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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
2-03-07 国王尚貞の、進貢のため耳目官温開栄等を遣わすむねの符文(一七〇四、一〇、一二)
琉球国中山王尚(貞)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次なり。茲に康煕四十三年の貢期に当り、特に耳目官温開栄・正議大夫蔡肇功・都通事阮璋等を遣わし、表・咨を齎捧し海船二隻に坐駕して官伴・水梢を率領せしむ。毎船に均幇する上下の員役は共に二百員名を過ぎず。常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔等の方物を装運して両船に分載す。一船は義字第七十八号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は義字第七十九号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前んで福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去する員役は並びに文憑無ければ、誠に所在の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此の為に王府、今、義字第七十七号半印勘合の符文を給して都通事阮璋等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば即便に放行し、留難し遅悞するを得しむる毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 京に赴く
耳目官一員 温開栄 人伴一十二名
正議大夫一員 蔡肇功 人伴一十二名
都通事一員 阮璋 人伴七名
在船都通事二員 毛文栄/阮維徳 人伴八名
在船使者四員 夏降安・毛温良/翁能寛・東是泊 人伴十六名
存留通事一員 蔡壎 人伴六名
在船通事一員 鄭士絢 人伴四名
管船火長・直庫四名 紅士顕・鄭良元/松永茂・長立功
右の符文は都通事阮璋等に付す。此れを准ず
康煕四十三年(一七〇四)十月十二日給す
注(1)毛文栄 毛文英の誤か。〔〇三-〇八〕では毛文英。毛文英は、一六五三-一七一二年。久米村毛氏(奥間家)三世。奥間里之子親雲上。都通事。この進貢の帰途、風に遭い土佐に漂着、康煕四十五年に帰国した(『家譜(二)』七三三頁)。
(2)東是泊 〔〇三-〇九〕では東是伯とす。
(3)蔡壎 一六八一-一七一四年。久米村蔡氏(儀間家)十二世。儀間親雲上。都通事(『家譜(二)』二六四頁)。
(4)鄭士絢 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六四頁)。
(5)紅士顕 一六八三-一七三三年。久米村紅氏(和宇慶家)十一世。中議大夫。冊封使の迎接や進貢のためたびたび清に渡る(『家譜(二)』二〇六頁)。
琉球国中山王尚(貞)、進貢の事の為にす。
照得するに、敝国は世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年一次なり。茲に康煕四十三年の貢期に当り、特に耳目官温開栄・正議大夫蔡肇功・都通事阮璋等を遣わし、表・咨を齎捧し海船二隻に坐駕して官伴・水梢を率領せしむ。毎船に均幇する上下の員役は共に二百員名を過ぎず。常貢の煎熟硫黄一万二千六百觔・紅銅三千觔・煉熟白剛錫一千觔等の方物を装運して両船に分載す。一船は義字第七十八号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、一船は義字第七十九号にして煎熟硫黄六千三百觔・紅銅一千五百觔・煉熟白剛錫五百觔を装載し、前んで福建等処承宣布政使司に至りて投納し、起送して京に赴き聖禧を叩祝せんとす。
所拠の差去する員役は並びに文憑無ければ、誠に所在の官軍の阻留して便ならざるを恐る。此の為に王府、今、義字第七十七号半印勘合の符文を給して都通事阮璋等に付し収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば即便に放行し、留難し遅悞するを得しむる毋かれ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 京に赴く
耳目官一員 温開栄 人伴一十二名
正議大夫一員 蔡肇功 人伴一十二名
都通事一員 阮璋 人伴七名
在船都通事二員 毛文栄/阮維徳 人伴八名
在船使者四員 夏降安・毛温良/翁能寛・東是泊 人伴十六名
存留通事一員 蔡壎 人伴六名
在船通事一員 鄭士絢 人伴四名
管船火長・直庫四名 紅士顕・鄭良元/松永茂・長立功
右の符文は都通事阮璋等に付す。此れを准ず
康煕四十三年(一七〇四)十月十二日給す
注(1)毛文栄 毛文英の誤か。〔〇三-〇八〕では毛文英。毛文英は、一六五三-一七一二年。久米村毛氏(奥間家)三世。奥間里之子親雲上。都通事。この進貢の帰途、風に遭い土佐に漂着、康煕四十五年に帰国した(『家譜(二)』七三三頁)。
(2)東是泊 〔〇三-〇九〕では東是伯とす。
(3)蔡壎 一六八一-一七一四年。久米村蔡氏(儀間家)十二世。儀間親雲上。都通事(『家譜(二)』二六四頁)。
(4)鄭士絢 生没年不詳。久米村鄭氏(与座家)五世(『家譜(二)』六六四頁)。
(5)紅士顕 一六八三-一七三三年。久米村紅氏(和宇慶家)十一世。中議大夫。冊封使の迎接や進貢のためたびたび清に渡る(『家譜(二)』二〇六頁)。