琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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2-33-24 世子尚穆の、進貢のため耳目官向邦鼎等を派遣するむねの符文(乾隆十七《一七五二》、十、十九)
琉球国中山王世子尚(穆)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次を欽遵せしこと、案に在り。査するに、乾隆十七年は乃ち進貢の期に当たれば、特に耳目官向邦鼎・正議大夫楊大壮・都通事魏献芝等を遣わし、表咨を齎捧して、海船二隻に坐駕し、官伴・水梢共に二百を過ぎざるの員名を率領し、常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運し、両船に分載す。一船は礼字第六十二号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は礼字第六十三号、煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載して、前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。所拠の差去せる員役は、文憑無ければ、各処の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此れが為に理として合に符文を給発し、以て通行するに便ならしむべし。
今、王府、礼字第六十一号の半印勘合の符文を給し、都通事魏献芝等に付して収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海の巡哨の官軍の験実に遇えば、即便に放行して留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 京に赴く
正使耳目官一員     向邦鼎  人伴一十二名
副使正議大夫一員 楊大壮  人伴一十二名
都通事一員     魏献芝  人伴七名
在船都通事二員  梁得温/鄭士綽  人伴八名
在船使者四員   毛彦章 李国忠/向紫瓊 毛昌貴  人伴一十六名
在留通事一員  曽璜  人伴六名
在船通事一員  金宏  人伴四名
管船火長・直庫四名 梁廷弼 馬利航/鄭近知 和承烈
水梢共に一百二十名
右の符文は、都通事魏献芝等に付し、此れを准ず
乾隆十七年十月十九日 給す

注(1)収執 受け取り保管する。
(2)鄭士綽 親里親雲上(金型の譜、『家譜(二)』六四頁)。『宝案』では雍正十四年の在船通事、乾隆六年・十七年の都通事、乾隆二十三年の正議大夫として名がみえる。
(3)在船使者 進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する使者。首里・那覇系の人が任じられ、一船に二人乗船し、各人が四人の人伴を持つことが多い。『家譜』には、筆頭の在船使者を才府、二位のものを官舎と記すことが多い。
(4)向紫瓊 『宝案』では他に乾隆十年の司養贍大使〔二七―一一〕として名がみえる。
(5)毛昌貴 志喜屋親雲上安屋。首里系毛氏七世。康煕四十六~?(一七〇七~?)。乾隆十九年、知念間切志喜屋地頭となる(『家譜(三)七八一頁』)。家譜では「官舎」とある。官舎は進貢の際、薩摩から委託されて購入した物品を薩摩へ届ける責任者でもあった。なお家譜には、帰国した進貢二号船の貨物について「才府大筆者于彼処(運天湊)公物装載和船上国」とある。
(6)曽璜 砂辺若秀才。康煕五十六~乾隆十九(一七一七~五四)。久米村曽氏(仲宗根家)八世。乾隆十年北谷間切砂辺の地頭となる。乾隆十七年進貢の存留通事として福建に赴き十九年琉球館で病故し、南台下渡祖山に葬られた(『家譜(二)』三九九頁)。
(7)金宏 家譜には乾隆十三年の在船通事・安次嶺里之子親雲上(紅秉徤の譜、『家譜(二)』二一〇頁)とあり、『宝案』では他に乾隆十九年・二十七年の在船都通事として名がみえる。
(8)梁廷弼 国吉里之子親雲上。康煕五十八~乾隆四十八(一七一九~八三)。久米村梁氏(国吉家)十二世。十七年進貢頭号船の総官として中国に赴く。三十三年真和志平等の講解師を勤め、四十四年久米村総与頭となる(『家譜(二)』八〇四頁)。
(9)馬利航 『宝案』では乾隆七・十一・十三・十七年の管船直庫として名がみえる。
(10)鄭近知 池宮城里之子親雲上(魏宗絢の譜、『家譜(二)』三四頁)。
(11)和承烈 『宝案』では乾隆十三・十五・十七・十九・二十三年の管船直庫として名が見える。
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