もっと知りたい近代沖縄 明治期沖縄における感染症流行とその対策

 明治時代は華やかな文明開化の時代である反面、感染症の時代でもあります。コレラ、天然痘、ペストなど度重なる感染症流行に見舞われており、特にコレラの死者数は日清・日露戦争の戦死者数(約9万9千名)を越えると言われています。
 明治の沖縄でも、廃琉置県処分(1879年〔明治12〕)と同年に流行したコレラを皮切りに、様々な感染症が琉球列島の外から流入しました。置県処分後の沖縄では、コレラ対策を中心に急速なハード面の整備(関連法制の制定と病院の設置)が進められますが、慢性的な「医師」不足や新たな統治者となった大和人に対する不信感により、病院での治療の忌避や患者の隠蔽が相次ぎました。
 一方、1890年代以降の明治後期は、日清戦争後から日本への同化政策が本格化するのと軌を一にして、新領土台湾や海外への人の移動も活発化し、沖縄の感染症を取り巻く環境は大きく変化しました。1893年(明治26)に創刊された『琉球新報』には、沖縄での感染症の流行状況や防疫対策に関する情報が度々報じられています。

図1 「宮古島の虎烈刺」(『琉球新報』1902年〔明治35〕9月1日)


 1902年(明治35)には台湾から宮古へ伝染したコレラが(図1)那覇へと伝染し、瞬く間に沖縄島全域へ拡大しました。この時期の新聞には、台湾を「悪疫集合の地」とする認識も見られます(琉球新報「沖縄県医学校設立を望む」1899年〔明治32〕2月6日)。しかし、実際には鹿児島や関西から伝染する事例もあったことから、この認識には台湾を軽侮するニュアンスも多少含まれていたと考えられます。また、1912年〔明治45〕にも台湾から流入したコレラが宮古で流行しており、沖縄-台湾間等の隣接地域におけるヒトやモノの活発な往来の中には感染症伝播のリスクも含まれていました。

図2 戦前の那覇港。活発なヒトとモノの移動には感染症伝播のリスクもあった(那覇市歴史博物館)
図3 「コレラ密葬者の取締を厳にせよ」(『琉球新報』1902年〔明治35〕11月9日、一部)


 これに対して県当局は患者の隔離と船舶検疫の強化を図りますが、人々の間では、明治前半と同様に官憲による隔離を恐れて患者の隠蔽や死者の密葬も横行していました(琉球新報「コレラ密葬者の取締を厳にせよ」1902年11月9日:図3)。また、別の記事には、那覇の久茂地・潟原・泉崎で周囲にしめ縄を張り、笹の葉をぶら下げ、焚火をして疫病払いの祈願を行っていることが報じられています(琉球新報「迷信」1902年10月9日:図4)。当時の人々は慣習的な方法によって感染症から身を守ろうとしたのです。

図4 「迷信」(『琉球新報』1902年10月9日)およびその他、街の様相を伝える記事
図5 「伝染病院の概況」(『琉球新報』1899年〔明治32〕7月25日)


 他方、少しずつではありますが近代的な防疫対策の浸透が見られるのも、この時期の特徴です。当時の新聞には各地域で盛んに行われた「清潔法」や患者の隔離の様子が記録されています。「清潔法」とは、地域単位で行われる清掃・消毒活動のことで、基礎的な感染症対策として全国で実施されていました。また、隔離については1895年(明治28)に設立された感染症隔離病院「台瀬病院(現 那覇市泊)」について、その内情を伝える記事が連載されています(琉球新報「伝染病院の概況」1899年7月25日〔図5〕、7月29日、8月1日)。当時の新聞で盛んに報じられた感染症対策に関する記事は、沖縄社会に多くの情報をもたらすことで民衆を啓蒙し,近代的な公衆衛生を根付かせようとする狙いがあったように思われます。


 このように、明治後期の沖縄での感染症流行とそれを報じた新聞記事を見ていくと、台湾など県外からの伝染や慣習的な感染対策と近代的な感染対策が併存する状況など、沖縄の社会環境の変化が感染症流行とその対策にも影響していることが分かります。近代沖縄の感染症の歴史について、医学史だけでなく社会史の側面にも目を向けることで、おのずとその中で新聞が担った役割も見えてくるのではないでしょうか。

(前田勇樹)