商品に商税を課していたのみであった(万暦元年序『漳州府志』巻五、「商税附新行事例」)が、万暦三年に、東西洋へ行く船に引(特許状)を与え、引ごとに銀三両を徴し、これを兵餉に当てることがはじまった(『東西洋考』巻七)。引の数、餉税の額、引の行先別割りあてなど、その後変化があったものの(許孚遠『敬和堂集』所収「海禁条約行分弁漳南道」)、日本および琉球方面には、この制度は適用されず、海禁が続けられた。
(6)三十六姓 閩人三十六姓〔〇四-〇五〕注(4)(23)参照。なお聖祖は明初の皇帝を特定せずに尊称した表現。
(7)幹国 幹は、あずかる。かかわるの意。
(8)柬埔寨 『歴代宝案』にカンボジア関係の文書は残っていないが、十五、六世紀にはプノンペン付近を中心に、中国人や日本人がさかんに交易を行なった(『東西洋考』巻三、など。また、岩生成一『南洋日本町の研究』第四章、昭和四十一年を参照)ことから、琉球との交渉も当然あったことと思われる。
(9)資藉 たよる、力とする。
(10)日鑠月銷 次第におとろえるさま。
(11)匱窘 匱は乏しい、窘は苦しむの意。
(12)国本 国の根本。また人民のこと。
(13)富庶 人口が多く富んでいること。
(14)引 注(5)参照。
(15)号引 号数のついた引。
(16)勘合印信 割り印のある文書。
(17)回 回文。相手からうけた返事の文。
(18)浮慕 かるがるしく慕う。
(19)延寇入室 延はまねく。自ら災いをまねくこと。ここでは倭寇を内部へ引きこむ、の意。
(20)自保 「自」は不明字であるが、残された字形から推察した。
(21)本寺…貿易す 夏子陽・王士楨が滞琉中の万暦三十四年(一六〇六)九月に、倭舶が琉球へ来た事件があった(夏子陽・王士楨『使琉球録』上)。
大常寺少卿夏(子陽)/光禄寺寺丞王(士楨)、夷情を俯恤し、題請して通商を議処して以て国用に需え、以て諸艱を済うを賜うを懇う事の為にす。
万暦三十五年(一六〇七)十月内、琉球国の差来せる謝恩の陪臣王舅毛鳳儀、大夫鄭道・阮国、都通事毛国鼎等の呈送せる中山王の咨文に拠るに称すらく、前事の為にす。内に称するに、切に以うに、聖人は極を御し中国に涖みて四夷を撫す。東西二洋を開きて興販し、餉に充てて以て辺費を足す。琉球も亦た属国に在るも、貿易通ぜずして国瘦せ民貧ならしむるを致す。琉球は旧開国の初めより、欽んで聖祖の三十六姓を恩撥し入琉して幹国するを蒙る。旧例を稽査するに、原、朝鮮・交址・暹邏・柬埔寨と興販する有り。是れに縁りて卑国は陸続として資藉に依るを得たるも、今に迄りて三十六姓世々久しく人湮び、夷酋は指南車の路を諳んぜず。是を以て各港に販するを断つ。計るに今六十多年、毫も利の入る無く、日鑠月銷し貧にして洗うが若し。況んや又、地窄く人希なるをや。賦税の入る所は略出ずる所を償うも、斯くの如く匱窘なり。若し議処を懇乞せざれば則ち国本は日に虚しく、民間は日に罄きん。幸いに天使按臨して頒封するに逢い、正当に議処するを懇乞し、富庶に資せしむべし。理として合に題請を懇乞すべし。両院に通行し引を給して商販せしめ、毎年定めて一、二隻の船を以て率と為し、例として東洋に比して餉に充て、或いは船隻の往来は、卑国、号引を詳査し、給するに勘合印信を以てし、回に照らして査験せん。倘し回文・印信無くば、則ち是れ別港に私通するの情弊なり、等の因ありて前来す。
此れに拠りて査得するに、貴国の給引通商は、原旧例無し。即ち聖祖は国の初め、賜うに三十六姓有るも亦た該国入貢の航海は風濤測り叵き為にして、彼の三十六姓なる者は能く操舟を習知すれば以て導引と為さしめんのみ。豈に興販の為にして設けんや。夫れ貴国は素より貧瘠を称し、既に物産の貿易を通ず可き無く、又資財の積儲に備う可き無し。其の患う所は貧に在りと雖も、其の恃みて以て安しと為す所も亦た貧に在り。若し富国を浮慕して通商を欲するを議せば、名を往来に託して貴国は陰かに実に倭夷と市を為さん。但だに禁を隳りて奸を長ぜしむるのみならず、将来中国の憂を遺す。窃かに恐るに、争奪して啓釁し、殺掠之に随わん。所謂延寇入室にして、亦た貴国の為す所の自保の計に非ざるのみ。豈に惟だに利を失うのみならんや、害、焉より大なるは莫し。
本寺等、前に貴国に在りし時、適々倭舶も亦た来りて貿易す。本寺等、禁絶を厳示して、一人も倭夷と交易するを許さざるは、正に此れを見る有ればなり。貴国豈に利有るを知りて害有るを知らず、目前を急ぎて後患を顧みざる可けんや。通商の議は断じて開く可からず。即ち貴国此れより前、進貢船の回るに、夷官往往にして奸徒を夾帯して潜かに日本に販し、口を飄風に藉るも亦た、査究して之を申厳せざる可からざるなり。合行に咨覆すべし。煩為わくは査照して施行せんことを。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国中山王に咨す
万暦三十五年(一六〇七)十二月十九日
注(1)大常寺少卿夏(子陽)、光禄寺寺丞王(士楨) 大常寺は正しくは太常寺。万暦三十四年(一六〇六)、中山王尚永の諭祭と尚寧の冊封のために派遣された正使夏子陽と副使王士楨は、帰国後この官に陞った。『明実録』万暦三十五年閏六月己卯の条を参照。なお、太常寺は祭祀礼楽の一切の具体的な手順を行う役所で、卿一人、少卿二人、寺丞二人、等である。光禄寺は祭享・宴労等に必要な食料その他の物資を収貯し管理する。卿一人、少卿二人、寺丞二人、等の職がある。
(2)俯恤 かえりみて気遣う。
(3)聖人 天子をさす。
(4)極を御し 天子の位にあること。
(5)東西二洋を開きて…足す 明では、隆慶六年(一五七二)より、港を福建の漳州府海澄の一カ所に限って、一定の管理下に餉税等を課して商船の下海を許した(張燮『東西洋考』巻七、餉税考)。すなわち開洋である。東西二洋とは、商船の行先を針路によって大きく二つに分け、呂宋国から蘇禄国、文萊国方面を東洋と称し、交阯東京、占城国、暹羅国、および旧港・啞斉国等々の方面を西洋としたものである(同、巻九、舟師考)。はじめは輸入商品に商税を課していたのみであった(万暦元年序『漳州府志』巻五、「商税附新行事例」)が、万暦三年に、東西洋へ行く船に引(特許状)を与え、引ごとに銀三両を徴し、これを兵餉に当てることがはじまった(『東西洋考』巻七)。引の数、餉税の額、引の行先別割りあてなど、その後変化があったものの(許孚遠『敬和堂集』所収「海禁条約行分弁漳南道」)、日本および琉球方面には、この制度は適用されず、海禁が続けられた。
(6)三十六姓 閩人三十六姓〔〇四-〇五〕注(4)(23)参照。なお聖祖は明初の皇帝を特定せずに尊称した表現。
(7)幹国 幹は、あずかる。かかわるの意。
(8)柬埔寨 『歴代宝案』にカンボジア関係の文書は残っていないが、十五、六世紀にはプノンペン付近を中心に、中国人や日本人がさかんに交易を行なった(『東西洋考』巻三、など。また、岩生成一『南洋日本町の研究』第四章、昭和四十一年を参照)ことから、琉球との交渉も当然あったことと思われる。
(9)資藉 たよる、力とする。
(10)日鑠月銷 次第におとろえるさま。
(11)匱窘 匱は乏しい、窘は苦しむの意。
(12)国本 国の根本。また人民のこと。
(13)富庶 人口が多く富んでいること。
(14)引 注(5)参照。
(15)号引 号数のついた引。
(16)勘合印信 割り印のある文書。
(17)回 回文。相手からうけた返事の文。
(18)浮慕 かるがるしく慕う。
(19)延寇入室 延はまねく。自ら災いをまねくこと。ここでは倭寇を内部へ引きこむ、の意。
(20)自保 「自」は不明字であるが、残された字形から推察した。
(21)本寺…貿易す 夏子陽・王士楨が滞琉中の万暦三十四年(一六〇六)九月に、倭舶が琉球へ来た事件があった(夏子陽・王士楨『使琉球録』上)。