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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-22-11 国王尚敬の、慶賀進香のため都通事楊大壮等に付した符文(乾隆二《一七三七》、十二、十一)
琉球国中山王尚(敬)、慶賀・進香の事の為にす。
切照するに、敝国、蕞爾にして辺陲なるも世々天朝の鴻恩に沐し、頂踵するも報い難し。茲に欣ばしくも皇上の登極に逢えば、理として応に恭賀すべし。以て臣子の効順し愚誠を伸べんとす。此れが為に特に王舅向啓猷・正議大夫金震等を遣わし、表文を齎捧し、官伴・梢役、上下の員役、共計一百三十六員名を率領し、海船一隻に坐駕し、土産の金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・金鑵一合―共に重さ七十六両・銀鑵一合―共に重さ六十両・細嫩土蕉布五十疋・細嫩花蕉布五十疋・細嫩土夏布一百疋・金彩画囲屏一対・精製雅扇二百把・囲屏紙五千張・紅銅五百觔・白剛錫五百觔を装載し、御前に恭進す。復た、金粉匣一合―共に重さ八両・銀粉匣一合―共に重さ七両三銭・細嫩土蕉布二十疋・細嫩花蕉布二十疋・細嫩土夏布四十疋・精製雅扇八十把を備え、皇后の前に進奉し、虔みて賀敬を陳ぶるの外、肅みて香燭・祭品等の物を貢し、代儀の白銀一百両と共に、恭しく世宗憲皇帝の在天の鑑を邀え、以て微忱を効す。已上の方物を解運し、前みて福建等処承宣布政使司に詣りて投逓し、起送して京に赴かしむ。
拠の差去せる員役は、並えて文憑無ければ、誠に所在の官軍の盤阻して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。此れが為に王府、礼字第三十号の半印勘合符文を給し、都通事楊大壮等に附して収執して前去せしむ。如し経過の関津、把隘の去処及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使王舅一員 向啓猷 人伴二十名
副使正議大夫一員 金震 人伴一十三名
使者一員 夏瑞龍 人伴六名
都通事一員 楊大壮 人伴五名
在船都通事一員 金振 人伴四名
在船使者二員 童張秀/温思義 人伴八名
在留通事一員 鄭師谷 人伴五名
王舅通事一員 魏開祖 人伴二名
管船夥長・直庫二名 毛如苞 慶続照
水梢共に六十二名
右の符文は都通事楊大壮等に附し、此れを准ず
乾隆二年(一七三七)十二月十一日
注(1)蕞爾 小さいさま。ここでは琉球をさす。
(2)童張秀 乾隆二年の在船使者。
(3)温思義 山城親雲上紹首(『家譜(二)』三四頁、魏宗紀の譜)。乾隆二年の在船使者。『宝案』では乾隆八年の使者(巻二六)としても名がみえる。
(4)鄭師谷 康煕三十八~乾隆十三年(一六九九~一七四八)。久米村系鄭氏十四世(登川家)。登川親雲上。雍正四年に読書習礼のために福建に渡る。乾隆二年の慶賀・進香および接貢の存留通事となる。十一年に朝京都通事として北京に赴き、帰国直前に福建にて急逝した。家譜には孫の鄭択中が嘉慶二十二年に建てた墓碑が記されている(『家譜(二)』六〇六頁)。
(5)毛如苞 康煕四十七~乾隆二十六年(一七〇八~六一)。久米村系毛氏五世(与世山家)。安仁屋親雲上。乾隆二十四年に正議大夫に陞る。乾隆二年に慶賀船の管船夥長(総管)、十五年の進貢の在船通事、二十年に冊封謝恩の朝京都通事となる(『家譜(二)』七一三頁)。
琉球国中山王尚(敬)、慶賀・進香の事の為にす。
切照するに、敝国、蕞爾にして辺陲なるも世々天朝の鴻恩に沐し、頂踵するも報い難し。茲に欣ばしくも皇上の登極に逢えば、理として応に恭賀すべし。以て臣子の効順し愚誠を伸べんとす。此れが為に特に王舅向啓猷・正議大夫金震等を遣わし、表文を齎捧し、官伴・梢役、上下の員役、共計一百三十六員名を率領し、海船一隻に坐駕し、土産の金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・金鑵一合―共に重さ七十六両・銀鑵一合―共に重さ六十両・細嫩土蕉布五十疋・細嫩花蕉布五十疋・細嫩土夏布一百疋・金彩画囲屏一対・精製雅扇二百把・囲屏紙五千張・紅銅五百觔・白剛錫五百觔を装載し、御前に恭進す。復た、金粉匣一合―共に重さ八両・銀粉匣一合―共に重さ七両三銭・細嫩土蕉布二十疋・細嫩花蕉布二十疋・細嫩土夏布四十疋・精製雅扇八十把を備え、皇后の前に進奉し、虔みて賀敬を陳ぶるの外、肅みて香燭・祭品等の物を貢し、代儀の白銀一百両と共に、恭しく世宗憲皇帝の在天の鑑を邀え、以て微忱を効す。已上の方物を解運し、前みて福建等処承宣布政使司に詣りて投逓し、起送して京に赴かしむ。
拠の差去せる員役は、並えて文憑無ければ、誠に所在の官軍の盤阻して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発し、以て通行に便ならしむべし。此れが為に王府、礼字第三十号の半印勘合符文を給し、都通事楊大壮等に附して収執して前去せしむ。如し経過の関津、把隘の去処及び沿海の巡哨官軍の験実に遇えば、即便に放行し、留難して遅悞するを得る毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開す、京に赴く
正使王舅一員 向啓猷 人伴二十名
副使正議大夫一員 金震 人伴一十三名
使者一員 夏瑞龍 人伴六名
都通事一員 楊大壮 人伴五名
在船都通事一員 金振 人伴四名
在船使者二員 童張秀/温思義 人伴八名
在留通事一員 鄭師谷 人伴五名
王舅通事一員 魏開祖 人伴二名
管船夥長・直庫二名 毛如苞 慶続照
水梢共に六十二名
右の符文は都通事楊大壮等に附し、此れを准ず
乾隆二年(一七三七)十二月十一日
注(1)蕞爾 小さいさま。ここでは琉球をさす。
(2)童張秀 乾隆二年の在船使者。
(3)温思義 山城親雲上紹首(『家譜(二)』三四頁、魏宗紀の譜)。乾隆二年の在船使者。『宝案』では乾隆八年の使者(巻二六)としても名がみえる。
(4)鄭師谷 康煕三十八~乾隆十三年(一六九九~一七四八)。久米村系鄭氏十四世(登川家)。登川親雲上。雍正四年に読書習礼のために福建に渡る。乾隆二年の慶賀・進香および接貢の存留通事となる。十一年に朝京都通事として北京に赴き、帰国直前に福建にて急逝した。家譜には孫の鄭択中が嘉慶二十二年に建てた墓碑が記されている(『家譜(二)』六〇六頁)。
(5)毛如苞 康煕四十七~乾隆二十六年(一七〇八~六一)。久米村系毛氏五世(与世山家)。安仁屋親雲上。乾隆二十四年に正議大夫に陞る。乾隆二年に慶賀船の管船夥長(総管)、十五年の進貢の在船通事、二十年に冊封謝恩の朝京都通事となる(『家譜(二)』七一三頁)。