近代沖縄と新聞
近代沖縄という時代
○「琉球処分」
廃藩置県翌年の1872年(明治5)、明治政府は琉球王国を「琉球藩」とし、1879年(明治12)3月には、琉球処分官として内務大書記官・松田道之と内務官僚41名、約400名の軍隊、および約160名の警察官を派遣、琉球に対し藩王尚泰(図1)の上京、首里城明け渡し等を命じました(図2)。同年4月4日「琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ置ク」ことが全国に布告され、約450年間続いた琉球王国は幕を閉じ、沖縄県が設置されました。近代沖縄はこうして歩みを始めます。
このような、いわゆる「琉球処分(廃琉置県)」を経て近代日本国家に組み込まれた沖縄では、当初、王国時代の旧支配層に属する人々を中心に日本への激しい抵抗運動が起こりました。王府の維持・存続を主張する親中派の頑固党と、親日派の開化党が激しく対立しました。
沖縄県設置後、初代県令(後の県知事)に鍋島直彬が赴任、以後、近代沖縄において県令・県知事は全員県外出身者が任命されました。県庁役人や警察、教員の要職も県外出身者で占められ、さらに経済界でも琉球処分後から沖縄で活動した寄留商人(他府県出身の実業家)たちが大きな力を持ちました。
明治政府は、士族層の不満を抑え、社会的混乱を避けるため王国時代の土地・税制・地方制度をそのまま存続させる「旧慣温存政策」を打ち出しました。同時に、沖縄の言語や風俗を日本本土と一致させるために教育を重視、1880年(明治13)に県庁内に「会話伝習所(のちの師範学校)」を創設、テキスト『沖縄対話』(図3)を用いて標準語(日本語)の普及を図りました。また、旧来の平等学校等を廃止、小学校・中学校を開設しました。1882年(明治15)には、第二代県令・上杉茂憲によって県費留学生制度が創設、太田朝敷、今帰仁朝蕃、岸本賀昌、謝花昇、高嶺朝教が東京へ派遣されました(図4)。翌年、今帰仁は帰郷、替わりに山口全述が選抜されました。
○旧慣改革
日清戦争(1894~95年)後、頑固党の勢力は衰え、県内では日本への同化、すなわち「日本化」が進められました。明治30年代(1897~1906年)頃からはユタ、毛遊び、針突、琉装などそれまで沖縄で行われてきた習慣を改める風俗改良運動が進められました。
また、土地・税制度や地方制度を改める旧慣改革が次々と行われました。1898年(明治31)には徴兵令が施行されましたが、徴兵忌避も相次いで起こりました。1899年から1903年にかけて日本の地租改正にあたる「土地整理事業」が行われました(図5)。宮古・八重山の農民を苦しめた人頭税も1903年(明治36)1月に廃止されました。
地方制度は1896年(明治29)、「沖縄県区制」及び「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」が公布され、首里・那覇の2区と島尻・中頭・国頭・宮古・八重山の5郡に再編成されました。1908年(明治41)「沖縄県及島嶼町村制」施行によって、間切島が町村、村は字となりました。1909年(明治42)「沖縄県に関する府県特例の件」施行により沖縄県会が設置、初めての県会議員選挙が実施されました(地方制度の一体化は大正10年の市制施行で完了)。
しかしその頃、沖縄には国政への参政権はありませんでした。1899年(明治32)、謝花昇(図6)らによって衆議院議員選挙法の適用を国へ求める参政権運動が進められましたが、奈良原繁県知事や旧支配層との対立もあり途中で頓挫しました。実際に沖縄で衆議院議員選挙が行われたのは1912年(明治45)、宮古・八重山地域を含めると1920年(大正9)でした。謝花は「沖縄自由民権運動の父」と称されています。
○産業とインフラ
近代沖縄では様々な産業やインフラが発達しました。県の基幹産業である糖業は、1888年(明治21)、サトウキビの作付制限がなくなったことを契機に砂糖の製造高が年々増加しました。他に、水稲「蓬莱米」の導入や甘藷「沖縄百号」の開発、石垣におけるパイン栽培等、農業の発展が見られました。水産業は1901年、座間味村においてカツオ漁とカツオ節製造が始まり、その後県内各地に広まりました。1885年(明治34)から西表島では石炭の採掘が、1919年(大正8)年から北大東島では化学肥料の原料となる燐鉱石の採掘が行われるなど鉱業も盛んになりました。
県経済を支えるインフラも整備されました。交通は1914年(大正3)に沖縄県営道(軽便鉄道)が開通(図7)、その輸送力は糖業の発展を支えると同時に、バス、人力車、馬車軌道等とともに県民の交通機関として1945年(昭和20)3月まで存在しました。島嶼県である沖縄にとって重要な海路には、大阪商船株式会社等の航路があり、他府県から観光客も訪れました。郵便は1874年(明治43)に営業が開始、電話は1910年(明治43)から一般県民が利用できるようになりました。
商業も発展しました。1922年(大正11)に那覇市西本町通堂通りに山形屋呉服店沖縄支店、1935年(昭和10)に円山号百貨店が寄留商人によって開業されるなど、モダンな建物も見られました(図8)。
○ 郷土研究の勃興
「琉球処分」以降、日本へ組み込まれた沖縄では、近代化が日本化と不可分で進められました。しかし1903年(明治36)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会において「内地に近き異人種」として沖縄女性2名が「陳列」された「人類館事件」のような沖縄に対する差別もありました。近代化・日本化と差別のはざまで揺れ動いた沖縄の人々の中に、沖縄のアイデンティティーを模索する動きが生まれ、「沖縄学の父」と称される伊波普猷(図9・10)をはじめ東恩納寛惇、真境名安興などにより、郷土・沖縄の歴史や文化を深く掘り下げる「沖縄学」と呼ばれる研究が興りました。また、大正後期以降、柳田国男の「南島研究」に影響を受けた比嘉春潮、金城朝永らによって、郷土研究がますます盛んになりました(図11)。
○ 近代女性のあゆみ
「婦女ハ仮令王妃貴族ト雖モ一字ヲモ学ハサル慣習ナリ」といわれた沖縄における女子教育は、1885年(明治18)、師範付属小学校に女子3名が入学したことを皮切りに、その端緒が開かれました。日清戦争を契機に女子の就学率が上昇し、女教員の養成も行われるようになりました。
女子教育の普及は良妻賢母と風俗改良に主眼が置かれ、服装も琉装から和装へ改めるよう取り組みが行われました。その後、大正デモクラシーを背景に、良妻賢母教育の枠から飛び出し、新しい思想に目覚めゆく女性も出現しました。大正から昭和初期にはハイカラな海老茶袴の女学生スタイルやセーラー服等を着用するなど、服装面でも明治時代とは異なる動きが出てきました(図12)。
様々な仕事を担う女性たちも現れました。沖縄に自生するアダンの葉を使用したパナマ帽の製造を女性たちが支えました(図13)。パナマ帽は欧米へ輸出され、黒糖や泡盛に次ぐ産業となりました。また、貧困によって辻遊郭の娼妓となる女性もいました。
○ ソテツ地獄と「沖縄県振興計画」
第一次世界大戦期、砂糖景気に湧いた沖縄経済でしたが、1920年(大正9)に砂糖相場が暴落、甘蔗栽培を基幹産業としていた沖縄は大打撃を受け、「ソテツ地獄」と形容される十数年に及ぶ大不況に陥りました。農村での生活は困窮を極め、男子の糸満売り、女子の辻売りなどが頻発しました。経済的苦境から脱するため、海外移民と国内への出稼ぎ者が大量に増えました。沖縄からの海外移民は1899年(明治32)、当山久三らによって送り出されたハワイ移民が最初ですが、ソテツ地獄期の1924年(大正13)から1930年(昭和5)にかけて急増し、沖縄は日本有数の「移民県」となりました。国内では主に阪神地方への出稼ぎが多く、多くの女性が紡績工場の女工として働きました。八重山では台湾へ出稼ぎに行く人もいました。
経済的苦境の中、社会主義運動や労働組合の結成、労働争議等が盛んになりました。しかしこれらの活動は治安当局から激しく弾圧を受けました。
これら沖縄の窮状に対し県内外で様々な沖縄救済論議がまき起こりました。やがて沖縄県振興計画が生み出されていきました。1931年(昭和6)、井野次郎知事の下で「沖縄県振興事業計画案」が策定、政府への陳情活動が展開されます(図14・15)。この計画は1932年(昭和7)に閣議で承認され、1933年度から予算化されました。15か年に及ぶ計画でしたが、戦時体制下にあったため実施率は極めて低調でした。
○ 国家総動員体制と沖縄戦
昭和に変わり1931年(昭和6)の満州事変、1937年(昭和12)の日中戦争、1941年(昭和16)の太平洋戦争と日本は15年戦争に突入しました。1938年(昭和13)には国家総動員法が制定され、国民生活はすべてその統制下におかれます。この時期、改姓や標準語励行といった生活改善運動が進められ、 同年8月には「伸び行く日本、進め沖縄強く正しく朗らかに」をモットーに、県民の生活改善を進める機関「沖縄生活更新協会」が創立されました(図16)。このような中、 1939年(昭和14)に来県した柳宗悦ら民芸協会と県の間で「方言論争」が起きました。
1944年(昭和19)3月、沖縄に第32軍が配備されました。全島要塞化のため飛行場建設や陣地構築作業に住民が動員されました。同年7月のサイパン陥落後、南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開が決定されましたが、疎開学童の乗船した対馬丸が米潜水艦に撃沈され多くの死者が出るなどの悲劇が起こりました。「十・十空襲」では南西諸島一帯が米軍による大規模な攻撃を受けました。
1945年(昭和20)3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸、4月1日には沖縄島中部の読谷から北谷の海岸に上陸し、住民を巻き込んでの地上戦が始まりました。日米両軍による激しい戦闘の末、5月末に第32軍司令部は首里を撤退、沖縄島南部に撤退しました。それにより南部へ避難していた多くの住民が戦闘に巻き込まれ亡くなりました。日本軍の組織的戦闘が6月23日に終了しますが、牛島満司令官の「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との命令により日本軍は抵抗を続けたため、それ以後も多くの住民が犠牲になりました。9月7日、旧越来村森根(現在の嘉手納基地内)で米軍と沖縄の日本軍との間で降伏調印式が行われました(図17)。
(納富香織)
近代沖縄と新聞
○ 明治期の新聞
沖縄初の新聞『琉球新報』が創刊されたのは、1893年(明治26)9月15日のことでした。社長は最後の琉球国王・尚泰の四男である松山王子・尚順(図18)、主なメンバーは高嶺朝教、護得久朝惟、太田朝敷(図19)ら旧士族層出身で二十代の知識人たちでした。『琉球新報』の発行部数は、創刊当初は500部以下と推定されていますが、1900年頃には1000部程になったといわれています。沖縄の新しい時代の幕開けとともに登場した新聞は、情報の伝達方法を変え、世論の形成に大きく寄与するメディアとなりました。
『琉球新報』は、「沖縄の進歩発達」と「国家的同化」を編集方針に掲げ、沖縄の政治・経済・教育界等で絶大な権力を握っていた寄留商人や県上層部に対抗する一方、旧体制である琉球王府の維持・存続を主張する頑固党への攻撃、また人頭税廃止運動や謝花昇らの民権運動等、沖縄内部からわき上がった旧支配層への抵抗運動に対しても紙面で批判を行い、「紙ハブ」とも呼ばれました。
『琉球新報』に対抗して、1905年(明治38)11月3日、寄留商人によって『沖縄新聞』が、1908年(明治41)12月10日、那覇及び郡部の有力者によって『沖縄毎日新聞』が創刊されました。『沖縄毎日新聞』社長は当間重慎、主筆は諸見里朝鴻で、1909年(明治42)の「特別県制」施行を見据えた那覇・郡部の利益を代弁する「平民派の機関紙」とも称されました。
○ 大正期の新聞
大正期になると、新たな新聞の創刊が相次ぎ、1913年(大正2)の『発展』をはじめ5紙(改題紙は含めない)が創刊されました。しかしその一方で、新聞間の競争が激化しました。
また、大正期には本土政党による系列化が激しくなり、その争いは新聞社にも多大な影響を及ぼしました。1912年(明治45)、沖縄で初めて実施された衆議院議員選挙以後、県内で政友会派と憲政会派の政争が起こります。この政争は新たな新聞の発刊のきっかけとなりました。『琉球新報』社内で知事と結んだ憲政会派と政友会派の政争が顕著になったため、記者の一部から「閥族打破」の声が上がり、若手記者5名が独立して1915年(大正4)11月10日に『沖縄朝日新聞』を発刊しました(図21)。同紙は1940年末の新聞統合まで発刊を継続、『琉球新報』に次いで近代沖縄において二番目に長く存続した新聞となりました。
○ 宮古・八重山の新聞
宮古・八重山地域でも近代期、多くの新聞が発刊されました。
宮古では1914年(大正3)から1915年(大正4)頃に慶世村恒任によって『宮古朝日新聞』、垣花恒栄によって『宮古公論』が発刊されたと伝えられますが、紙面が現存しておらず詳細は分かりません。その後発刊された『宮古時報』『宮古新報』など、大正から戦前昭和にかけて多くの新聞が創刊されました。創刊紙の多さは政治的な動向とも関係がありますが、同時に経営状況の厳しさと政治的動向に左右され、廃刊も多かったと言われています。
八重山における新聞の嚆矢は、1917年(大正6)4月、東京出身の松下晩翠によって刊行された『先島新聞』で、昭和初期までに4紙が発刊されました。これら戦前の新聞紙面は、八重山の郷土史家・喜舎場永珣によって保存されていました。
○ 大正末から戦前昭和期の新聞
1920年(大正9)の砂糖相場の暴落に端を発する沖縄の大不況は、昭和初期まで続きました。ジャーナリズムによって「ソテツ地獄」と形容されたこの時期、海外移民と国内への出稼ぎ者が大量に増えました。
1924年(大正13)阪神地方へ出稼ぎに出た県人たちによって関西沖縄県人会が結成され、機関誌『同胞』が発刊、差別的な待遇に抗する主張がなされました。また社会主義運動や労働運動が盛んになり、1929年(昭和4)には沖縄初の無産者新聞『沖縄労農タイムス』が発刊されました。東京では1933年(昭和8)1月、在京沖縄県人の準機関紙として『南島 郷友版』(大宜味朝徳主幹)が発行、様々な沖縄救済論議が掲載されました。沖縄では1931年(昭和6)、ソテツ地獄の克服等を掲げて『沖縄日日新聞』(後に『沖縄日報』と改題)が創刊されました。
これらの新聞には、沖縄の更生と県人の地位向上、改姓や服装改良等の生活改善運動などが掲載されました。
○ 戦時体制下の新聞
1930年代に入り、政府・軍部の台頭とともに言論が圧迫されるようになり、沖縄の新聞も毎日のように特高課を通して記事の差し止めを受けていました。1937年(昭和12)の日中戦争開始以後1945年(昭和20)の敗戦までの間は、政府・軍部の統制下におかれるとともに、取り締まりを容易に行うことを目的として全国的に新聞社の統廃合が進められました。沖縄では1940年(昭和15)12月、『沖縄朝日新聞』『沖縄日報』『琉球新報』が『沖縄新報』に統合されました。宮古・八重山では離島の地域性等から各一紙ずつ置かれることとなり、宮古は最終的に『宮古朝日新聞』(1941年統合)、石垣では1935年(昭和10)創刊の『海南時報』が1945年(昭和20)3月まで発行されました。
戦時体制下の新聞は、戦意高揚が図られます。『沖縄新報』では、戦時体制のトーンがあるとはいえ、1943年(昭和18)頃までは個人の投書、小説、子どもの作文等も掲載されていましたが、1944年(昭和19)頃からは大本営発表の戦況のみに紙面が変化していきました。
『沖縄新報』は、1945年(昭和20)4月1日の米軍の沖縄島上陸後も首里城内の留魂壕隣りの壕で「砲煙弾雨をくぐって」発刊が続けられました。しかし、米軍が首里にせまった1945年(昭和20)5月25日、社員が印刷機を壕の奥にしまい活字を穴に埋め『沖縄新報』は廃刊、沖縄・那覇で明治から続いた戦前沖縄の新聞は幕を閉じました。
(納富香織)
失われた資料の発掘
○ 戦後沖縄の資料収集
戦後、沖縄の歴史研究は暗中模索の中から始まりました。多くの歴史資料が沖縄戦で焼失したからです。
近代沖縄に関する資料も例外ではありません。戦前の沖縄県庁などにあった公文書をはじめ、当時を知るための基礎資料の多くが失われました。中でも沖縄県立図書館に所蔵されていた近代沖縄の新聞は、そのほとんどが灰燼に帰しました。情報に満ちた今の時代からは信じられませんが、歴史資料が失われた部分は空白となり、教育や研究にも支障をきたすことになります。
戦後、人々は焦土の中から立ち上がり、沖縄の復興が始まります。それは失われた歴史資料にもおよびました。1963年(昭和38)「沖縄県史編集審議会」が発足、『沖縄県史』刊行が計画されました。県史編集の基礎資料として文教局教育課職員や関係者たちによって、国立公文書館等、県外に残っている様々な沖縄関係資料が探し求められました。その努力により、新聞については国立国会図書館に残されていた『琉球新報』(明治31年4月1日~大正7年5月31日)、『沖縄毎日新聞』(明治42年2月28日~大正3年12月31日)がマイクロフィルム化され、複製本の閲覧が可能になりました。これらの新聞資料は、暗中にあった研究に光りを灯し、近代沖縄の歴史をかたちづくるのに大きな役割を果たしてきました。国会図書館所蔵の原紙以外にも、國學院大學の『琉球新報』・『沖縄日報』(昭和13年~昭和15年)が比較的連続した日数で残っています。
しかし、マイクロフィルムの劣化が進むと、かすれた文字はさらに読みにくくなります。今回、当事業では原紙を高精細・カラーにデジタル化することにより、これらの改善を図ることが出来ました。
○ 県史・市町村史の新聞集成と近代沖縄史の研究
沖縄の近代期を題材とした県史や市町村史を編纂する場合は、まず戦前の新聞を調査し、地域やテーマに関連する記事を新聞集成としてまとめる手法が一般的です。近代の様子を知るために、当時の雑誌や研究論文なども欠かせませんが、新聞は政治・経済・文化をはじめ、人々の暮らし、そして広告も含め、様々な分野の情報が多く詰まっているため、当時の日々の状況を知る上で重要な、一級の史料となります。例えば、近代の飲酒習慣に関する様子や感染症に関すること、マングースの移入の様子など新聞からわかることは枚挙にいとまがありません。今日、書籍などで紹介される私たちの知る近代沖縄の姿は、戦前の新聞から明らかになったことも多く含まれています。
しかし、それでも近代沖縄新聞が残っていない時期については、分からないことはわからないこともあります。沖縄初の新聞『琉球新報』が創刊された明治26年から明治31年までと、大正7年以降の新聞は断片的にしか現存していません。
○ 植物標本と近代沖縄の新聞
未発見のまとまった量の近代沖縄の新聞は、なかなか出てこないだろうと思われていました。ところが意外なところからそれがみつかりました。植物標本です。植物研究者は、野外で研究用の植物を採集し、それを新聞紙に挟んで乾燥させ、あとで標本用の台紙に貼り付け保存・研究します。採集した植物を挟む新聞紙は、およそ現地のものが使われます。戦前、沖縄で植物採集をした研究者の未整理の標本から、近代沖縄の新聞が大量に発見されました。そのような研究者に、京都帝国大学(現京都大学)の小泉源一博士、また沖縄県立第一中学校教諭として滞在した坂口總一郎などがあげられます。そこで1997年から沖縄県史編集事業の一環として、京都大学植物学教室を皮切りに植物標本の調査を始めました。特に、京都大学総合博物館においては、10年余7回の調査の結果、315枚の近代沖縄の新聞を得ることができ、このうちの175枚が新発見の新聞でした。次に坂口總一郎については、息子の坂口總之輔氏が和歌山県におられることが判明、2005年にさっそく訪問したところ倉庫に山積みにされた未整理の標本が出てきました。これも坂口氏の御好意により新聞に挟んだ標本ごと沖縄にもち帰りました。その中から288枚の近代沖縄の新聞がみつかり、284枚の新発見の新聞が出て来ました。このように貴重な資料を収集できたのも、沖縄の状況を理解し、協力いただいた機関や個人のおかげです。これらの資料も沖縄県民の財産として大切に保存されるとともに近代沖縄史の研究・教育普及に活用されています。
(当山昌直)