{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
1-41-02 琉球国王より蘇門答剌国あて、達古是等を遣わして速やかな交易を請う咨(一四六三、八、四)
琉球国王、謹んで蘇門答剌国王殿下に咨す。
曩者、音問往来し、儀物交互せるは睦隣の要に非ざる無きなり。邇ごろ聞くに、賢王、恩は一国に加え、利は四隣に及び、欣羨の至りなり。且つ、貴国と敝邦と交通すること自ら他の比に非ざるもの有り。今、特に正使達古是等を遣わし、礼物を齎して以て寸謝を申ぶ。伏して希わくは、笑領すれば幸と為さん。亦た瑣砕の物貨有りて来船に装載し、殊方の土産を貿易す。乞う、属に令行して買売を作成し、早やかに回帰するを与して利便ならしめんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今礼物を開す
緑雲段二匹 柳黄三匹
青段二十匹 腰刀五把
扇三十把 大青盤二十個
小青盤四百個 青碗二千個
右、蘇門答剌国に咨す
天順七年(一四六三)八月初四日
呉羅麻魯 安字号船
正使達古是、副使蒲嘉麻・衛巴路、通事王
元を差わす
注(1)蘇門答剌 サムドラ=パサイ。スマトラ島北西岸のパサイ川をはさんで左岸のやや上流のサムドラを故地とし、まもなく王権の中心地を右岸の河口近くのパサイに移したので、この名でよばれる。十四-十五世紀にかけて成立したといわれる現地の歴史書『ヒカヤット・ラジャラジャ・パサイ』(Hill,A.H.1960.“Hikayat Raja-raja Pasai.a revised romanized version of Raffles MS 67, together with an English translation”JMBRAS,vol.33-2.215pp.)の伝説的な記述によれば、イスラム教に改宗した国王マリク・アル・サレがサムドラを建設し、その子の世代にパサイがつくられたという。一二九七年に死んだこの国王の墓をはじめ、支配者たちの幾つかの墓石が発見されてサムドラ=パサイの年代やその地について知られるようになったものの、その初期の根拠地については、パサンガン河畔やサマランガなど諸説がある。やや西を流れるパサンガン川はスマトラ島でもっとも長く広い川で、奥地深くへ船で入って後背地の生産物を河口に運ぶのに便利であり、さらに西のサマランガの港も、サムドラ=パサイの版図にあり、その繁栄に寄与したであろう。
これより先、中国の史料では至元十九年(一二八二)、二十二年、二十三年に蘇木都速、蘇木達、速木都剌、蘇木都剌、などの表記で朝貢した国があり(いずれも『元史』本紀)サムドラと考えられ、また明代では『瀛涯勝覧』の蘇門答剌の記事がエピソードに満ちている。永楽三年(一四〇三)より成化十六年(一四八〇)に至る頻繁な蘇門答剌の朝貢は『明実録』にある。
十三世紀末から十四世紀にかけてのサムドラ=パサイは、マルコ・ポーロやイブン・バツータ等も記録を残すように、中国とインド方面をむすぶ航路の寄航地で、風を待ち備品や食糧を入手するところであったらしい。その後、交易市場としての繁栄の時期をむかえるが、十五世紀にマラッカが勃興すると、サムドラ=パサイはただの胡椒の積出し地となった。北西スマトラの胡椒はマラバル産にくらべて質が劣るが、中国方面へ多量に運ばれた。『歴代宝案』の蘇門答剌あての文書はこの時期のものである。一四六三、六七、六八年の三件の文書が残っているが、最初の文書の内容により、これ以前にも琉球との交渉があったことがうかがわれる。
一五二〇年代に、サムドラ=パサイはスマトラ島最北端に新興したアチェーの支配下に入った。
(2)作成 助けて成功させる。よいようにはからう。
琉球国王、謹んで蘇門答剌国王殿下に咨す。
曩者、音問往来し、儀物交互せるは睦隣の要に非ざる無きなり。邇ごろ聞くに、賢王、恩は一国に加え、利は四隣に及び、欣羨の至りなり。且つ、貴国と敝邦と交通すること自ら他の比に非ざるもの有り。今、特に正使達古是等を遣わし、礼物を齎して以て寸謝を申ぶ。伏して希わくは、笑領すれば幸と為さん。亦た瑣砕の物貨有りて来船に装載し、殊方の土産を貿易す。乞う、属に令行して買売を作成し、早やかに回帰するを与して利便ならしめんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今礼物を開す
緑雲段二匹 柳黄三匹
青段二十匹 腰刀五把
扇三十把 大青盤二十個
小青盤四百個 青碗二千個
右、蘇門答剌国に咨す
天順七年(一四六三)八月初四日
呉羅麻魯 安字号船
正使達古是、副使蒲嘉麻・衛巴路、通事王
元を差わす
注(1)蘇門答剌 サムドラ=パサイ。スマトラ島北西岸のパサイ川をはさんで左岸のやや上流のサムドラを故地とし、まもなく王権の中心地を右岸の河口近くのパサイに移したので、この名でよばれる。十四-十五世紀にかけて成立したといわれる現地の歴史書『ヒカヤット・ラジャラジャ・パサイ』(Hill,A.H.1960.“Hikayat Raja-raja Pasai.a revised romanized version of Raffles MS 67, together with an English translation”JMBRAS,vol.33-2.215pp.)の伝説的な記述によれば、イスラム教に改宗した国王マリク・アル・サレがサムドラを建設し、その子の世代にパサイがつくられたという。一二九七年に死んだこの国王の墓をはじめ、支配者たちの幾つかの墓石が発見されてサムドラ=パサイの年代やその地について知られるようになったものの、その初期の根拠地については、パサンガン河畔やサマランガなど諸説がある。やや西を流れるパサンガン川はスマトラ島でもっとも長く広い川で、奥地深くへ船で入って後背地の生産物を河口に運ぶのに便利であり、さらに西のサマランガの港も、サムドラ=パサイの版図にあり、その繁栄に寄与したであろう。
これより先、中国の史料では至元十九年(一二八二)、二十二年、二十三年に蘇木都速、蘇木達、速木都剌、蘇木都剌、などの表記で朝貢した国があり(いずれも『元史』本紀)サムドラと考えられ、また明代では『瀛涯勝覧』の蘇門答剌の記事がエピソードに満ちている。永楽三年(一四〇三)より成化十六年(一四八〇)に至る頻繁な蘇門答剌の朝貢は『明実録』にある。
十三世紀末から十四世紀にかけてのサムドラ=パサイは、マルコ・ポーロやイブン・バツータ等も記録を残すように、中国とインド方面をむすぶ航路の寄航地で、風を待ち備品や食糧を入手するところであったらしい。その後、交易市場としての繁栄の時期をむかえるが、十五世紀にマラッカが勃興すると、サムドラ=パサイはただの胡椒の積出し地となった。北西スマトラの胡椒はマラバル産にくらべて質が劣るが、中国方面へ多量に運ばれた。『歴代宝案』の蘇門答剌あての文書はこの時期のものである。一四六三、六七、六八年の三件の文書が残っているが、最初の文書の内容により、これ以前にも琉球との交渉があったことがうかがわれる。
一五二〇年代に、サムドラ=パサイはスマトラ島最北端に新興したアチェーの支配下に入った。
(2)作成 助けて成功させる。よいようにはからう。