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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-91-35 国王尚温の、進貢のため耳目官向必顕等を派遣するむねの符文(嘉慶五《一八〇〇》)
琉球国中山王尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵、世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶五年の進貢の期に当たり、特に耳目官向必顕・正議大夫阮翼・都通事蔡邦錦等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第一百六十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は礼字第一百六十六号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に、理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。今、王府の礼字第一百六十四号の半印勘合符文を給し、都通事蔡邦錦等に付し、收執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向必顕 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮翼 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡邦錦 人伴七名
護送都通事一員 蔡清派 人伴四名
在船都通事一員 林日新 人伴四名
在船使者四員 向文亨 翁廷柱/阿思明 毛著隆 人伴一十六名
存留通事一員 毛超群 人伴六名
在船通事一員 蔡肇業 人伴四名
管船火長・直庫四名 陳承昌 昂長泰/蔡執中 林賢見
外に護送直庫 昂長基・新賜福 二名有り
水梢共に一百十七名、外に護送水梢二十六名有り。
右の符文は都通事蔡邦錦等に付し、此れを准けしむ
嘉慶五年(一八〇〇)
注(1)洪恩 大いなる恩恵。
(2)蔡清派 嘉慶五年冊封謝恩の護送都通事。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の朝京都通事としても名がみえる(巻九四)。
(3)在船都通事 進貢船乗員の役職の一つ。赴京せず、その船で帰国する都通事を、進貢正副使とともに使節団の一員として北京へ赴く都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る在船都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任ぜられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。
(4)林日新 雍正九~嘉慶六年(一七三一~一八〇一)。久米村系林氏(名嘉山家)十三世。金城里之子親雲上。乾隆四十年座敷、嘉慶三年中議大夫に陞る。乾隆三十五年の頭号船火長を務め、三十九年に勤学として福州に赴き、四十一年に中国に漂着した琉球船の通事として帰国。嘉慶元年、五年の頭号船大通事として中国に赴いた。嘉慶六年に福州で没した(『家譜(二)』九二六頁)。日新の墓は兄維新(一七八七年没)とともに福州倉山区にあったという(徐恭生『中国・琉球交流史』ひるぎ社、一九九一年)。
(5)在船使者 進貢船で福建に渡り、進京せず、その船で帰国する使者を、同行の上京する使者と区別するための呼称。接回や探問など上京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられた。
(6)向文亨 嘉慶五年進貢の在船使者。『選編』嘉慶六年の福建巡撫汪志伊の題本によると、向文亨・林日新・毛超群は嘉慶六年に福州で病故した。
(7)翁廷柱 首里系翁氏。徳平里之子親雲上(『世譜』)。嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶元年進貢の在船使者(巻八五)、八年商船送還の在船使者(巻九六)として名がみえる。
(8)阿思明 嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに乾隆六十年接貢の在船使者として名がみえる(巻八三)。
(9)毛著隆 首里系毛氏。村山里之子親雲上(『家譜(二)』六頁、王秉乾の譜)。嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十年接貢の在船使者として名がみえる(巻九九)。
(10)存 校訂本は「在」だが、〔九一―三六〕により「存」とした。
(11)毛超群 久米村系毛氏。奥間里之子親雲上(『家譜(二)』三四四頁、蔡肇業の譜)。嘉慶五年進貢の存留通事。嘉慶六年に福州で病故した(『選編』)。
(12)蔡肇業 乾隆二十一~道光七年(一七五六~一八二七)。久米村系蔡氏(上原家)十四世。翁長親方。乾隆四十六年通事、五十四年都通事、嘉慶十五年正議大夫、同年申口座、十九年紫金大夫に陞る。嘉慶五年進貢の在船通事、十一年進貢の朝京都通事、十五年進貢の副使正議大夫を務めた。嘉慶十三年家統を継ぎ大里間切崎原地頭職、十九年知行高二十石を授かり、二十年豊見城間切翁長地頭職へと転地(『家譜(二)』三四三頁)。
(13)火長 管船火長のこと。夥長とも書く。〔九〇―一七〕「夥長」参照。
(14)直庫 管船直庫のこと。直庫の中国における職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其の(船の)戦具を司る者を直庫と為す」とある。近世の琉球における直庫は「船頭」に相当する。
(15)陳承昌 嘉慶五年進貢の管船火長。
(16)昂長泰 嘉慶五年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の管船直庫として名がみえる(巻九四)。
(17)蔡執中 嘉慶五年進貢の管船火長。
(18)林賢見 嘉慶五年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の管船直庫として名がみえる(巻九四)。
(19)昂長基 嘉慶五年の冊封使護送の管船直庫。
(20)新賜福 嘉慶五年の冊封使護送の管船直庫。
琉球国中山王尚(温)、進貢の事の為にす。
照得するに、本爵、世々天朝の洪恩に沐す。会典に遵依して二年一貢なること、欽遵して案に在り。
茲に嘉慶五年の進貢の期に当たり、特に耳目官向必顕・正議大夫阮翼・都通事蔡邦錦等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第一百六十五号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は礼字第一百六十六号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴きて聖禧を叩祝せんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に、理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。今、王府の礼字第一百六十四号の半印勘合符文を給し、都通事蔡邦錦等に付し、收執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得ること毋からしめよ。須らく符文に至るべき者なり。
計開
正使耳目官一員 向必顕 人伴一十二名
副使正議大夫一員 阮翼 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡邦錦 人伴七名
護送都通事一員 蔡清派 人伴四名
在船都通事一員 林日新 人伴四名
在船使者四員 向文亨 翁廷柱/阿思明 毛著隆 人伴一十六名
存留通事一員 毛超群 人伴六名
在船通事一員 蔡肇業 人伴四名
管船火長・直庫四名 陳承昌 昂長泰/蔡執中 林賢見
外に護送直庫 昂長基・新賜福 二名有り
水梢共に一百十七名、外に護送水梢二十六名有り。
右の符文は都通事蔡邦錦等に付し、此れを准けしむ
嘉慶五年(一八〇〇)
注(1)洪恩 大いなる恩恵。
(2)蔡清派 嘉慶五年冊封謝恩の護送都通事。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の朝京都通事としても名がみえる(巻九四)。
(3)在船都通事 進貢船乗員の役職の一つ。赴京せず、その船で帰国する都通事を、進貢正副使とともに使節団の一員として北京へ赴く都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る在船都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任ぜられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。
(4)林日新 雍正九~嘉慶六年(一七三一~一八〇一)。久米村系林氏(名嘉山家)十三世。金城里之子親雲上。乾隆四十年座敷、嘉慶三年中議大夫に陞る。乾隆三十五年の頭号船火長を務め、三十九年に勤学として福州に赴き、四十一年に中国に漂着した琉球船の通事として帰国。嘉慶元年、五年の頭号船大通事として中国に赴いた。嘉慶六年に福州で没した(『家譜(二)』九二六頁)。日新の墓は兄維新(一七八七年没)とともに福州倉山区にあったという(徐恭生『中国・琉球交流史』ひるぎ社、一九九一年)。
(5)在船使者 進貢船で福建に渡り、進京せず、その船で帰国する使者を、同行の上京する使者と区別するための呼称。接回や探問など上京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられた。
(6)向文亨 嘉慶五年進貢の在船使者。『選編』嘉慶六年の福建巡撫汪志伊の題本によると、向文亨・林日新・毛超群は嘉慶六年に福州で病故した。
(7)翁廷柱 首里系翁氏。徳平里之子親雲上(『世譜』)。嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶元年進貢の在船使者(巻八五)、八年商船送還の在船使者(巻九六)として名がみえる。
(8)阿思明 嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに乾隆六十年接貢の在船使者として名がみえる(巻八三)。
(9)毛著隆 首里系毛氏。村山里之子親雲上(『家譜(二)』六頁、王秉乾の譜)。嘉慶五年進貢の在船使者。『宝案』ではほかに嘉慶十年接貢の在船使者として名がみえる(巻九九)。
(10)存 校訂本は「在」だが、〔九一―三六〕により「存」とした。
(11)毛超群 久米村系毛氏。奥間里之子親雲上(『家譜(二)』三四四頁、蔡肇業の譜)。嘉慶五年進貢の存留通事。嘉慶六年に福州で病故した(『選編』)。
(12)蔡肇業 乾隆二十一~道光七年(一七五六~一八二七)。久米村系蔡氏(上原家)十四世。翁長親方。乾隆四十六年通事、五十四年都通事、嘉慶十五年正議大夫、同年申口座、十九年紫金大夫に陞る。嘉慶五年進貢の在船通事、十一年進貢の朝京都通事、十五年進貢の副使正議大夫を務めた。嘉慶十三年家統を継ぎ大里間切崎原地頭職、十九年知行高二十石を授かり、二十年豊見城間切翁長地頭職へと転地(『家譜(二)』三四三頁)。
(13)火長 管船火長のこと。夥長とも書く。〔九〇―一七〕「夥長」参照。
(14)直庫 管船直庫のこと。直庫の中国における職掌については、万暦四十五年頃刊の張燮『東西洋考』巻九、舟師考に「其の(船の)戦具を司る者を直庫と為す」とある。近世の琉球における直庫は「船頭」に相当する。
(15)陳承昌 嘉慶五年進貢の管船火長。
(16)昂長泰 嘉慶五年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の管船直庫として名がみえる(巻九四)。
(17)蔡執中 嘉慶五年進貢の管船火長。
(18)林賢見 嘉慶五年進貢の管船直庫。『宝案』ではほかに嘉慶七年進貢の管船直庫として名がみえる(巻九四)。
(19)昂長基 嘉慶五年の冊封使護送の管船直庫。
(20)新賜福 嘉慶五年の冊封使護送の管船直庫。