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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-43-08 王相懐機より三仏斉国旧港の僧亜剌呉あて、来琉した使者を護送し、交易を請う書簡(一四三〇、一〇、一八)
琉球国王相懐機、端粛して書を三仏斉国旧港の僧亜剌呉 閣下に奉る。
宣徳四年(一四二九)六月内より、貴国の遣来せる財賦察陽等、本国の船隻に附搭して箋文・礼物を齎捧して彼に到るを蒙る。此れを蒙る。本国の人船、多く管待し買売を寛容し、貴国の奇異の罕物を承恵し、并びに卑爵に奇物を賜うを蒙る。速やかに類進を行う。
茲に来使の啓見するに及び、王の令旨を敬奉するに、多く厚意に感ず。看得するに、人船は又礼物を送る。便ち来使に衣服を賞し、好着しく管待し、就ち礼物を備えて速やかに回謝を行い、遣使して船を駕し護送して回国せしめよ、とあり。此れを敬む。敬遵するを除く外、本より随即に遣船せんと欲するも、奈んせん船隻を欠きて以て延に至る。
今、特に正使歩馬結制等を遣わし礼物を管送して人船を領駕し、来使の蔡陽泰を護送して回国せしむ。就ち尺楮を備えて前詣し、拝謝して少しく遠意を伸ぶ。万望むらくは収納せよ。四海一家を煩念う。今、去く人、時に磁器等の物を装載す。煩為わくは買売を寛容し、風信に赶趁して回国せしめんことを。今、礼物を将て後に開坐す。草字不宣。伏して照鑑を乞う。
今開す
馬二匹 閃色段十匹
段五匹 羅三匹
宣徳五年(一四三〇)十月十八日 王相懐機
注*本文書は本目娘あての〔四三-〇九〕と同時に出された。受信者を複数にしたもので、旧港に関わる文書は、これ以後、受信・発信とも複数となっている。〔四三-一〇〕注(3)参照。
(1)三仏斉国 『歴代宝案』の時期の「三仏斉」は『瀛涯勝覧』の冒頭の一行にあるように、スマトラのパレンバンの古名と理解するのがもっとも適切であろう。パレンバンは、七世紀後半から海上貿易で栄えたシュリーヴィジャヤ国の首都であった。唐代のシュリーヴィジャヤは漢字で室利仏逝などと表現されていた。宋代の記録では、九六〇年以後の三十年間に三仏斉国の朝貢が十数回もあり、この「三仏斉」はシュリーヴイジャヤのことと考えられている。十一世紀後半以後になると「三仏斉詹卑国」「三仏斉注輦国」などの表現があり、また一二二五年になった『諸蕃志』は三仏斉の属国十四をあげるなど「三仏斉」の呼称はある変化をとげて使用されている。これらをめぐって、シュリーヴィジャヤの中心地がパレンバンからジャンビに移ったことなどを指摘し、またその周辺の事情の変遷について考察した研究に、桑田六郎「三仏斉考 附補考」(『南方人文研究所論叢』第一輯、台北、一九四五年)や、Wolters,O.W.1970.The fall of Srivijaya in Malay history.New York.などがある。一方で、三仏斉をシュリーヴィジャヤの後身とは考えない最近の試論もある(深見純生「三仏斉の再検討-マラッカ海峡古代史研究の視座転換-」(『東南アジア研究』二十五巻二号、一九八七年)。
明代に入って、洪武三年(一三七〇)よりの三十年間に『明実録』には「三仏斉国」の朝貢の記事が数度あらわれる。前記のウォルターズは、それらはパレンバンやジャンビなどにあった土着の勢力がともに三仏斉を名乗って朝貢したと説明している。一三九七年ごろまでに、それらの「三仏斉国」はジャワのマジャパヒト国によって滅ぼされた。そのころから、パレンバンに僑居する中国人集団が独自の勢力として出現する。
(2)旧港 パレンバンの中国式呼称。パレンバンは、スマトラ島南東部の北岸に流れ出るムシ川河畔にある港市。海岸より南方へおよそ百キロほどさかのぼるとムシ川は湾曲して西へ向かい、ここでコムリン川やオガン川もムシに合流するが、そのあたりのムシ川北岸の僅かに高い土地を背にして町がある。町の海抜は二、三メートルにすぎず、海岸からパレンバンまでに満潮線を越える高さの土地はほんの僅かしかない。雨季(琉球船が入った季節)にはとりわけ海から奥地への船舶入港が容易であった。
十五世紀前半に旧港にあった中国人の集団については『明実録』『瀛涯勝覧』などによって知られるが、宣徳三年(一四二八)より正統五年(一四四〇)に至る『歴代宝案』の十一の文書は特に重要な史料である。永楽三年(一四〇五)頃の旧港には、広東出身の梁道明を首領として広東・福建出身の数千の華僑が居住しており、またこれと対立する陳祖義を中心とする別の華僑勢力もあった。永楽帝の招撫に応じてそれぞれ来貢したが、鄭和の第一次出使の艦隊が旧港に寄港した際、陳祖義らは海賊として討伐され、梁道明の後を受けたと思われる施進卿が明によって「旧港宣慰使」に任命されている(〔四三-〇四〕注(1)和田論文を参照)。旧港の華僑は明へ朝貢したほか、その船は日本方面へも来航した(〔四三-〇四〕および同文書の注(2)を参照)。『歴代宝案』の〔四三-二三〕を最後に、施氏一族を指導者とする旧港の華僑社会のことは記録が残らない。パレンバン地方に隣国ジャワ(マジャパヒト朝)の圧力が及んだためか、と前掲の和田論文は指摘する。海上貿易においても、ジャワ北岸諸港が栄え、一方マラッカが勢力を確立して、旧港の地位は衰えたもののようである。
(3)財賦 貿易船の乗員の職掌名として『東西洋考』巻九、舟師考に「毎舶舶主為政、…亜此則財副一人、爰司掌記」とあり、また西川如見『増補華夷通商考』巻二に「財附(ツアイフウ)荷物商売諸事ノ日記算用ヲ主ドル役ナリ」とあり、財副、財附ともに船上の財務担当で船主(舶主)に次ぐ位置である。
(4)察陽 後出の蔡陽泰に同じで、どちらかが誤記であろう。
(5)本国の船隻 宣徳三年に〔四〇-〇六〕〔四二-〇一〕〔四三-〇四〕を旧港に持参した琉球船。
(6)彼 相手を中心にした表現で、琉球をさす。
(7)類進 一まとめにして進上する、の意か。
(8)来使 察陽等をさす。
(9)王 琉球国王。その令旨は「多く」から「回国せしめよ」まで。
琉球国王相懐機、端粛して書を三仏斉国旧港の僧亜剌呉 閣下に奉る。
宣徳四年(一四二九)六月内より、貴国の遣来せる財賦察陽等、本国の船隻に附搭して箋文・礼物を齎捧して彼に到るを蒙る。此れを蒙る。本国の人船、多く管待し買売を寛容し、貴国の奇異の罕物を承恵し、并びに卑爵に奇物を賜うを蒙る。速やかに類進を行う。
茲に来使の啓見するに及び、王の令旨を敬奉するに、多く厚意に感ず。看得するに、人船は又礼物を送る。便ち来使に衣服を賞し、好着しく管待し、就ち礼物を備えて速やかに回謝を行い、遣使して船を駕し護送して回国せしめよ、とあり。此れを敬む。敬遵するを除く外、本より随即に遣船せんと欲するも、奈んせん船隻を欠きて以て延に至る。
今、特に正使歩馬結制等を遣わし礼物を管送して人船を領駕し、来使の蔡陽泰を護送して回国せしむ。就ち尺楮を備えて前詣し、拝謝して少しく遠意を伸ぶ。万望むらくは収納せよ。四海一家を煩念う。今、去く人、時に磁器等の物を装載す。煩為わくは買売を寛容し、風信に赶趁して回国せしめんことを。今、礼物を将て後に開坐す。草字不宣。伏して照鑑を乞う。
今開す
馬二匹 閃色段十匹
段五匹 羅三匹
宣徳五年(一四三〇)十月十八日 王相懐機
注*本文書は本目娘あての〔四三-〇九〕と同時に出された。受信者を複数にしたもので、旧港に関わる文書は、これ以後、受信・発信とも複数となっている。〔四三-一〇〕注(3)参照。
(1)三仏斉国 『歴代宝案』の時期の「三仏斉」は『瀛涯勝覧』の冒頭の一行にあるように、スマトラのパレンバンの古名と理解するのがもっとも適切であろう。パレンバンは、七世紀後半から海上貿易で栄えたシュリーヴィジャヤ国の首都であった。唐代のシュリーヴィジャヤは漢字で室利仏逝などと表現されていた。宋代の記録では、九六〇年以後の三十年間に三仏斉国の朝貢が十数回もあり、この「三仏斉」はシュリーヴイジャヤのことと考えられている。十一世紀後半以後になると「三仏斉詹卑国」「三仏斉注輦国」などの表現があり、また一二二五年になった『諸蕃志』は三仏斉の属国十四をあげるなど「三仏斉」の呼称はある変化をとげて使用されている。これらをめぐって、シュリーヴィジャヤの中心地がパレンバンからジャンビに移ったことなどを指摘し、またその周辺の事情の変遷について考察した研究に、桑田六郎「三仏斉考 附補考」(『南方人文研究所論叢』第一輯、台北、一九四五年)や、Wolters,O.W.1970.The fall of Srivijaya in Malay history.New York.などがある。一方で、三仏斉をシュリーヴィジャヤの後身とは考えない最近の試論もある(深見純生「三仏斉の再検討-マラッカ海峡古代史研究の視座転換-」(『東南アジア研究』二十五巻二号、一九八七年)。
明代に入って、洪武三年(一三七〇)よりの三十年間に『明実録』には「三仏斉国」の朝貢の記事が数度あらわれる。前記のウォルターズは、それらはパレンバンやジャンビなどにあった土着の勢力がともに三仏斉を名乗って朝貢したと説明している。一三九七年ごろまでに、それらの「三仏斉国」はジャワのマジャパヒト国によって滅ぼされた。そのころから、パレンバンに僑居する中国人集団が独自の勢力として出現する。
(2)旧港 パレンバンの中国式呼称。パレンバンは、スマトラ島南東部の北岸に流れ出るムシ川河畔にある港市。海岸より南方へおよそ百キロほどさかのぼるとムシ川は湾曲して西へ向かい、ここでコムリン川やオガン川もムシに合流するが、そのあたりのムシ川北岸の僅かに高い土地を背にして町がある。町の海抜は二、三メートルにすぎず、海岸からパレンバンまでに満潮線を越える高さの土地はほんの僅かしかない。雨季(琉球船が入った季節)にはとりわけ海から奥地への船舶入港が容易であった。
十五世紀前半に旧港にあった中国人の集団については『明実録』『瀛涯勝覧』などによって知られるが、宣徳三年(一四二八)より正統五年(一四四〇)に至る『歴代宝案』の十一の文書は特に重要な史料である。永楽三年(一四〇五)頃の旧港には、広東出身の梁道明を首領として広東・福建出身の数千の華僑が居住しており、またこれと対立する陳祖義を中心とする別の華僑勢力もあった。永楽帝の招撫に応じてそれぞれ来貢したが、鄭和の第一次出使の艦隊が旧港に寄港した際、陳祖義らは海賊として討伐され、梁道明の後を受けたと思われる施進卿が明によって「旧港宣慰使」に任命されている(〔四三-〇四〕注(1)和田論文を参照)。旧港の華僑は明へ朝貢したほか、その船は日本方面へも来航した(〔四三-〇四〕および同文書の注(2)を参照)。『歴代宝案』の〔四三-二三〕を最後に、施氏一族を指導者とする旧港の華僑社会のことは記録が残らない。パレンバン地方に隣国ジャワ(マジャパヒト朝)の圧力が及んだためか、と前掲の和田論文は指摘する。海上貿易においても、ジャワ北岸諸港が栄え、一方マラッカが勢力を確立して、旧港の地位は衰えたもののようである。
(3)財賦 貿易船の乗員の職掌名として『東西洋考』巻九、舟師考に「毎舶舶主為政、…亜此則財副一人、爰司掌記」とあり、また西川如見『増補華夷通商考』巻二に「財附(ツアイフウ)荷物商売諸事ノ日記算用ヲ主ドル役ナリ」とあり、財副、財附ともに船上の財務担当で船主(舶主)に次ぐ位置である。
(4)察陽 後出の蔡陽泰に同じで、どちらかが誤記であろう。
(5)本国の船隻 宣徳三年に〔四〇-〇六〕〔四二-〇一〕〔四三-〇四〕を旧港に持参した琉球船。
(6)彼 相手を中心にした表現で、琉球をさす。
(7)類進 一まとめにして進上する、の意か。
(8)来使 察陽等をさす。
(9)王 琉球国王。その令旨は「多く」から「回国せしめよ」まで。