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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-41-01 琉球国王より満剌加国あて、呉実堅等を遣わして速やかな交易を請う咨(一四六三、八、四)
琉球国王、満剌加国王殿下に咨す。
蓋し聞く、交聘睦隣は為邦の要にして、貨財生殖は富国の基なり。邇ごろ賢王の起居の康裕なるを審らかにし、深く以て慰と為す。且つ敝邦と貴国と西よりし東よりすと云うと雖も、礼信の往来、未だ嘗て少しも替らず。曩の歳復た厚恵を蒙り、懐に銘刻す。茲者特に正使呉実堅等を遣わし、礼物を齎し詣前し酬献せしめて以て寸忱を叙ぶ。伏して少留するを希う。亦た微貨有り、載装前来し殊方の土産を貿易す。煩わくは属に令行して早やかに買売を与し、風時に赶趁して回還し利便ならしめんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今礼物を開す
色段五匹 青段二十匹
腰刀五把 扇三十把
大青盤二十個 小青盤四百個
青碗二千個
右、満剌加国に咨す
天順七年(一四六三)八月初四日
控之羅麻魯 恭字号
正使呉実堅、副使那嘉・明泰、通事田泰・鄭傑を差わす
注(1)満剌加国 マラッカは、マレー半島西岸の港市で、「満剌加」はその漢字表記である。十五世紀初頭ごろまでにパレンバン出身の王族が建国した。タイのアユタヤ朝の度重なる攻撃に対し、明朝の対外積極策を好機としてこれに頼って撃退した。マラッカについては『明実録』に関連記事が多くある。マラッカ海峡に面した国際貿易港として経済的発展を遂げ、強大な王国となった。
国王と在位年代について、和田久徳氏は、①パラメーシュヴァラ Paramesvara(一四〇一以前~一四一三/一四)②ムガト=イスカンダル=シャー Megat Iskandar Shah(一四一三/一四~一四二三)③シュリー=マハーラージャ Sri Maharaja(一四二三~一四四四)④シュリー=パラメーシュヴァラ=デーヴァ=シャー Sri Paramesvara Deva Shah(一四四四~一四四五)⑤ムザッファル=シャー Muzaffar Shah(一四四五~一四五六/五九)⑥マンスール=シャー Mansur Shah(一四五六/五九~一四七七)⑦アラーウッディーン 'Ala'u'd-din(一四七七~一四八〇頃)⑧マフムード=シャー Mahmud Shah(一四八〇頃~一五一一)としている。これに対し生田滋氏は、①パラメスワラ ②ムガット・イスカンダル・シャー ③スリ・マハラジャ ④スリ・パラメスワラ・デーヴァ・シャー、称号を改めてムザファール・シャー ⑤マンスール・シャー ⑥アラー・ウッ・ディーン ⑦マフムド・シャー、としている。
マラッカは、ムザファール=シャーのころに本格的にイスラム化し、東南アジアのイスラム化の基地となった。一五一一年、ポルトガルの占領により王国時代が終わった。文献として、トメ・ピレス『東方諸国記』生田滋他訳注(岩波書店、一九六六年〔特に三七七-四九八頁、五七五-五九六頁〕)、生田滋「マラッカ王国における国家形成の過程」(山本達郎編『東南アジアにおける権力構造の史的考察』竹内書店、一九六九年)、和田久徳「モスレム国家マラッカの成立」(『東洋史研究』三四-二、一九七五年)、同「マラッカ国諸王の在位年代」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二九、一九七六年)、等がある。
(2)為邦 くにを守ること。
(3)曩の歳復た厚恵を蒙り 『歴代宝案』は全体として正統八年(一四四三)から天順四年(一四六〇)までの文書を欠いている。しかし本文書以前に、琉球とマラッカ間に頻繁な往来があったと思われる。例えばトメ・ピレス『東方諸国記』は、マラッカ王ムザッファル=シャー(注(1)参照)の時期にレキオ人と関係が緊密であったことを記す。
(4)控之羅麻魯 こしらまる。船の琉球名については〔一六-二一〕注(11)参照。
琉球国王、満剌加国王殿下に咨す。
蓋し聞く、交聘睦隣は為邦の要にして、貨財生殖は富国の基なり。邇ごろ賢王の起居の康裕なるを審らかにし、深く以て慰と為す。且つ敝邦と貴国と西よりし東よりすと云うと雖も、礼信の往来、未だ嘗て少しも替らず。曩の歳復た厚恵を蒙り、懐に銘刻す。茲者特に正使呉実堅等を遣わし、礼物を齎し詣前し酬献せしめて以て寸忱を叙ぶ。伏して少留するを希う。亦た微貨有り、載装前来し殊方の土産を貿易す。煩わくは属に令行して早やかに買売を与し、風時に赶趁して回還し利便ならしめんことを。須らく咨に至るべき者なり。
今礼物を開す
色段五匹 青段二十匹
腰刀五把 扇三十把
大青盤二十個 小青盤四百個
青碗二千個
右、満剌加国に咨す
天順七年(一四六三)八月初四日
控之羅麻魯 恭字号
正使呉実堅、副使那嘉・明泰、通事田泰・鄭傑を差わす
注(1)満剌加国 マラッカは、マレー半島西岸の港市で、「満剌加」はその漢字表記である。十五世紀初頭ごろまでにパレンバン出身の王族が建国した。タイのアユタヤ朝の度重なる攻撃に対し、明朝の対外積極策を好機としてこれに頼って撃退した。マラッカについては『明実録』に関連記事が多くある。マラッカ海峡に面した国際貿易港として経済的発展を遂げ、強大な王国となった。
国王と在位年代について、和田久徳氏は、①パラメーシュヴァラ Paramesvara(一四〇一以前~一四一三/一四)②ムガト=イスカンダル=シャー Megat Iskandar Shah(一四一三/一四~一四二三)③シュリー=マハーラージャ Sri Maharaja(一四二三~一四四四)④シュリー=パラメーシュヴァラ=デーヴァ=シャー Sri Paramesvara Deva Shah(一四四四~一四四五)⑤ムザッファル=シャー Muzaffar Shah(一四四五~一四五六/五九)⑥マンスール=シャー Mansur Shah(一四五六/五九~一四七七)⑦アラーウッディーン 'Ala'u'd-din(一四七七~一四八〇頃)⑧マフムード=シャー Mahmud Shah(一四八〇頃~一五一一)としている。これに対し生田滋氏は、①パラメスワラ ②ムガット・イスカンダル・シャー ③スリ・マハラジャ ④スリ・パラメスワラ・デーヴァ・シャー、称号を改めてムザファール・シャー ⑤マンスール・シャー ⑥アラー・ウッ・ディーン ⑦マフムド・シャー、としている。
マラッカは、ムザファール=シャーのころに本格的にイスラム化し、東南アジアのイスラム化の基地となった。一五一一年、ポルトガルの占領により王国時代が終わった。文献として、トメ・ピレス『東方諸国記』生田滋他訳注(岩波書店、一九六六年〔特に三七七-四九八頁、五七五-五九六頁〕)、生田滋「マラッカ王国における国家形成の過程」(山本達郎編『東南アジアにおける権力構造の史的考察』竹内書店、一九六九年)、和田久徳「モスレム国家マラッカの成立」(『東洋史研究』三四-二、一九七五年)、同「マラッカ国諸王の在位年代」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二九、一九七六年)、等がある。
(2)為邦 くにを守ること。
(3)曩の歳復た厚恵を蒙り 『歴代宝案』は全体として正統八年(一四四三)から天順四年(一四六〇)までの文書を欠いている。しかし本文書以前に、琉球とマラッカ間に頻繁な往来があったと思われる。例えばトメ・ピレス『東方諸国記』は、マラッカ王ムザッファル=シャー(注(1)参照)の時期にレキオ人と関係が緊密であったことを記す。
(4)控之羅麻魯 こしらまる。船の琉球名については〔一六-二一〕注(11)参照。