もっと知りたい近代沖縄 新聞記事から、近代沖縄の世相を知る楽しみ
-風俗改良運動から生活改善・生活更新運動を例として(上)-

 
1 新聞記事に見る風俗改良運動
 近代沖縄人がどのような生活をしていたのか、興味はありませんか。当時を知る資料として本ウェブサイト は、この興味関心に十分答えてくれる導きの糸となります。とりわけ新聞の「見出し検索」ができるところが便利です。
 では、私が関心をもっている近代沖縄の風俗改良運動および生活改善運動について、新聞記事をもとに調べてみたいと思います。
 琉球処分を経て、近代国家に組み込まれた沖縄では、明治期から「風俗改良」と呼ばれる運動が推し進められてきました。政府が沖縄の風俗や言語を日本と一致させるための「同化政策」を打ち出していたことがその背景です。風俗改良の嚆矢として、男子の結髪(カタカシラ)や女子の琉装といった他府県と異なる外見を日本式に改めようとする取り組みが行われました。このような変化がすぐに沖縄社会に受け入れられたわけではありませんでしたが、日清戦争(1894~95年)における日本の勝利により、沖縄の日本化が内的にも高まりました。明治30年代頃から官公吏、地域、学校が主導し、県内 各地に青年会、矯風会、同志会、風俗改良会とよばれる団体が次々と設置され、風俗改良運動が取り組まれるようになりました。学事奨励、質素倹約、行事の簡素化等とともに「改良」の対象になったのは、ユタ、毛遊び、針突、琉装などそれまで沖縄で行われてきた風俗・習慣でした。
 ところで風俗改良運動は、当時、どこまで浸透していたのでしょうか。例えば「風俗談片」(『琉球新報』明治32年11月21日)によれば、当時の沖縄社会においては男性と女性で取り締まりに差があり、結果として風俗改良の成果はあまり上がっていなかったとの記述があります。記事によれば1899年(明治32)の時点では、県内三地方とも風俗改良会が設けられているが「婦女の取り締まりを厳にすれとも男子の取り締まりが緩か」なので、風俗改良運動が有名無実化していると報じられています。例えば、男女ともに参加する毛遊びについては、「時期尚早により後回し」(「中頭通信」(『琉球新報』明治32年1月29日:図1)、「急激に厳禁せすして暫次に改良すること」(「名護たより」(『琉球新報』明治32年5月1日)など、あまり厳しく取り締まりが行われなかったこと が分かります。一方で、女性のみの風俗習慣、例えば琉装から和装への取り組みは、学校から児童生徒へと命令が出されるなど、ある程度、厳しくなされていたようです。しかし、本ウェブサイト コラム「沖縄近代史研究と新聞資料」(近藤健一郎)において明らかにされているように、学校の方針と児童生徒の実態が乖離しており、自らの風俗を「改良」することを受容していなかった様子も分かります。このように、新聞記事を読むと、当時の人々の思いや生活の実態を知ることができるのです。

図1:「中頭通信」(『琉球新報』1899年[明治32]1月29日)国立国会図書館所蔵

2 沖縄の「自力更生」と生活改善運動
 日露戦争以降、全国的に進められた地方改良運動を背景として生活改善の取り組みが進められ、沖縄でも活発化しました。例えば東恩納寛惇は、1914年(大正3)、伊波普猷・漢那憲和の母親ら那覇西在住の「有力な主婦連」のあいだに興った「西倹約会」という冠婚葬祭費の取り決めを定めた「ささやかな生活改善」の取り組みを、日露戦争後 の「新生活運動」のはしりと記しています。『沖縄毎日新聞』1914年(大正3)12月23日には同会の規約が掲載されています。(図2)

図2:「西倹約会規約」(『沖縄毎日新聞』1914年[大正3]12月23日)国立国会図書館所蔵

 1930年代に入ってからも、国家主導のもと、生活改善運動が推進されていきます。世界恐慌 (1929年)後、疲弊する農村経済を更生するため1932年(昭和7)より農林省を中心に農山漁村経済更正運動が展開され、「隣保共助ノ精神」を振興して農村経済の立て直しが図られ、国民に精神作興、自力更生、生活改善、勤倹貯蓄、納税奨励などが求められました。この「国民更生運動」あるいは「自力更生運動 」と呼ばれる動きを背景として主に農村を対象とした生活改善運動が推進されていきました。
 当時の沖縄は、大正末期から続く「ソテツ地獄」と形容される大不況に陥っていました。沖縄の窮状を打開しようと、様々な沖縄救済論議が巻き起こり、1931年(昭和6)には井野次郎沖縄県知事の下で「沖縄県振興十五カ年計画」が策定、翌年には閣議 決定されました。1930年代前半の沖縄では、この「沖縄県振興十五カ年計画」と自力更生運動が連動し、生活の合理化・自力更生を目指した生活改善運動が推進されました。

『大阪球陽』記事
図3:『大阪球陽新報』昭和13年12月1日

3 在本土沖縄県人による生活改善運動
 『大阪球陽新報』は、1937 年(昭和12)7月、関西沖縄県人会の準機関紙として創刊されました。眞榮田(松本)三益が編集を企画し、眞榮田勝朗を主幹とし専任記者に山城善光、社友には東京在住の比嘉春潮、親泊康永、八幡一郎らが名を連ねています。同紙は「沖縄の更生と県人の地位向上」を標榜し、改姓や服装改良等の生活改善運動を唱導、在本土沖縄県人の取り組みに関する多くの記事が掲載されました。創刊の背景として、疲弊した沖縄の救済という命題を在本土沖縄県人も抱えていたことに加え、大正末期から続く経済的困窮により、沖縄では移民と出稼ぎ者が大量に増え、移住先での文化的摩擦が増えたことが挙げられます。それは圧倒的に沖縄出身者にとって不利であり、差別にもつながりました。その不利益を解消するために、在本土沖縄県人も生活改善運動を進めていったのです。たとえば「武庫川の清流を眼下に宝塚松林に県人部落出現/此処にも改善の烽火/同志会を組織して統制」(『大阪球陽新報』昭和12年9月1日)では、在阪県人の「矯正すべき点」として「特異性たる方言、はだし、不潔、不整頓、飲酒、三味線」等が挙げられ、改善を強く主張しました。また「大阪行婦人の琉装を取締れ」(『大阪球陽新報』昭和13年12月1日:図3)では、上阪する「出稼ぎ婦人」の中に「琉装の儘で上陸する者が往々有る」ことに対し、在阪県人中には慨嘆する人々が多いとの記事が見受けられます。
 このような動きは、戦時体制下へ移行する中、在本土/在沖縄県人が連携し、官民が結びついて進められた生活更新運動へとつながっていきます。

納富 香織(沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員)