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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
3-06-07 琉球国中山王世子尚泰より関係当局あて、咸豊十二年(同治元)の進貢使向啓元らを派遣するに当たり、便宜を図られたき旨、魏掌治等に付した符文(咸豊十二、同治元《一八六二》、八、二)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊十二年の貢期に当たれば、特に耳目官の向啓元・正議大夫の林長隆・都通事の魏掌治等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百二十六号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二十七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百二十五号の半印勘合符文一道を給して都通事の魏掌治等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向啓元 人伴一十二名
副使正議大夫一員 林長隆 人伴一十二名
朝京都通事一員 魏掌治 人伴七名
在船都通事二員 王兼才鄭維章 人伴八名
在船使者四員 向邦弼向階 真承恩麻厚仁 人伴一十六名
存留通事一員 王承休 人伴六名
在船通事一員 鄭良佐 人伴四名
管船火長・直庫四名 阮依義梁永功 西常裕内必進
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事魏掌治等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊十二年(一八六二)八月初二日
注*語注は〔三―〇三―一九〕参照。
(1)王兼才 久米村系王氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船都通事。『宝案』では同治三年の結状に中議大夫国場親雲上(〔三―一〇―一七〕)、同治六年の在船都通事(〔三―一三―〇一〕)として名がみえ、『世譜』では同治十一年の進貢の正議大夫とある。
(2)鄭維章 久米村系鄭氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船都通事。『宝案』ではほかに咸豊四年進貢・謝恩・慶賀の在船通事として名がみえる(巻一九六)。
(3)向邦弼 首里系向氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船使者。
(4)真承恩 首里系真氏。咸豊十二年(同治元)、同治六年(巻一三)の在船使者。
(5)向階 首里系向氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船使者。
(6)麻厚仁 首里系麻氏。咸豊十二年(同治元)、同治三年進貢の在船使者。
(7)王承休 久米村系王氏。咸豊十二年(同治元)進貢の存留通事。
(8)鄭良佐 嘉慶十年(一八〇五)~?。久米村系鄭氏(与座家)十世。道光十一年黄冠に陞る。道光十七年読書習礼のため閩に赴き、十八年帰国。咸豊十二年(同治元)進貢の在船通事(『家譜(二)』六七六頁)。
(9)阮依義 咸豊十二年(同治元)進貢の管船火長。
(10)西常裕 咸豊十二年(同治元)進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに同治三・六年の管船直庫として名がみえる(〔三―一〇―一九〕〔三―一三―〇七〕)。
(11)梁永功 咸豊十二年(同治元)進貢の管船火長。
(12)内必進 咸豊十二年(同治元)進貢の管船直庫。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊十二年の貢期に当たれば、特に耳目官の向啓元・正議大夫の林長隆・都通事の魏掌治等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百二十六号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二十七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百二十五号の半印勘合符文一道を給して都通事の魏掌治等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使耳目官一員 向啓元 人伴一十二名
副使正議大夫一員 林長隆 人伴一十二名
朝京都通事一員 魏掌治 人伴七名
在船都通事二員 王兼才鄭維章 人伴八名
在船使者四員 向邦弼向階 真承恩麻厚仁 人伴一十六名
存留通事一員 王承休 人伴六名
在船通事一員 鄭良佐 人伴四名
管船火長・直庫四名 阮依義梁永功 西常裕内必進
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事魏掌治等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊十二年(一八六二)八月初二日
注*語注は〔三―〇三―一九〕参照。
(1)王兼才 久米村系王氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船都通事。『宝案』では同治三年の結状に中議大夫国場親雲上(〔三―一〇―一七〕)、同治六年の在船都通事(〔三―一三―〇一〕)として名がみえ、『世譜』では同治十一年の進貢の正議大夫とある。
(2)鄭維章 久米村系鄭氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船都通事。『宝案』ではほかに咸豊四年進貢・謝恩・慶賀の在船通事として名がみえる(巻一九六)。
(3)向邦弼 首里系向氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船使者。
(4)真承恩 首里系真氏。咸豊十二年(同治元)、同治六年(巻一三)の在船使者。
(5)向階 首里系向氏。咸豊十二年(同治元)進貢の在船使者。
(6)麻厚仁 首里系麻氏。咸豊十二年(同治元)、同治三年進貢の在船使者。
(7)王承休 久米村系王氏。咸豊十二年(同治元)進貢の存留通事。
(8)鄭良佐 嘉慶十年(一八〇五)~?。久米村系鄭氏(与座家)十世。道光十一年黄冠に陞る。道光十七年読書習礼のため閩に赴き、十八年帰国。咸豊十二年(同治元)進貢の在船通事(『家譜(二)』六七六頁)。
(9)阮依義 咸豊十二年(同治元)進貢の管船火長。
(10)西常裕 咸豊十二年(同治元)進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに同治三・六年の管船直庫として名がみえる(〔三―一〇―一九〕〔三―一三―〇七〕)。
(11)梁永功 咸豊十二年(同治元)進貢の管船火長。
(12)内必進 咸豊十二年(同治元)進貢の管船直庫。