{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
2-192-26 琉球国中山王世子尚泰より、咸豊二年の進貢使節の派遣に当たり、関係当局へ便宜供与要請のため、都通事鄭思恭等に付した符文(咸豊二《一八五二》、八、三)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊二年の貢期に当たれば、特に耳目官の毛種美・正議大夫の蔡士俊・都通事の鄭思恭等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に一百九十九員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
又、特に王舅の馬克承・正議大夫の梁必達・都通事の阮宣詔等を遣わし、咨文を齎捧し、跟伴共に三十三員名を率領し、二号貢船に搭駕し、前みて福建に詣りて布政使司に陳請せしめ、督/撫両院に転詳して聖諭を奏請せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百号半印勘合の符文一道を給して都通事の鄭思恭等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
請諭
正使王舅一員 馬克承 人伴一十三名
副使正議大夫一員 梁必達 人伴一十二名
都通事一員 阮宣詔 人伴五名
進貢
正使耳目官一員 毛種美 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡士俊 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭思恭 人伴七名
在船都通事二員 林長隆/金邦俊 人伴八名
在船使者四員 東文炳 和崇徳/蔡柱 毛汝梅 人伴一十六名
在船通事一員 梁孝善 人伴四名
存留通事一員 陳元輔 人伴六名
管船火長・直庫四名 毛高飛 久維順/金天錫 慶永保
水梢共に一百一十九名
右の符文は都通事鄭思恭等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊二年(一八五二)八月初三日
注(1)阮宣詔 校訂本頭注では「阮宣紹」とするが誤り。
(2)林長隆 国吉親雲上(『家譜(四)』平重興の譜、四七二頁)。咸豊二年に在船都通事、八年に朝京都通事(巻二〇〇)、同治元年の正議大夫(第三集巻六)を務める。
(3)金邦俊 乾隆五十一~咸豊八年(一七八六~一八五八)。久米村系金氏(阿波連家)十五世。阿波連親方。嘉慶十六年、読書習礼のため福建に赴き、十八年に帰国。読書師などを経て、道光二十二年進貢頭号船の存留通事、咸豊二年の在船都通事を務める。咸豊七年に渡嘉敷間切安波連地頭職を授かる(『家譜(二)』九二頁)。
(4)東文炳 咸豊二年の在船使者。
(5)和崇徳 花城里之子親雲上(『毛姓家譜支流』毛嘉桐の譜)。咸豊二年、四年の在船使者。
(6)蔡柱 嘉慶二十三年(一八一八)~?。渡久地里之子政登。那覇系蔡氏十二世(『家譜(四)』二八五頁)。道光二十八年、咸豊二年の在船使者。
(7)毛汝梅 咸豊二年の在船使者。
(8)梁孝善 乾隆五十四~同治三年(一七八九~一八六四)。久米村系梁氏(我喜屋家)七世。咸豊二年、進貢の在船通事を務める。同三年久米村惣横目となる(『家譜(二)』八五〇頁)。
(9)陳元輔 道光三年(一八二三)~?。仲本通事親雲上。久米村系陳氏(仲本家)十五世。咸豊二年存留通事、六年王舅通事、十年都通事、同治二年朝京都通事を務める。咸豊五年中議大夫に陞る(『家譜(二)』五二〇頁)。
(10)毛高飛 咸豊二年の管船火長。
(11)久維順 咸豊二・四年の管船直庫。
(12)金天錫 咸豊二年の管船火長。
(13)慶永保 咸豊二年の管船直庫。『宝案』では道光十二・十四・三十年、咸豊二・四年にも管船直庫として名がみえる。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢する事の為にす。
照らし得たるに、敝国は叨くも天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に咸豊二年の貢期に当たれば、特に耳目官の毛種美・正議大夫の蔡士俊・都通事の鄭思恭等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に一百九十九員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を将て、均分して両船に装載せしめ、一船の礼字第三百一号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装運し、一船の礼字第三百二号は硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を載運し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
又、特に王舅の馬克承・正議大夫の梁必達・都通事の阮宣詔等を遣わし、咨文を齎捧し、跟伴共に三十三員名を率領し、二号貢船に搭駕し、前みて福建に詣りて布政使司に陳請せしめ、督/撫両院に転詳して聖諭を奏請せしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。今、王府の礼字第三百号半印勘合の符文一道を給して都通事の鄭思恭等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
請諭
正使王舅一員 馬克承 人伴一十三名
副使正議大夫一員 梁必達 人伴一十二名
都通事一員 阮宣詔 人伴五名
進貢
正使耳目官一員 毛種美 人伴一十二名
副使正議大夫一員 蔡士俊 人伴一十二名
朝京都通事一員 鄭思恭 人伴七名
在船都通事二員 林長隆/金邦俊 人伴八名
在船使者四員 東文炳 和崇徳/蔡柱 毛汝梅 人伴一十六名
在船通事一員 梁孝善 人伴四名
存留通事一員 陳元輔 人伴六名
管船火長・直庫四名 毛高飛 久維順/金天錫 慶永保
水梢共に一百一十九名
右の符文は都通事鄭思恭等に付す。此れに准ぜられよ
咸豊二年(一八五二)八月初三日
注(1)阮宣詔 校訂本頭注では「阮宣紹」とするが誤り。
(2)林長隆 国吉親雲上(『家譜(四)』平重興の譜、四七二頁)。咸豊二年に在船都通事、八年に朝京都通事(巻二〇〇)、同治元年の正議大夫(第三集巻六)を務める。
(3)金邦俊 乾隆五十一~咸豊八年(一七八六~一八五八)。久米村系金氏(阿波連家)十五世。阿波連親方。嘉慶十六年、読書習礼のため福建に赴き、十八年に帰国。読書師などを経て、道光二十二年進貢頭号船の存留通事、咸豊二年の在船都通事を務める。咸豊七年に渡嘉敷間切安波連地頭職を授かる(『家譜(二)』九二頁)。
(4)東文炳 咸豊二年の在船使者。
(5)和崇徳 花城里之子親雲上(『毛姓家譜支流』毛嘉桐の譜)。咸豊二年、四年の在船使者。
(6)蔡柱 嘉慶二十三年(一八一八)~?。渡久地里之子政登。那覇系蔡氏十二世(『家譜(四)』二八五頁)。道光二十八年、咸豊二年の在船使者。
(7)毛汝梅 咸豊二年の在船使者。
(8)梁孝善 乾隆五十四~同治三年(一七八九~一八六四)。久米村系梁氏(我喜屋家)七世。咸豊二年、進貢の在船通事を務める。同三年久米村惣横目となる(『家譜(二)』八五〇頁)。
(9)陳元輔 道光三年(一八二三)~?。仲本通事親雲上。久米村系陳氏(仲本家)十五世。咸豊二年存留通事、六年王舅通事、十年都通事、同治二年朝京都通事を務める。咸豊五年中議大夫に陞る(『家譜(二)』五二〇頁)。
(10)毛高飛 咸豊二年の管船火長。
(11)久維順 咸豊二・四年の管船直庫。
(12)金天錫 咸豊二年の管船火長。
(13)慶永保 咸豊二年の管船直庫。『宝案』では道光十二・十四・三十年、咸豊二・四年にも管船直庫として名がみえる。