もっと知りたい交流史 歴代宝案と琉清関係
琉清関係の成立
1644年、明は農民反乱によって滅亡し、満洲(女真)人の建国した清が中国の新たな王朝となりました。『歴代宝案』には、明の残存勢力(南明政権)と琉球との往復文書が複数収録されており、琉球は当初、明への朝貢を継続しようとしていたことがわかります。しかし南明政権はまもなく清に滅ぼされてしまい、結局、琉球は明から下賜された国王印などを清に差し出して、清への帰順を表明しました(歴代宝案1-14-01・02)。
その清から1663年に最初の冊封使が琉球へと派遣されます。琉球は、これまで明の皇帝から下賜された明服を礼服として用いてきましたが、冊封使は清服や辮髪を強制することなく、服を作るための特別な絹織物(蠎緞)を国王へと与えました(歴代宝案1-03-07)。以後、琉球ではこの布を用いて明服風の国王の礼服を仕立てるようになります【図1】。
1683年には清から二回目の冊封使が琉球に派遣され、皇帝直筆の「中山世土」の書がもたらされました【図2】。中国皇帝の書が琉球に与えられるのは初めてのことで、国王尚貞は「国を挙げて仰ぎ見、ただおどり上がって喜ぶばかりです」とその感激を表現しています(歴代宝案1-15-03)。これを先例として清の皇帝は代々琉球に書を送り、円満な琉清関係の維持に努めました。
琉球の日清中継貿易
明代とは異なり、清代の琉球は清・日本のみと通交しました。このため琉球は黒糖やウコンなど日本向けの商品作物の生産に力を入れ、これらを薩摩経由で日本市場へ売却することで、清との朝貢貿易の元手となる銀や海産物(昆布・俵物)を入手するようになります。清からは生糸・絹織物・薬種(漢方薬の材料)などを輸入し、やはり薩摩を通じて日本へと輸出しました。1836年に清に到着した進貢船の積荷の免税について知らせる文書(歴代宝案2-164-07)には、「海帯菜(昆布)・魚翅(フカヒレ)・鮑魚(干しアワビ)・海参(干しナマコ)・目魚乾(スルメ)」などの海産物が名を連ね、琉球が日本と清の市場を結びつけていた様子がうかがえます。
(渡辺美季)