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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-184-08 琉球国中山王尚育より関係当局あて、道光二十七年の接貢船の福州行きの便宜を図られたき旨要請する執照(道光二十七《一八四七》、八、四)
琉球国中山王尚(育)、恭しく勅書を迎え併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、本爵、業に道光二十六年秋に於て耳目官の向元模・正議大夫の梁必達等を遣わし、表章・方物を齎捧し、天朝に入貢せしめ、業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の蔡能述等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領せしめ、海船一隻に坐駕し、前みて福建へ至り、恭しく皇上の勅書・欽賞の幣帛を迎え、併びに京より回るの使臣向元模・梁必達・林奕潢を接り、閩に在るの存留通事の阮孝銓等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差わす所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百九十一号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の鄭文達等に付し、収執して前去せしむ。凡所の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 蔡能述 人伴四名
在船使者二員 秋文明/詹文煥 人伴八名
存留通事一員 鄭文達 人伴六名
管船夥長・直庫二名 金思聰 柳伝順
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事鄭文達等に付す。此れに准ぜられよ
道光二十七年(一八四七)八月初四日
注(1)鄭文達 饒平名里之子親雲上。道光二十七年の存留通事(『家譜(二)』一九四頁、阮友傅の譜参照)。
(2)秋文明 一七八一~一八六〇年。伊地親方柴長。もとの唐名は秋時中、後に時の字禁止により文明と改称。首里秋氏(伊地家)八世。道光二十一年漂着中国人護送のため官舎として、同二十七年接貢船の才府として中国に赴く。同二十九年申口座に陞る(『家譜(三)』一七〇頁)。
(3)詹文煥 一七八六~一八四九年。田里筑登之親雲上兼慎。泊系詹氏五世。道光二十四年御船手座奉行、二十七年接貢船の官舎となる(『詹氏家譜』)。
(4)金思聰 道光二十七年接貢船の管船夥長。久米村金氏。
(5)柳伝順 道光二十七年接貢船の管船直庫。久米村柳氏。咸豊元年にも管船直庫となっている。
琉球国中山王尚(育)、恭しく勅書を迎え併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、本爵、業に道光二十六年秋に於て耳目官の向元模・正議大夫の梁必達等を遣わし、表章・方物を齎捧し、天朝に入貢せしめ、業経に福建等処承宣布政使司に移咨し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に国に還るの期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事の蔡能述等を遣わし、梢役共に八十九員名を帯領せしめ、海船一隻に坐駕し、前みて福建へ至り、恭しく皇上の勅書・欽賞の幣帛を迎え、併びに京より回るの使臣向元模・梁必達・林奕潢を接り、閩に在るの存留通事の阮孝銓等と与に国に還らしめんとす。
但だ、差わす所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に王府、礼字第二百九十一号半印勘合の執照一道を給発して存留通事の鄭文達等に付し、収執して前去せしむ。凡所の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す。
在船都通事一員 蔡能述 人伴四名
在船使者二員 秋文明/詹文煥 人伴八名
存留通事一員 鄭文達 人伴六名
管船夥長・直庫二名 金思聰 柳伝順
水梢共に六十五名
右の執照は存留通事鄭文達等に付す。此れに准ぜられよ
道光二十七年(一八四七)八月初四日
注(1)鄭文達 饒平名里之子親雲上。道光二十七年の存留通事(『家譜(二)』一九四頁、阮友傅の譜参照)。
(2)秋文明 一七八一~一八六〇年。伊地親方柴長。もとの唐名は秋時中、後に時の字禁止により文明と改称。首里秋氏(伊地家)八世。道光二十一年漂着中国人護送のため官舎として、同二十七年接貢船の才府として中国に赴く。同二十九年申口座に陞る(『家譜(三)』一七〇頁)。
(3)詹文煥 一七八六~一八四九年。田里筑登之親雲上兼慎。泊系詹氏五世。道光二十四年御船手座奉行、二十七年接貢船の官舎となる(『詹氏家譜』)。
(4)金思聰 道光二十七年接貢船の管船夥長。久米村金氏。
(5)柳伝順 道光二十七年接貢船の管船直庫。久米村柳氏。咸豊元年にも管船直庫となっている。