{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
2-62-09 琉球国中山王尚穆の、乾隆四十一年の進貢のため、都通事金策等に付した符文(乾隆四十一《一七七六》、十一、十二)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官翁宏基・正議大夫鄭鴻勲・都通事金策等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百十一号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百十二号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百十号半印勘合の符文一道を給発し、都通事金策等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 翁宏基 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭鴻勲 人伴一十二名
朝京都通事一員 金策 人伴七名
在船都通事二員 蔡光君/紅秉毅 人伴八名
在船使者四員 姚鴻績 向重華/武和仁 温均厚 人伴一十六名
存留通事一員 鄭永功 人伴六名
在船通事一員 梁廷権 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭孝錫 馬厚守/阮成功 慶得安
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事金策等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十一年(一七七六)十一月十二日
注(1)蔡光君 乾隆四十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆三十年の存留通事(巻四九)としても名がみえる。
(2)紅秉毅 伊差川通事親雲上(『家譜(二)』一二七頁、金策の譜)。乾隆四十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆五年の管船夥長(巻二四)、十九年の在船通事(巻三六)、二十八年の在船都通事(巻四六)としても名がみえる。『球陽』には乾隆二十年に時憲書の撰日の新法を学んで通書を作ったとある(『球陽』巻一五、尚穆王四年の条)。
(3)姚鴻績 乾隆四十一年の在船使者。
(4)向重華 恩河里之子親雲上朝楞(『向姓家譜 支流 亀山家』向兼材の譜)。乾隆四十一年の在船使者。『宝案』では乾隆四十一年、四十六年の在船使者(巻六二・六七)としても名がみえる。
(5)武和仁 乾隆四十一年の在船使者。
(6)温均厚 乾隆四十一年の在船使者。
(7)鄭永功 鄭得功のこと。乾隆二~嘉慶六年(一七三七~一八〇一)。久米村系鄭氏(宮城家)十五世。後に即位した嘉慶帝の名の一字「永」の字を避諱し鄭得功と改名した。乾隆四十一年の存留脇通事。乾隆四十七年の二号船大通事、五十三年の正議大夫、嘉慶五年の冊封謝恩の副使紫金大夫として中国に赴き、六年に柔遠駅で病没し福州に葬られた。乾隆五十三年に南風原間切仲本の名島、五十四年に眞壁間切糸洲地頭職、嘉慶元年に南風原間切宮城地頭職を授かる(『家譜(二)』六三七頁)。
(8)梁廷権 雍正八~乾隆五十年(一七三〇~八五)。久米村系梁氏(饒波家)十一世。饒波親雲上。乾隆二十八年当座、三十三年座敷に陞る。乾隆五年に豊見城間切饒波地頭職を授かる。乾隆四十一年の進貢副通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』七八四頁)。
(9)鄭孝錫 赤嶺通事親雲上か(『家譜(二)』八〇四頁、梁廷弼の譜)。乾隆四十一年の管船火長。
(10)阮成功 乾隆四十一年の管船火長。
(11)慶得安 乾隆四十一年の管船直庫。『宝案』では乾隆四十三年、四十五年の管船直庫(巻六四・六六)としても名がみえる。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆四十一年の進貢の期に当たれば、特に耳目官翁宏基・正議大夫鄭鴻勲・都通事金策等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し、海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船の礼字第一百十一号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船の礼字第一百十二号には煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百十号半印勘合の符文一道を給発し、都通事金策等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 翁宏基 人伴一十二名
副使正議大夫一員 鄭鴻勲 人伴一十二名
朝京都通事一員 金策 人伴七名
在船都通事二員 蔡光君/紅秉毅 人伴八名
在船使者四員 姚鴻績 向重華/武和仁 温均厚 人伴一十六名
存留通事一員 鄭永功 人伴六名
在船通事一員 梁廷権 人伴四名
管船火長・直庫四名 鄭孝錫 馬厚守/阮成功 慶得安
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事金策等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十一年(一七七六)十一月十二日
注(1)蔡光君 乾隆四十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆三十年の存留通事(巻四九)としても名がみえる。
(2)紅秉毅 伊差川通事親雲上(『家譜(二)』一二七頁、金策の譜)。乾隆四十一年の在船都通事。『宝案』では乾隆五年の管船夥長(巻二四)、十九年の在船通事(巻三六)、二十八年の在船都通事(巻四六)としても名がみえる。『球陽』には乾隆二十年に時憲書の撰日の新法を学んで通書を作ったとある(『球陽』巻一五、尚穆王四年の条)。
(3)姚鴻績 乾隆四十一年の在船使者。
(4)向重華 恩河里之子親雲上朝楞(『向姓家譜 支流 亀山家』向兼材の譜)。乾隆四十一年の在船使者。『宝案』では乾隆四十一年、四十六年の在船使者(巻六二・六七)としても名がみえる。
(5)武和仁 乾隆四十一年の在船使者。
(6)温均厚 乾隆四十一年の在船使者。
(7)鄭永功 鄭得功のこと。乾隆二~嘉慶六年(一七三七~一八〇一)。久米村系鄭氏(宮城家)十五世。後に即位した嘉慶帝の名の一字「永」の字を避諱し鄭得功と改名した。乾隆四十一年の存留脇通事。乾隆四十七年の二号船大通事、五十三年の正議大夫、嘉慶五年の冊封謝恩の副使紫金大夫として中国に赴き、六年に柔遠駅で病没し福州に葬られた。乾隆五十三年に南風原間切仲本の名島、五十四年に眞壁間切糸洲地頭職、嘉慶元年に南風原間切宮城地頭職を授かる(『家譜(二)』六三七頁)。
(8)梁廷権 雍正八~乾隆五十年(一七三〇~八五)。久米村系梁氏(饒波家)十一世。饒波親雲上。乾隆二十八年当座、三十三年座敷に陞る。乾隆五年に豊見城間切饒波地頭職を授かる。乾隆四十一年の進貢副通事として中国へ赴いた(『家譜(二)』七八四頁)。
(9)鄭孝錫 赤嶺通事親雲上か(『家譜(二)』八〇四頁、梁廷弼の譜)。乾隆四十一年の管船火長。
(10)阮成功 乾隆四十一年の管船火長。
(11)慶得安 乾隆四十一年の管船直庫。『宝案』では乾隆四十三年、四十五年の管船直庫(巻六四・六六)としても名がみえる。