もっと知りたい近代沖縄 新聞にみる徴兵令施行と教育
沖縄の人々と兵役とのかかわりは、1890年(明治23)に屋部憲通など10名が志願して陸軍教導団に入団したことに始まります。1879年(明治12)の置県後も、沖縄県には徴兵令が施行されていなかったなかでの出来事でした。日清戦争後の1896年(明治29)から徴兵令の一部である陸軍六週間現役兵制度(師範学校を卒業した小学校教員を対象とするもの)が沖縄県に導入された後、1898年(明治31)から徴兵令が沖縄県にも施行され、本人の意志とかかわりなく、徴兵適齢者(徴兵検査を受ける満20歳の男性)は徴兵検査を受け、その結果により一部が軍隊に入ることとなりました。
沖縄警備隊区司令官らが1898年4月12日に着任して徴兵検査に関する事務に着手し、4月18日から21日にかけて沖縄県の吏員と実務的な会議を行ないました。それらを受けて徴兵適齢者に示したものが、4月25日の『琉球新報』に掲載された「徴兵適齢者の心得」です。この「心得」は、「検査を受くるの義務」を冒頭に掲げ、徴兵適齢者は理由なく徴兵検査を避けられないこと、正当な理由がある場合は証明書を提出すること、証明書の提出なく検査を受けなかった場合は罰金が科されることを伝えています。これは、徴集免除の手続き方法を示す一方で、罰則を示して徴兵検査を受けることが特別な義務であることを強調し、検査を「謹慎して」受けることを求めるものでした。
このように、軍が徴兵検査を遂行しようとしていた一方で、徴兵適齢者の徴兵忌避も多く見られ、『琉球新報』はそれらを報じています。4月17日には「脱清者捕へらる」と題して、徴兵適齢者が脱清(日本の支配を嫌い、清=中国へ渡航すること)したことをその氏名と住所を記して報じました。さらに、それらの人々に徴兵令違反で重禁錮と罰金の刑が科されたことも、4月27日の「徴兵令違反者の刑の言渡」に詳しく報じています。4月17日の記事にみられるように、『琉球新報』は、徴兵忌避を「心底実に悪むべし」とし、「兵役は国民の公義務たる事」という観点から徴兵令施行に臨んでいたのでした。
徴兵検査ののち、12月から301名が九州の陸海軍に入営・入団することとなりました。軍隊に入る徴兵当籤者に対して、小学校教員が準備教育を行なったことが『琉球新報』で報じられています。9月9日の「首里区徴兵当籤者入営準備」によれば、小学校教育を経た者に対して兵営内の諸規則等を教えるだけでなく、小学校教育を受けていない者に対しても五十音や数字といった基礎から日本語(標準語)を教えていたことがわかります。彼らが九州の兵営に入る以上、上官の命令を聞くことさえ困難なことを小学校教員は予想しえたので、緊急な課題として徴兵当籤者に対して日本語などの教育を開始したのです。
また10月11日の「国頭たより」は、そのような準備教育に対する徴兵当籤者の好成績に加えて、沖縄の成人男性の髪型である結髪を断髪することも少なくないことを報じていました。
図5 国頭たより(『琉球新報』1898年[明治31]10月11日)国立国会図書館所蔵
翌1899年(明治32)4月19日の『琉球新報』は、「本県徴兵適齢者に注意すへき要件」を掲載しています。それによれば、「一髪を惜むは、報国心の薄らき一看板」として愛国心の観点から断髪することを求め、さらに検査官からの質問に応答できるように日本語を学習しておくことを求めていました。1898年の徴兵の結果をふまえて、軍は沖縄人が徴兵義務を果たそうとする精神をもっていないととらえ、断髪と日本語の習得によって忠君愛国の精神を示すことを求めていくのであります。
近藤 健一郎(北海道大学)