もっと知りたい交流史 漢文で書かれた『歴代宝案』の意味
漢文(漢語)と文化
そもそもなぜ、『歴代宝案』は漢文(漢語)で書かれているのでしょうか。その問いには、『歴代宝案』がどのような目的で、誰にむけて書かれたのかという、文書のもっとも大切な意味が含まれています。漢文(漢語)といっても、『歴代宝案』に書かれた文書は、中国の人たちにとっても、けっして親しみやすい文章ではありません。
『歴代宝案』には、中国との外交や貿易に関する文書が多く収められています。中国皇帝から琉球国王に送られた詔・勅、琉球国王から中国皇帝へ送られた表文・奏本、琉球国王と中国の礼部や福建布政使司・巡撫・総督といった上級の官僚たちとのやり取りである咨文、進貢船の渡航証明書である符文・執照などの文書があります。その他にも、朝鮮、ベトナム、シャム、パタニ、スマトラ、スンダといったアジア諸国との交易記録も含まれるなど、この広い地域で漢文(漢語)による文書が通用したことを示しています。また、その文書は特別上級の階層のものでもあり、中国の長い官僚世界の伝統を反映し、四六駢儷体という美文で対句や典故を多用したものになっています。そのため、一般には近づきがたく、難解なものになっています。
漢字文化圏としての東アジア
中国は漢文(漢語)によって統一されている世界です。漢文(漢語)は、成熟した文化と制度をのせて、中国の周辺地域へ伝わっていきました。日本、朝鮮、ベトナム(越南)は、漢字文化の受容によって国の基礎を固め、その後、日本では仮名文字、朝鮮ではハングル、ベトナムではチュノムのような文字が生み出され、地域の特色を確立してきました。なお琉球は漢字と仮名文字の文化をほぼ同時期に受容していきました。このように東アジアの国々は、単に地理的に近い世界というだけでなく、歴史的に中国を中心とする漢字文化を共有する一つの文化圏でもあります。
歴史的に東アジアの国々は、例外なく中国の朝貢国でした。日本は遣唐使派遣の中断後、この体制から離れますが、他の国々は長くこの体制の中にありました。そのため、アジアの国々には、漢文(漢語)を理解し、書ける文人が存在しました。琉球では、久米村の人たちがその任務を負っていきます。閩(福建省)からの移住者であった彼らは、代々その任務を受け継ぎ、福州の河口通事(土通事)とも連携して表文や奏本の作成に当たりました。朝貢体制下のアジア各国にも、彼らと同じような役割を果たした華人がおり、漢字を通じたネットワークでつながっていました。漢字で書かれた『歴代宝案』の文書は、琉球だけでなく、朝貢体制下のアジアの姿を活き活きと伝えています。
【図:アジア諸国とやり取りされた漢文の典拠資料】
[歴代宝案 [影印本]第1集 第39巻] 沖縄県立図書館所蔵 CC BY 4.0(一部改変)
・暹羅国(シャム) 1-39-01(8枚目)
・朝鮮 1- 39-03(14枚目)
・満刺加国王(マラッカ) 1-39-07(32枚目)
[歴代宝案 [影印本]第1集 第40巻] 沖縄県立図書館所蔵 CC BY 4.0(一部改変)
・琉球国中山王 1-40-09(39枚目)
・爪哇国(ジャワ) 1-40-09(41枚目)
(上里 賢一)