もっと知りたい近代沖縄 新聞にみる沖縄県鉄道の開通式

 戦前の沖縄には汽車や路面電車、馬車軌道など多様な鉄道が走っていました。その代表的なものが沖縄県鉄道(沖縄県営鉄道/以下、県鉄)です。現在の那覇バスターミナルにあった那覇駅(図1)を起点に、与那原線・嘉手納線・糸満線という3路線が伸びていました(図2)。その特徴の一つとして、簡便な規格の「(けい)便(べん)鉄道」であるということが挙げられます。建設費や維持費が抑えられ、明治末から大正にかけて全国的に建設されました。沖縄では「軽便」が訛り、「ケービン」と呼ばれています。

図1 那覇駅構内(那覇市歴史博物館提供)

図2 沖縄県鉄道路線図(加田芳英『沖縄の鉄道』掲載の「片道乗車券」の路線図をもとに筆者作図。路線色は便宜的な着色。)

 県鉄が開通したのは1914年(大正3)12月1日。最初に開通したのは与那原線で、当初は那覇駅・国場駅・南風原駅・与那原駅の4駅のみでした。

 開業を目前にした11月29日には開通式が催されました。当日の『琉球新報』は「沖縄県鉄道開通紀念号」と銘打ち、紙面上部に特別なイラストが施されています(図3)。

 

 1面には鉄道建設の経緯や概要、県会議長らの祝辞、2面には式次第や時刻表(図4)、3面には鉄道唱歌などが掲載されています。さらには広告まで開通記念の大安売り(図5)になっているなど、県鉄一色で盛り上がっている様子がうかがえます。

図3 「沖縄県鉄道開通紀念号」(『琉球新報』1914年〔大正3〕11月29日)国立国会図書館所蔵
図4 開通当初の時刻表(『琉球新報』1914年〔大正3〕11月29日)
国立国会図書館所蔵
図5 「祝鉄道開通」を掲げる雑貨店の広告(『琉球新報』1914年〔大正3〕11月29日)国立国会図書館所蔵

 翌30日の『琉球新報』『沖縄毎日新聞』に開通式当日の報告が掲載されています。那覇駅構内に設けられた式場には「祝開通式」を掲げた緑門(祝賀の時に建てる門)が建てられ、紅白の幕や万国旗が張られていたそうです。午前7時、挙式合図の花火が上げられ、8時半までに招待客400名あまりが来場。楽隊の演奏のなか10時に式が開始されました。県会議長や知事の式辞、祝電の朗読で式は終了、酒宴に移って模擬店と余興が始まります。模擬店は(しる)()屋にビアホール、余興は芸妓による「鉄道(おどり)」、相撲などがあったそうです。午後には招待客を乗せた列車が出発。南風原駅や与那原駅では、地元の青年による獅子舞、棒踊りなどの余興がありました。折り返して那覇駅に戻る頃には夕方6時になっており、電灯で装飾された駅構内は「一大美観」を呈していたそうです。また、那覇区内の商店ではセールが行われ、その詳細も記されています(図6)。

図6 各商店のセール情報を伝える記事(『沖縄毎日新聞』1914年〔大正3〕11月30日)国立国会図書館所蔵

 そして12月1日、県鉄は正式開業しました。翌2日の『琉球新報』には初日午後3時までの乗客数が記されています。それによれば那覇駅58名、国場駅7名、南風原駅7名、与那原駅17名とのこと(図7)。開通式の賑やかさとは打って変わり、閑散とした印象を受けます。公共交通機関として県民に浸透するにはもう少し時間が必要だったようです。

図7 鉄道営業開始の記事(『琉球新報』1914年〔大正3〕12月2日)国立国会図書館所蔵

 沖縄県鉄道はその後、1922年(大正11)に嘉手納線、1923年(大正12)に糸満線が開業、当初は4駅だけだった与那原線も最終的には9駅となりました。1941年(昭和16)には年間乗客数が328万人となり県内の旅客・貨物輸送を支えた県鉄ですが、沖縄戦で壊滅的な被害を受け営業停止に追い込まれました。戦後の復興も叶わず、ひっそりとその役目を終えました。

(喜納大作)