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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-54-10 琉球国中山王尚穆の、乾隆三十五年の進貢のため、都通事蔡世昌等に付した符文(乾隆三十五《一七七〇》、十一、十一)
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆三十五年の貢期に当たれば、特に耳目官毛自煥・正議大夫魏献蘭・都通事蔡世昌等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を分載す。礼字第九十九号貢船には硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、礼字第一百号貢船には硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第九十八号半印勘合の符文一道を給発し、都通事蔡世昌等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 毛自煥 人伴一十二名
副使正議大夫一員 魏献蘭 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡世昌 人伴七名
在船都通事二員 蔡懿/楊文煥 人伴八名
在船使者四員 蔡修 麻永健/郎昌 武成章 人伴一十六名
存留通事一員 阮廷宝 人伴六名
在船通事一員 梁廷輔 人伴四名
管船火長・直庫四名 林日新 仲秉直/林邦傑 厚成業
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡世昌等に付し、此れを准けしむ
乾隆三十五年(一七七〇)十一月十一日 給す
注(1)蔡懿 康煕五十五~乾隆四十年(一七一六~七五)。久米村系蔡氏(儀間家)十四世。儀間親雲上。乾隆十三年遏達理座、十六年都通事座敷、三十四年中議大夫、三十八年正議大夫、三十九年申口座に陞る。乾隆二十八年の存留通事、三十五年の都通事、三十九年の正議大夫として中国に赴く。雍正元年に小禄間切儀間地頭職を授かる。乾隆四十年に進貢の帰途、福州で没した(『家譜(二)』二六六頁)。
(2)楊文煥 平田親雲上(『家譜(二)』四九七頁、陳弘毅の譜)。『宝案』では乾隆十八年の管船夥長(巻三四)、二十七年の在船通事(巻四六)、三十五年、四十四年の在船都通事(巻五四・六五)として名がみえる。
(3)蔡修 乾隆三十五年の在船使者。
(4)麻永健 康煕五十六~乾隆四十七年(一七一七~八二)。首里系麻氏(瀬底家)十二世。諸見里親雲上真弘。乾隆二十五年当座敷、二十九年座敷、四十五年申口座に陞る。乾隆二十三年の小唐船脇筆者、三十五年の大唐船官舎、三十九年の小唐船才府として中国へ赴いた。乾隆三十四年に越来間切諸見里地頭職を授かる(『家譜(三)』六五四頁)。
(5)郎昌 乾隆三十五年の在船使者。〔五〇―二六〕では「郎昌」、〔五〇―二八〕では「即昌」、〔五四―一二〕では「朗昌」とある。
(6)武成章 乾隆三十五年の在船使者。
(7)阮廷宝 雍正九~乾隆五十三年(一七三一~八八)。久米村系阮氏(濱比嘉家)七世。吉濱親雲上。乾隆二十九年勢頭座敷、三十二年都通事座敷、四十五年中議大夫、五十一年正議大夫、申口座に陞る。乾隆十八年に勤学として福州に渡り、翌年帰国。乾隆二十七年の総管、三十五年の進貢存留通事、四十五年の朝京都通事、五十一年の副使正議大夫として中国へ赴いた。五十三年に北京からの帰途、山東省平原県腰站地方で病没し福州に葬られた。乾隆三十三年に先祖の功績をもって里之子家への筋目直しを認められ、五十年に知念間切外間地頭職を授かる(『家譜(二)』一七九頁)。
(8)梁廷輔 国吉里之子親雲上(『家譜(二)』六八四頁、鄭展猷の譜)。乾隆三十五年の在船通事。『宝案』では乾隆二十年の管船夥長(巻三七)、四十九年の在船都通事(巻七一)としても名がみえる。
(9)林日新 雍正九~嘉慶六年(一七三一~一八〇一)。久米村系林氏(名嘉山家)十三世。金城里之子親雲上。乾隆四十年座敷、嘉慶三年中議大夫に陞る。乾隆三十五年の頭号船火長を務め、三十九年に勤学として福州に赴き、四十一年に中国に漂着した琉球船の通事として帰国。嘉慶元年、五年の頭号船大通事として中国に赴いた。嘉慶六年に福州で没した(『家譜(二)』九二六頁)。日新の墓は兄維新(一七八七年没)とともに福州倉山区にあったという(徐恭生『中国・琉球交流史』ひるぎ社、一九九一年)。
(10)林邦傑 康煕六十一年(一七二二)~?。久米村系林氏(平安座家)四世。乾隆三十七年勢頭、三十八年都通事に陞る。乾隆三十五年の二号船総官(『家譜(二)』八七八頁)。
琉球国中山王尚(穆)、進貢の事の為にす。
照らし得たるに、本爵、世天朝の洪恩に沐し、会典に遵依して二年一貢し、欽遵して案に在り。
茲に乾隆三十五年の貢期に当たれば、特に耳目官毛自煥・正議大夫魏献蘭・都通事蔡世昌等を遣わし、表章を齎捧し、梢役共に二百を過ぎざるの員名を率領し海船二隻に坐駕せしめ、煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を分載す。礼字第九十九号貢船には硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、礼字第一百号貢船には硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・白剛錫五百觔を装載し、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き叩きて聖禧を祝らしめんとす。
所有の差去せる員役は、文憑無ければ以て各処の官軍の阻留して便ならざるを致すを恐る。此れが為に、王府の礼字第九十八号半印勘合の符文一道を給発し、都通事蔡世昌等に附し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋からしめよ。
須らく符文に至るべき者なり。
計開す
正使耳目官一員 毛自煥 人伴一十二名
副使正議大夫一員 魏献蘭 人伴一十二名
朝京都通事一員 蔡世昌 人伴七名
在船都通事二員 蔡懿/楊文煥 人伴八名
在船使者四員 蔡修 麻永健/郎昌 武成章 人伴一十六名
存留通事一員 阮廷宝 人伴六名
在船通事一員 梁廷輔 人伴四名
管船火長・直庫四名 林日新 仲秉直/林邦傑 厚成業
水梢共に一百二十名
右の符文は都通事蔡世昌等に付し、此れを准けしむ
乾隆三十五年(一七七〇)十一月十一日 給す
注(1)蔡懿 康煕五十五~乾隆四十年(一七一六~七五)。久米村系蔡氏(儀間家)十四世。儀間親雲上。乾隆十三年遏達理座、十六年都通事座敷、三十四年中議大夫、三十八年正議大夫、三十九年申口座に陞る。乾隆二十八年の存留通事、三十五年の都通事、三十九年の正議大夫として中国に赴く。雍正元年に小禄間切儀間地頭職を授かる。乾隆四十年に進貢の帰途、福州で没した(『家譜(二)』二六六頁)。
(2)楊文煥 平田親雲上(『家譜(二)』四九七頁、陳弘毅の譜)。『宝案』では乾隆十八年の管船夥長(巻三四)、二十七年の在船通事(巻四六)、三十五年、四十四年の在船都通事(巻五四・六五)として名がみえる。
(3)蔡修 乾隆三十五年の在船使者。
(4)麻永健 康煕五十六~乾隆四十七年(一七一七~八二)。首里系麻氏(瀬底家)十二世。諸見里親雲上真弘。乾隆二十五年当座敷、二十九年座敷、四十五年申口座に陞る。乾隆二十三年の小唐船脇筆者、三十五年の大唐船官舎、三十九年の小唐船才府として中国へ赴いた。乾隆三十四年に越来間切諸見里地頭職を授かる(『家譜(三)』六五四頁)。
(5)郎昌 乾隆三十五年の在船使者。〔五〇―二六〕では「郎昌」、〔五〇―二八〕では「即昌」、〔五四―一二〕では「朗昌」とある。
(6)武成章 乾隆三十五年の在船使者。
(7)阮廷宝 雍正九~乾隆五十三年(一七三一~八八)。久米村系阮氏(濱比嘉家)七世。吉濱親雲上。乾隆二十九年勢頭座敷、三十二年都通事座敷、四十五年中議大夫、五十一年正議大夫、申口座に陞る。乾隆十八年に勤学として福州に渡り、翌年帰国。乾隆二十七年の総管、三十五年の進貢存留通事、四十五年の朝京都通事、五十一年の副使正議大夫として中国へ赴いた。五十三年に北京からの帰途、山東省平原県腰站地方で病没し福州に葬られた。乾隆三十三年に先祖の功績をもって里之子家への筋目直しを認められ、五十年に知念間切外間地頭職を授かる(『家譜(二)』一七九頁)。
(8)梁廷輔 国吉里之子親雲上(『家譜(二)』六八四頁、鄭展猷の譜)。乾隆三十五年の在船通事。『宝案』では乾隆二十年の管船夥長(巻三七)、四十九年の在船都通事(巻七一)としても名がみえる。
(9)林日新 雍正九~嘉慶六年(一七三一~一八〇一)。久米村系林氏(名嘉山家)十三世。金城里之子親雲上。乾隆四十年座敷、嘉慶三年中議大夫に陞る。乾隆三十五年の頭号船火長を務め、三十九年に勤学として福州に赴き、四十一年に中国に漂着した琉球船の通事として帰国。嘉慶元年、五年の頭号船大通事として中国に赴いた。嘉慶六年に福州で没した(『家譜(二)』九二六頁)。日新の墓は兄維新(一七八七年没)とともに福州倉山区にあったという(徐恭生『中国・琉球交流史』ひるぎ社、一九九一年)。
(10)林邦傑 康煕六十一年(一七二二)~?。久米村系林氏(平安座家)四世。乾隆三十七年勢頭、三十八年都通事に陞る。乾隆三十五年の二号船総官(『家譜(二)』八七八頁)。