了解更多交流史 王国末期の外交課題と自己決定権の諸相―歴代宝案文書とその周辺から観る―①
アヘン密輸をめぐる大英帝国(英国)と清朝中国(清国)との戦争は、東アジアの伝統的な国際秩序を揺るがし、その余波は琉球王国へも押し寄せました。このアヘン戦争(1840年~42年)を契機に、琉球は新たな外交課題に直面しただけでなく、旧来の外交課題においても、多くの困難と向き合うことになります。
ここでは、王国末期の琉球が新旧の外交課題とどのように向き合い、自己決定権をどのように行使し、存亡の危機を回避しようと試みたのか、宝案文書などの同時代史料を踏まえて、いくつかの事例を紹介したいと思います。
Ⅰ 新たな外交課題の発生と琉球の対応
琉球が直面した新たな外交課題の中でも、注目される主な事例は次の通りです。
事例① インディアン・オーク号遭難事件
事例② 英仏艦船の来航
事例③ 琉仏条約の締結交渉
事例④ 英国艦艦長の国書提出
事例⑤ ロバート・バウン号事件とその周辺
事例⑥ ペリー艦隊の来航
ここでは、事例①から紹介していきます。
事例① インディアン・オーク号遭難事件
インディアン・オーク号とは?
アヘン戦争開戦初期の1840(道光20)年8月、英国の清国遠征軍に所属して参戦中であった輸送船インディアン・オーク号が、清国浙江省の舟山島を占拠した遠征軍司令部の特命を受けて南下し、インドへ向かう途中、台風に巻き込まれて沖縄島北谷沖で座礁・沈没しました。琉球側は乗組員67名全員を救助し、46日もの間手厚く待遇しただけでなく、沈没船の積荷や武器までもすべて回収して返却し、さらには乗組員全員の送還のため、大型のジャンク船を建造して無事舟山島へ送り返すという事案が発生しました(「ボーマン日誌」『北谷町史』第二巻参照)。
この間、乗組員の中の数名が救命用の大型ボートを使って舟山島へ漕ぎわたり、インディアン・オーク号の遭難の件を遠征軍司令部へ報告したことから、乗組員救援輸送用の艦船二隻〔ニムロット号・クルーザー号〕が琉球へ派遣されて来ました。そのため琉球で建造した大型のジャンク船は必要でなくなりましたが、琉球側にはジャンク船を使用してもらわなければ困るという事情がありました。幕府や薩摩藩の法令〔鎖国令〕では大型船の建造は禁止されていて、法令違反を詰問される恐れがあったからです。
大型ジャンク船使用をめぐる琉球側と乗組員の交渉は困難を極めました。この時、琉球側で交渉に当たったのは通訳の東順法〔琉球名は安仁屋政輔〕でした。東順法は得意の英会話によって琉球側の事情を乗組員へ伝え、なんとか大型ジャンク船を用いることで決着し、派遣されてきた艦船二隻の内一隻は先に帰還、他の一隻と琉球建造の大型ジャンク船で乗組員全員は無事舟山島へ帰還することになったわけです(『那覇市史』資料篇第一巻七 家譜資料三、489頁)。
遭難への琉球の対応
琉球は英国が清国と交戦中であることを知りながらも、英国側とのトラブルを恐れるあまり、巨額の財政負担にもかかわらず、乗組員を厚遇して送り返したわけですが、この事実は宗主国の清国に対する忠誠よりも自国の当面の安全を優先したことを示しています。
他方で、琉球の対応は、江戸幕府や薩摩藩の法令〔異国船打払令〕にも違反していたわけですが、非武装の琉球が圧倒的な武力を誇る英国の遭難船の乗組員を即座に打ち払うことなどできないことは明らかでしたので、幕府や薩摩藩も琉球の対応を黙認せざるを得ませんでした。
要するに、この時点では、琉球は自らの判断によって自己決定権を行使し、自国の安全を優先する外交政策を選択することができたことに注目すべきだと思います(西里喜行「册封進貢体制の動揺とその諸契機」『東洋史研究』第59巻第1号参照)。もっとも、この時点では、琉球は清国に対して事件についての報告を一切していませんので、『歴代宝案』に関連記録が見当たらないのは当然です。
(西里喜行)
【図版出典】
図1:沖縄県教育委員会『沖縄県史 図説編 前近代』(2019年3月)46頁図1を一部修正
図2:沖縄県立埋蔵文化財センター報告書第87集『沖縄県の水中遺跡・沿岸遺跡-沿岸地域遺跡分布調査報告書-』(2017年3月)38頁図版17-2
図3:沖縄県立埋蔵文化財センター報告書第87集『沖縄県の水中遺跡・沿岸遺跡-沿岸地域遺跡分布調査報告書-』(2017年3月)41頁図版21-1