もっと知りたい交流史 『歴代宝案』という名称の由来について
控えとしての歴代宝「案」
『歴代宝案』は琉球国と中国をはじめとした諸外国との往復文書を集成した史料です。『歴代宝案』という名称は第一集巻一の序文に登場します。
「歴代宝案は天妃宮に蔵す。其の来たるや久し。然るに世を歴ること已に久しくして廃夷の患無き能わず。…紫金大夫蔡鐸…に命じて、旧案を重修して、二部を抄成せしむ。
康煕三十六年四月四日起こし、十一月三日に至って告竣す」
この序文から、『歴代宝案』は「旧案」を重修して、つまり再編集してまとめたものであることが分かります。では「旧案」とはなんでしょう。『歴代宝案』編集を命じられた中心人物の蔡鐸の家譜記録に次の記事があります。
「康煕十六年丁巳二月、国命を奉じて、暦(歴)代の案書を修正す。戊午四月に至って告成す」。ここの「歴代の案書」が「旧案」のことだと考えられます。康煕16年(1677)に蔡鐸は、代々残されていた外交文書を修正、整理してまとめていて、それを康煕36年(1697)に久米村トップ(久米村惣役)の蔡鐸が再編集したとなります。
さて「案書」とは、外交文書の作成を重要な職務としていた久米村に保管されてきた外交文書の控え、写しのことを指すのは明らかでしょう。琉球から差し出した文書の控えと、中国などから送られてきた文書も写しをとって、文書作成の参考にしていたと考えられます。外交上のさまざまな状況に対し、文書を作成する際の参考にする案書集、大事な案書集というところから「宝の案書集」=「宝案」と名付けられたのではないでしょうか。
案件としての歴代宝「案」
また、「案」を「案件」と解することもできそうです。『歴代宝案』第一集は文書の性質ごとに整理されています。皇帝からの詔・勅、福建布政司からの咨文、琉球国王の表・奏、咨文、東南アジアの国々との往復文書などです。各案件をグループごとに整理したことになります。第二集からは、基本的に同時代の編集となるためか年度単位での編集に変わります。
ところで、首里王府の評定所にあった文書に多くの「案書」と題された書類があります。これらは、摂政・三司官から鹿児島琉球館の駐在役人や薩摩の役人宛の文書の控えで、案件ごとに整理された目録が付いています。鹿児島駐在の役人や薩摩の役人から琉球に送られた文書は「下状」といい名称が異なりますが、これも控えの文書です。ともに1年単位でまとめられています。『歴代宝案』とは異なり、往復文書が別々にまとめられていますが、「案書」で、案件、控え文書という点では同じだと言えそうです。
(田名 真之)