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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-11-08 国王尚敬の、進貢のため耳目官毛廷輔等を遣わすむねの符文(一七二〇、九、二七)
琉球国中山王尚(敬)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次なり。茲に康煕五十九年の貢期に当り、特に耳目官毛廷輔・正議大夫梁得宗・都通事毛世安等を遣わし、表・咨を齎捧し海船二隻に坐駕して官伴・水梢を率領せしむ。毎船に均幇する上下の員役は共に二百員名を過ぎず。常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船は義字第一百一十三号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は義字第一百一十四号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前んで福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去する員役は文憑無ければ、各処の官軍の阻留するを恐る。此の為に理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。今、王府の義字第一百一十二号半印勘合の符文を給して都通事毛世安等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 京に赴く
耳目官一員 毛廷輔 人伴一十二名
正議大夫 一員 梁得宗 人伴一十二名
都通事 一員 毛世安 人伴七名
在船都通事 二員 魏鳳/金震 人伴八名
在船使者 四員 向弘烈 浦啓瑞/翁能寛 馬文彬 人伴一十六名
存留通事 一員 鄭国柱 人伴六名
在船通事 一員 陳得隆 人伴四名
管船火長・直庫 四名 紅元燦 陳志広/鄭国績 平心
右の符文は都通事毛世安等に付す。此れを准ず
康煕五十九年(一七二〇)九月二十七日給す
注(1)向弘烈 生没年不詳。真玉橋親方朝近(『球陽』巻一四)。
(2)馬文彬 生没年不詳。首里系馬氏七世。板良敷親雲上良連か(『氏集』、『球陽』巻一一)。なお『家譜(二)』三一三頁にも関連する記事がある。
(3)鄭国柱 生没年不詳。屋部親雲上。正議大夫に陞る。
(4)陳得隆 一六八六-一七四七年。久米村陳氏(仲本家)十世。仲本通事親雲上(『家譜(二)』四九二頁)。
(5)紅元燦 一六九八-一七二八年。久米村紅氏(和宇慶家)十一世(『家譜(二)』二〇八頁)。
(6)鄭国績 生没年不詳。『家譜(二)』三一頁、魏鸞の譜に赤嶺通事として名があり同一人か。
琉球国中山王尚(敬)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次なり。茲に康煕五十九年の貢期に当り、特に耳目官毛廷輔・正議大夫梁得宗・都通事毛世安等を遣わし、表・咨を齎捧し海船二隻に坐駕して官伴・水梢を率領せしむ。毎船に均幇する上下の員役は共に二百員名を過ぎず。常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔を装運して両船に分載す。一船は義字第一百一十三号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は義字第一百一十四号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前んで福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き、聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去する員役は文憑無ければ、各処の官軍の阻留するを恐る。此の為に理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。今、王府の義字第一百一十二号半印勘合の符文を給して都通事毛世安等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 京に赴く
耳目官一員 毛廷輔 人伴一十二名
正議大夫 一員 梁得宗 人伴一十二名
都通事 一員 毛世安 人伴七名
在船都通事 二員 魏鳳/金震 人伴八名
在船使者 四員 向弘烈 浦啓瑞/翁能寛 馬文彬 人伴一十六名
存留通事 一員 鄭国柱 人伴六名
在船通事 一員 陳得隆 人伴四名
管船火長・直庫 四名 紅元燦 陳志広/鄭国績 平心
右の符文は都通事毛世安等に付す。此れを准ず
康煕五十九年(一七二〇)九月二十七日給す
注(1)向弘烈 生没年不詳。真玉橋親方朝近(『球陽』巻一四)。
(2)馬文彬 生没年不詳。首里系馬氏七世。板良敷親雲上良連か(『氏集』、『球陽』巻一一)。なお『家譜(二)』三一三頁にも関連する記事がある。
(3)鄭国柱 生没年不詳。屋部親雲上。正議大夫に陞る。
(4)陳得隆 一六八六-一七四七年。久米村陳氏(仲本家)十世。仲本通事親雲上(『家譜(二)』四九二頁)。
(5)紅元燦 一六九八-一七二八年。久米村紅氏(和宇慶家)十一世(『家譜(二)』二〇八頁)。
(6)鄭国績 生没年不詳。『家譜(二)』三一頁、魏鸞の譜に赤嶺通事として名があり同一人か。