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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-196-31 琉球国中山王世子尚泰より、咸豊四年の進貢・謝恩・慶賀の使節派遣に当たり、関係当局へ便宜供与要請のため、都通事阮孝銓等に付した符文(咸豊四《一八五四》、八、三)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢して謝恩・慶賀を兼ねる事の為にす。
照らし得たるに、敝国は海隅に僻居し、世々天朝の鴻恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊四年の貢期に当たり、復た御書匾額を特賜せらるるを蒙り、併びに皇后を冊立するの大典に逢えば、謹んで紫巾官の向邦棟・正議大夫の毛克進・都通事の阮孝銓等を遣わし、表章・方物を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領せしめ、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て両船に分載せしめ、一船の礼字第三百七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔、並びに謝恩の礼物の金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製摺扇二百把、又、皇后殿下に進奉する慶賀の方物の金粉匣一合―共に重さ八両・銀粉匣一合―共に重さ七両三銭・精熟淡黄色土夏布二十疋・精熟土夏布二十疋・細嫩土蕉布四十疋・精製摺扇八十把を装載し、一船の礼字第三百八号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝り、兼ねて天恩に謝し、並びに賀敬を伸べしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。此れが為に、王府の礼字第三百六号半印勘合の符文一道を給発して都通事の阮孝銓等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使紫巾官一員 向邦棟 人伴一十七名
副使正議大夫一員 毛克進 人伴一十二名
朝京都通事一員 阮孝銓 人伴六名
在船都通事二員 毛克述/毛嘉桐 人伴六名
在船使者四員 向文治 毛嘉瑞/和崇徳 顧如琢 人伴一十六名
存留通事一員 林世元 人伴六名
在船通事一員 鄭維章 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁永福 久維順/紅廷器 慶永保
水梢共に一百一十六名
右の符文は都通事阮孝銓等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊四年(一八五四)八月初三日
注(1)毛克述 嘉慶十年(一八〇五)~?。久米村系毛氏(南風原家)八世。南風原親方。道光十八年に読書習礼のため福建に赴く。咸豊四年・九年に在船都通事、同治二年慶賀及進香の副使正議大夫を務める。同治十一年に大里間切南風原地頭職を授かる(『家譜(二)』七四八頁)。
(2)毛嘉桐 乾隆五十八~咸豊十一年(一七九三~一八六一)。久米村系毛氏七世。名城親方。嘉慶二十年読書習礼のために福建に渡る。道光三年の雇募商船の返還船の管船夥長、二十三年接貢船の存留通事、咸豊四年進貢船の都通事。七年に真壁間切名城地頭職を授かる。十一年接貢船の都通事として福建に赴き、病死。墓は福州府廷安山上渡地方にある(『毛姓家譜 支流』)。
(3)向文治 咸豊四年の在船使者。『宝案』では道光二十四年の遭風の記事のなかに八重山島在番仲吉即向文治として名がみえる(〔一八〇―〇七〕)。『御使者在番記』に道光二十二年の在番として仲吉里之子親雲上朝維の名があるが同一か。
(4)毛嘉瑞 咸豊四年の在船使者。
(5)顧如琢 咸豊四年の在船使者。
(6)林世元 咸豊四年の存留通事。
(7)鄭維章 咸豊四年の在船通事、十二年の在船都通事(第三集巻六)。
(8)梁永福 咸豊四年の管船火長。
(9)紅廷器 咸豊四年の管船火長。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢して謝恩・慶賀を兼ねる事の為にす。
照らし得たるに、敝国は海隅に僻居し、世々天朝の鴻恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊四年の貢期に当たり、復た御書匾額を特賜せらるるを蒙り、併びに皇后を冊立するの大典に逢えば、謹んで紫巾官の向邦棟・正議大夫の毛克進・都通事の阮孝銓等を遣わし、表章・方物を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領せしめ、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て両船に分載せしめ、一船の礼字第三百七号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔、並びに謝恩の礼物の金鶴形一対―鶴踏銀岩座各全・黒漆嵌螺五爪龍蓋椀三十個・黒漆嵌螺五爪龍円盤三十個・細嫩沈香色織花蕉布十疋・細嫩織花蕉布四十疋・精熟土黄色織花蕉布十疋・精熟織花蕉布四十疋・細嫩濃茶色素光蕉布十疋・細嫩素光蕉布四十疋・精彩画囲屏一対・囲屏紙五千張・護寿紙五千張・精製摺扇二百把、又、皇后殿下に進奉する慶賀の方物の金粉匣一合―共に重さ八両・銀粉匣一合―共に重さ七両三銭・精熟淡黄色土夏布二十疋・精熟土夏布二十疋・細嫩土蕉布四十疋・精製摺扇八十把を装載し、一船の礼字第三百八号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝り、兼ねて天恩に謝し、並びに賀敬を伸べしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。此れが為に、王府の礼字第三百六号半印勘合の符文一道を給発して都通事の阮孝銓等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使紫巾官一員 向邦棟 人伴一十七名
副使正議大夫一員 毛克進 人伴一十二名
朝京都通事一員 阮孝銓 人伴六名
在船都通事二員 毛克述/毛嘉桐 人伴六名
在船使者四員 向文治 毛嘉瑞/和崇徳 顧如琢 人伴一十六名
存留通事一員 林世元 人伴六名
在船通事一員 鄭維章 人伴四名
管船火長・直庫四名 梁永福 久維順/紅廷器 慶永保
水梢共に一百一十六名
右の符文は都通事阮孝銓等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊四年(一八五四)八月初三日
注(1)毛克述 嘉慶十年(一八〇五)~?。久米村系毛氏(南風原家)八世。南風原親方。道光十八年に読書習礼のため福建に赴く。咸豊四年・九年に在船都通事、同治二年慶賀及進香の副使正議大夫を務める。同治十一年に大里間切南風原地頭職を授かる(『家譜(二)』七四八頁)。
(2)毛嘉桐 乾隆五十八~咸豊十一年(一七九三~一八六一)。久米村系毛氏七世。名城親方。嘉慶二十年読書習礼のために福建に渡る。道光三年の雇募商船の返還船の管船夥長、二十三年接貢船の存留通事、咸豊四年進貢船の都通事。七年に真壁間切名城地頭職を授かる。十一年接貢船の都通事として福建に赴き、病死。墓は福州府廷安山上渡地方にある(『毛姓家譜 支流』)。
(3)向文治 咸豊四年の在船使者。『宝案』では道光二十四年の遭風の記事のなかに八重山島在番仲吉即向文治として名がみえる(〔一八〇―〇七〕)。『御使者在番記』に道光二十二年の在番として仲吉里之子親雲上朝維の名があるが同一か。
(4)毛嘉瑞 咸豊四年の在船使者。
(5)顧如琢 咸豊四年の在船使者。
(6)林世元 咸豊四年の存留通事。
(7)鄭維章 咸豊四年の在船通事、十二年の在船都通事(第三集巻六)。
(8)梁永福 咸豊四年の管船火長。
(9)紅廷器 咸豊四年の管船火長。