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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-94-25 国王尚温の、進貢のため耳目官向銓等を派遣するむねの符文(嘉慶七《一八〇二》、六、十)
琉球国中山王尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵、世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一次なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶七年の貢期に当たれば、特に耳目官向銓・正議大夫梁煥・都通事蔡清派等を遣わし、表章・方物を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運するの外、旨を奉じて入監読書せる官生向循師等四員・跟伴四名を率領し、更に貢する所の囲屏紙三千張・細嫩蕉布五十疋等の物を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百七十一号の半印勘合符文一道を給発し、都通事蔡清派等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向銓 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁煥 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡清派 人伴七名
在船都通事二員 王以文/王成教 人伴八名
在船使者四員 向長光 向処文/楊文鳳 向元麟 人伴一十六名
存留通事一員 蔡戴尭 人伴六名
在船通事一員 阮文光 人伴四名
官生四人 向循師 向世徳/周崇鐈 鄭邦孝 人伴四名
管船夥長・直庫四名 蔡任貴 林賢見/王乗懿 昂長泰
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡清派等に付し、此れを准けしむ
嘉慶七年(一八〇二)六月初十日
注(1)王以文 嘉慶七年進貢の在船都通事。『宝案』ではほかに嘉慶元年の王舅通事としても名がみえる(巻八五)。
(2)王成教 校訂本は「王咸教」だが、〔九四―二七〕等により「王成教」とした。
(3)向長光 嘉慶七年進貢の在船使者。
(4)向処文 嘉慶七年進貢の在船使者。〔九四―二六〕では「向虎文」とある。
(5)楊文鳳 嘉慶七年進貢の在船使者。
(6)向元麟 首里系向氏。宜野山里之子親雲上(『家譜(二)』二七〇頁、蔡修の譜)。嘉慶七年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十一年、二十年、二十二年接貢の在船使者として名がみえる(巻一〇一、一一八、巻一一二)。
(7)蔡戴尭 嘉慶七年進貢の存留通事。
(8)阮文光 嘉慶七年進貢の在船通事。『宝案』ではほかに嘉慶十二年の在船都通事(巻一〇二)、嘉慶十一年の結状では長史として名がみえる(巻一〇一)。
(9)蔡任貴 乾隆二十~嘉慶七年?(一七五五~一八〇二?)。久米村系蔡氏(仲井真家)十三世。乾隆四十八年通事に陞る。乾隆五十五年進貢の管船火長(総官)。嘉慶七年進貢の管船夥長(総官)として渡唐途中に行方不明となった(『家譜(二)』三三三頁)。
(10)王乗懿 嘉慶七年進貢の管船夥長。
琉球国中山王尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵、世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一次なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶七年の貢期に当たれば、特に耳目官向銓・正議大夫梁煥・都通事蔡清派等を遣わし、表章・方物を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運するの外、旨を奉じて入監読書せる官生向循師等四員・跟伴四名を率領し、更に貢する所の囲屏紙三千張・細嫩蕉布五十疋等の物を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百七十一号の半印勘合符文一道を給発し、都通事蔡清派等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向銓 人伴一十二名
副使正議大夫一員 梁煥 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡清派 人伴七名
在船都通事二員 王以文/王成教 人伴八名
在船使者四員 向長光 向処文/楊文鳳 向元麟 人伴一十六名
存留通事一員 蔡戴尭 人伴六名
在船通事一員 阮文光 人伴四名
官生四人 向循師 向世徳/周崇鐈 鄭邦孝 人伴四名
管船夥長・直庫四名 蔡任貴 林賢見/王乗懿 昂長泰
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡清派等に付し、此れを准けしむ
嘉慶七年(一八〇二)六月初十日
注(1)王以文 嘉慶七年進貢の在船都通事。『宝案』ではほかに嘉慶元年の王舅通事としても名がみえる(巻八五)。
(2)王成教 校訂本は「王咸教」だが、〔九四―二七〕等により「王成教」とした。
(3)向長光 嘉慶七年進貢の在船使者。
(4)向処文 嘉慶七年進貢の在船使者。〔九四―二六〕では「向虎文」とある。
(5)楊文鳳 嘉慶七年進貢の在船使者。
(6)向元麟 首里系向氏。宜野山里之子親雲上(『家譜(二)』二七〇頁、蔡修の譜)。嘉慶七年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十一年、二十年、二十二年接貢の在船使者として名がみえる(巻一〇一、一一八、巻一一二)。
(7)蔡戴尭 嘉慶七年進貢の存留通事。
(8)阮文光 嘉慶七年進貢の在船通事。『宝案』ではほかに嘉慶十二年の在船都通事(巻一〇二)、嘉慶十一年の結状では長史として名がみえる(巻一〇一)。
(9)蔡任貴 乾隆二十~嘉慶七年?(一七五五~一八〇二?)。久米村系蔡氏(仲井真家)十三世。乾隆四十八年通事に陞る。乾隆五十五年進貢の管船火長(総官)。嘉慶七年進貢の管船夥長(総官)として渡唐途中に行方不明となった(『家譜(二)』三三三頁)。
(10)王乗懿 嘉慶七年進貢の管船夥長。