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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-189-39 琉球国中山王世子尚泰より関係当局あて、進貢・慶賀・進香の使節派遣に当たり便宜を図られたき旨の符文(道光三十《一八五〇》、八、六)
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢して兼ねて登極を慶賀し併びに進香する事の為にす。
照らし得たるに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に道光三十年の貢期に当たり、謹んで王舅の夏超群・正議大夫の毛有増・使者の向其漢・都通事の毛克進等を遣わし、表章を齎捧し、進貢の定例併びに慶賀の加増の官伴・水梢共計するに二百一十三員名を率領せしめ、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運せしめんとして両船に分載し、一船の礼字第二百九十七号には、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔、又、慶賀の礼物の金鑵一合・銀鑵一合・金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・精熟淡黄色土夏布五十疋・精熟土夏布五十疋・細嫩土蕉布一百疋・金彩画囲屛一対・精製摺扇二百把・囲屛紙五千張・紅銅五百觔・白剛錫五百觔、並びに金粉匣一合・銀粉匣一合・精熟淡黄色土夏布二十疋・精熟土夏布二十疋・細嫩土蕉布四十疋・精製摺扇八十把、又、進香の礼物の白銀一百両を装載し、一船の礼字第二百九十八号には、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至って投納せしめ、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめ、兼ねて賀敬を伸べ、併びに祭典に陳べしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。此れが為に王府、礼字第二百九十六号半印勘合の符文一道を給発して都通事の毛克進等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使王舅一員 夏超群 人伴二十名
副使正議大夫一員 毛有増 人伴一十三名
使者一員 向其漢 人伴六名
朝京都通事一員 毛克進 人伴五名
在船都通事二員 鄭徳潤/毛鳳彩 人伴八名
在船使者四員 金宏謨 向国柱/蔡棟 浦宏源 人伴一十六名
存留通事一員 鄭学楷 人伴五名
在船通事一員 蔡邦弼 人伴四名
王舅通事一員 梁大章 人伴二名
管船火長・直庫四名 毛際周 久維順/林興信 慶永保
水梢共に一百十七名
右の符文は都通事毛克進等に付す。此れに准ぜられよ
道光三十年(一八五〇)八月初六日
注(1)鄭徳潤 屋富祖親雲上。久米村鄭氏。咸豊十年正議大夫として中国に渡っている(『家譜(二)』八六七頁、林世爵の譜参照)。
(2)金宏謨 道光三十年の使者。那覇金氏。
(3)向国柱 兼ケ段親雲上。首里向氏。道光三十年の在船使者。嘉慶十五年進貢正使耳目官として中国に赴く(『家譜(二)』二三一頁、紅日昂の譜参照)。
(4)蔡棟 道光三十年の使者。那覇蔡氏。
(5)浦宏源 道光三十年の使者。
(6)蔡邦弼 一七八一~一八六三年。翁長里之子親雲上。久米村蔡氏(上原家)十五世。中議大夫。嘉慶十一年読書習礼のため福州に渡る。道光十八年久米村総横目を務める(『家譜(二)』三五一頁)。
(7)毛際周 一七九四~一八五五年。吉川里之子親雲上。久米村毛氏七世。道光八年、九年、二十八年、咸豊四年と唐歌楽師を務め、江戸上りの使節たちに音楽を教えている。道光三十年、進貢頭号船の総管として中国に赴く(『毛姓家譜』)。
(8)久維順 道光三十年の管船直庫。咸豊二年、四年にも管船直庫となっている。
(9)林興信 道光三十年の管船火長。久米村林氏(平安座家)六世の林興信(一七八三年生まれ。嘉慶二十五年、道光三年勤学人として中国に渡り、中議大夫に陞る)と同一人物か(『家譜(二)』八八一頁)。
(10)慶永保 道光三十年の管船直庫。久維順とともに咸豊二年、四年にも管船直庫となっている。
琉球国中山王世子尚(泰)、進貢して兼ねて登極を慶賀し併びに進香する事の為にす。
照らし得たるに、敝国、世々天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に道光三十年の貢期に当たり、謹んで王舅の夏超群・正議大夫の毛有増・使者の向其漢・都通事の毛克進等を遣わし、表章を齎捧し、進貢の定例併びに慶賀の加増の官伴・水梢共計するに二百一十三員名を率領せしめ、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運せしめんとして両船に分載し、一船の礼字第二百九十七号には、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔、又、慶賀の礼物の金鑵一合・銀鑵一合・金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・精熟淡黄色土夏布五十疋・精熟土夏布五十疋・細嫩土蕉布一百疋・金彩画囲屛一対・精製摺扇二百把・囲屛紙五千張・紅銅五百觔・白剛錫五百觔、並びに金粉匣一合・銀粉匣一合・精熟淡黄色土夏布二十疋・精熟土夏布二十疋・細嫩土蕉布四十疋・精製摺扇八十把、又、進香の礼物の白銀一百両を装載し、一船の礼字第二百九十八号には、硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至って投納せしめ、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめ、兼ねて賀敬を伸べ、併びに祭典に陳べしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。合行しく符文を給発すべし。此れが為に王府、礼字第二百九十六号半印勘合の符文一道を給発して都通事の毛克進等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す。
正使王舅一員 夏超群 人伴二十名
副使正議大夫一員 毛有増 人伴一十三名
使者一員 向其漢 人伴六名
朝京都通事一員 毛克進 人伴五名
在船都通事二員 鄭徳潤/毛鳳彩 人伴八名
在船使者四員 金宏謨 向国柱/蔡棟 浦宏源 人伴一十六名
存留通事一員 鄭学楷 人伴五名
在船通事一員 蔡邦弼 人伴四名
王舅通事一員 梁大章 人伴二名
管船火長・直庫四名 毛際周 久維順/林興信 慶永保
水梢共に一百十七名
右の符文は都通事毛克進等に付す。此れに准ぜられよ
道光三十年(一八五〇)八月初六日
注(1)鄭徳潤 屋富祖親雲上。久米村鄭氏。咸豊十年正議大夫として中国に渡っている(『家譜(二)』八六七頁、林世爵の譜参照)。
(2)金宏謨 道光三十年の使者。那覇金氏。
(3)向国柱 兼ケ段親雲上。首里向氏。道光三十年の在船使者。嘉慶十五年進貢正使耳目官として中国に赴く(『家譜(二)』二三一頁、紅日昂の譜参照)。
(4)蔡棟 道光三十年の使者。那覇蔡氏。
(5)浦宏源 道光三十年の使者。
(6)蔡邦弼 一七八一~一八六三年。翁長里之子親雲上。久米村蔡氏(上原家)十五世。中議大夫。嘉慶十一年読書習礼のため福州に渡る。道光十八年久米村総横目を務める(『家譜(二)』三五一頁)。
(7)毛際周 一七九四~一八五五年。吉川里之子親雲上。久米村毛氏七世。道光八年、九年、二十八年、咸豊四年と唐歌楽師を務め、江戸上りの使節たちに音楽を教えている。道光三十年、進貢頭号船の総管として中国に赴く(『毛姓家譜』)。
(8)久維順 道光三十年の管船直庫。咸豊二年、四年にも管船直庫となっている。
(9)林興信 道光三十年の管船火長。久米村林氏(平安座家)六世の林興信(一七八三年生まれ。嘉慶二十五年、道光三年勤学人として中国に渡り、中議大夫に陞る)と同一人物か(『家譜(二)』八八一頁)。
(10)慶永保 道光三十年の管船直庫。久維順とともに咸豊二年、四年にも管船直庫となっている。