もっと知りたい近代沖縄 沖縄近代史研究と新聞資料

 沖縄県内の自治体史では、新聞集成という戦前の新聞記事を集めた資料編が刊行されていることが多いです。その始まりは、1966年(昭和41)に刊行された“旧県史”『沖縄県史 第18巻 資料編8 新聞集成 教育』(琉球政府)でした。その後も、政治経済と社会文化の新聞集成が1960年代後半に刊行されました。さらに1990年代に刊行の始まる“新県史”においても、染織、女性史、自然環境に関する新聞集成が編まれています。このような新聞集成の刊行は、沖縄県史にとどまらず県内の多くの市町村史でもなされており、古くは1960~70年代に那覇市史、平良市史、最近では2010年代に具志頭村史、東風平町史、豊見城市史で刊行されています(市町村名は刊行書名によります)。このように、近代史研究の資料として戦前の新聞が注目され、県内の多くの自治体史で新聞集成が刊行されていることは、他府県には見られない沖縄近代史研究の大きな特徴といってよいでしょう。

                 

『沖縄県史 第18巻 資料編8 新聞集成 教育』1966年 琉球政府

 それでは、なぜ沖縄近代史研究では新聞に注目してきたのでしょうか。それは、沖縄戦により公文書をはじめとする往時を後世に伝える資料が多く焼失したからにほかなりません。アメリカ統治期の1960年代、戦前の公文書も残されていないようななかで沖縄の政治や社会の一面を描く新聞記事を収集整理することにより、沖縄近代史研究が始められたのであり、その最初期の著作は大田昌秀の『沖縄の民衆意識』(弘文堂、1967年)でした。 旧県史の新聞集成においては、国立国会図書館が所蔵していた1898年(明治31)~1918年(大正7)の『琉球新報』を対象とするにとどまっていました。その整理だけでも大変なことであったことは想像に難くありませんが、より多くの新聞を求めて、沖縄県内外の調査が進められ、『大阪朝日新聞 鹿児島・沖縄版』のような地域版や、新聞記事を切り抜いた天野鉄夫などによるスクラップによって、現在では1898年~1945年(昭和20)までを対象とした新聞集成が編まれるようになっています。その収集は現在も継続されており、戦前の研究者が乾燥目的ではさむのに用いた新聞から沖縄のものを見出す作業がなされています。それらは、『植物標本より得られた近代沖縄の新聞』(沖縄県史研究叢書17、沖縄県教育委員会、2007年)、『同 Ⅱ』(同19、同、2018年)として発刊されています。

               (『琉球新報』1902年〔明治35〕5月11日)国立国会図書館所蔵

 最後に、当時の世相を知ることのできる近代沖縄の新聞記事を一つ紹介しましょう。ここで取り上げるのは、学校において女子児童の和装が始められた時期、1902年(明治35)5月11日の「涼みだい」という記事です。そこには、那覇高等小学校の女子児童が学校からの命令により日本風の服装をするようになっていること、しかし命令から2、3ヶ月過ぎると、校門を出れば「旧スタイル」に戻っていることが記されています。服装をめぐって、学校がめざす状態と児童や地域の実態との乖離の大きさを読み取ることのできる興味深い記事です。そしてこの記事には、学校では和装をすることを当然と考えていること、それが実現しないのは「家庭に不良の精神が潜伏」しているためと考えていることも記されており、琉球新報社の立ち位置を明確に示しています。このような記事に接することにより、一般に「同化教育」と言われ、日本本土の言語風俗などと沖縄のそれを同じようにしようとする教育であったとされる近代沖縄の教育について、子どもたちや沖縄社会がどのように対していたのかという実態面からとらえ直すことにつながると考えられます。新聞資料は、通説的な歴史叙述を追認するだけでなく、それを問い直すことを可能にする貴重な資料でもあるのです。

近藤 健一郎(北海道大学)