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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-60-18 琉球国中山王尚穆の、乾隆四十年の接貢のため、存留通事鄭作霖等に付した執照(乾隆四十《一七七五》、十一、十一)
琉球国中山王尚(穆)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、本爵、業に乾隆三十九年冬に於て、貢使の耳目官向崇猷・正議大夫蔡懿等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしむ。本爵、福建等処承宣布政使司に移咨するを経て、起送して京に赴き、叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に還国の期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事毛景裕等を遣わし、梢役共に八十六員名を帯領して海船一隻に坐駕し前みて福建に至り、恭しく皇上の勅書併びに欽賞の幣帛を迎え、及た京より回る使臣向崇猷・蔡懿・毛景昌は閩に在りて存留する陳宏沢等と与に還国せしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百九号半印勘合の執照一道を給発し、存留通事鄭作霖等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は、験実して即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す
在船都通事一員 毛景裕 跟伴四名
在船使者二員 毛思温/黎宏毅 跟伴八名
存留通事一員 鄭作霖 跟伴六名
管船夥長・直庫二名 金標 宮能安
水梢共に六十二名
右の執照は存留通事鄭作霖等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十年(一七七五)十一月十一日
注(1)鄭作霖 乾隆二~嘉慶十三年(一七三七~一八〇八)。久米村系鄭氏(真栄里家)七世。伊良皆親雲上。乾隆三十五年勢頭座敷、三十九年都通事、五十三年中議大夫、五十八年正議大夫、五十九年申口座、嘉慶四年紫金大夫に陞る。乾隆二十七年に勤学として福州へ赴き、三十三年帰国。乾隆三十五年に再び勤学として福州へ赴き、三十七年帰国。乾隆四十年の接貢船存留通事、五十三年の北京大通事、五十九年の副使正議大夫として中国に赴く。乾隆四十四年に読谷山間切伊良皆地頭職、嘉慶十年に東風平間切世名城地頭職を授かる(『家譜(二)』六九一頁)。
(2)黎宏毅 乾隆四十年の在船使者。
(3)金標 乾隆六~乾隆五十一年(一七四一~八六)。久米村系金氏(阿波連家)十三世。乾隆四十二年遏達理座敷、四十五年都通事に陞る。乾隆四十年に読谷山間切儀間地頭職を授かる。乾隆四十四年の総官として中国へ赴く(『家譜(二)』八七頁)。
琉球国中山王尚(穆)、恭しく勅書を迎え、併びに使臣を接回する事の為にす。
照らし得たるに、本爵、業に乾隆三十九年冬に於て、貢使の耳目官向崇猷・正議大夫蔡懿等を遣わし、表章・方物を齎捧して天朝に入貢せしむ。本爵、福建等処承宣布政使司に移咨するを経て、起送して京に赴き、叩きて聖禧を祝らしめて案に在り。
茲に還国の期に当たれば、例として応に船を撥して接回すべし。此れが為に特に都通事毛景裕等を遣わし、梢役共に八十六員名を帯領して海船一隻に坐駕し前みて福建に至り、恭しく皇上の勅書併びに欽賞の幣帛を迎え、及た京より回る使臣向崇猷・蔡懿・毛景昌は閩に在りて存留する陳宏沢等と与に還国せしめんとす。
但だ、差する所の員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第一百九号半印勘合の執照一道を給発し、存留通事鄭作霖等に付し、収執して前去せしむ。凡そ遇う所の関津及び沿海の巡哨官軍は、験実して即便に放行し、留難して阻滞するを得る毋からしめよ。
須らく執照に至るべき者なり。
計開す
在船都通事一員 毛景裕 跟伴四名
在船使者二員 毛思温/黎宏毅 跟伴八名
存留通事一員 鄭作霖 跟伴六名
管船夥長・直庫二名 金標 宮能安
水梢共に六十二名
右の執照は存留通事鄭作霖等に付し、此れを准けしむ
乾隆四十年(一七七五)十一月十一日
注(1)鄭作霖 乾隆二~嘉慶十三年(一七三七~一八〇八)。久米村系鄭氏(真栄里家)七世。伊良皆親雲上。乾隆三十五年勢頭座敷、三十九年都通事、五十三年中議大夫、五十八年正議大夫、五十九年申口座、嘉慶四年紫金大夫に陞る。乾隆二十七年に勤学として福州へ赴き、三十三年帰国。乾隆三十五年に再び勤学として福州へ赴き、三十七年帰国。乾隆四十年の接貢船存留通事、五十三年の北京大通事、五十九年の副使正議大夫として中国に赴く。乾隆四十四年に読谷山間切伊良皆地頭職、嘉慶十年に東風平間切世名城地頭職を授かる(『家譜(二)』六九一頁)。
(2)黎宏毅 乾隆四十年の在船使者。
(3)金標 乾隆六~乾隆五十一年(一七四一~八六)。久米村系金氏(阿波連家)十三世。乾隆四十二年遏達理座敷、四十五年都通事に陞る。乾隆四十年に読谷山間切儀間地頭職を授かる。乾隆四十四年の総官として中国へ赴く(『家譜(二)』八七頁)。