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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-34-04 世子尚質の、慶賀使を接回するために遣わす都通事田時盛等の名簿(一六五四、四、一)
琉球国中山王世子尚(質)、接回、慶賀の事の為にす。
差遣する官員の姓名は後に開す。
都通事一員 田時盛
使者二員 馬知記 林栄
通事一員 阮起凰
管船火長・直庫二名 陳結華 游那
順治十一年(一六五四)四月初一日
注*この船は福建に入港できずに帰国した。〔二一-〇六〕および後注(2)(3)(4)参照。
(1)田時盛 生没年不詳。同行した人の家譜には安次峯通事親雲上(注(2))、安次嶺通事親雲上(注(3))、安室通事親雲上(注(4))とある。
(2)馬知記 不詳。長浜親雲上宗重(一六一三-八二年)か。唐名梅有蕡(那覇梅氏〈長浜家〉三世)、童名は真密津喜。順治十一年に才府として田時盛らと共に福建に赴き「於梅花口逢漁船、聞海賊周氏連兵船伍十艘、侵入閩安鎮作乱、故不得通内湊、従漁船取承証拠之墨、従外山五月中旬帰国」(『家譜(四)』四〇八頁)した。馬知記は真密津喜の異字表記の可能性がある。
(3)阮起凰 久米村阮氏(𤘩宮城家)三世に阮起鳳(一六二八-九五年)があり、その家譜に「順治十一年甲午四月初一日、為接回慶賀事、奉使為存留通事、同都通事田時盛安次嶺通事親雲上赴閩、其時海賊侵閩港口、不能通内港、故従閩安鎮□梅花回樟、次年乙未再赴閩到外山東湧、其時海賊辺乱未息、不能進入閩省、自東湧回棹」(『家譜(二)』一五六頁)とあり、同一人と思われる。
(4)陳結華 家譜にはこの時の記事として「海寇侵入閩安鎮作乱、故不得吊進、自外山回国」とある(『家譜(二)』四九一頁)。
琉球国中山王世子尚(質)、接回、慶賀の事の為にす。
差遣する官員の姓名は後に開す。
都通事一員 田時盛
使者二員 馬知記 林栄
通事一員 阮起凰
管船火長・直庫二名 陳結華 游那
順治十一年(一六五四)四月初一日
注*この船は福建に入港できずに帰国した。〔二一-〇六〕および後注(2)(3)(4)参照。
(1)田時盛 生没年不詳。同行した人の家譜には安次峯通事親雲上(注(2))、安次嶺通事親雲上(注(3))、安室通事親雲上(注(4))とある。
(2)馬知記 不詳。長浜親雲上宗重(一六一三-八二年)か。唐名梅有蕡(那覇梅氏〈長浜家〉三世)、童名は真密津喜。順治十一年に才府として田時盛らと共に福建に赴き「於梅花口逢漁船、聞海賊周氏連兵船伍十艘、侵入閩安鎮作乱、故不得通内湊、従漁船取承証拠之墨、従外山五月中旬帰国」(『家譜(四)』四〇八頁)した。馬知記は真密津喜の異字表記の可能性がある。
(3)阮起凰 久米村阮氏(𤘩宮城家)三世に阮起鳳(一六二八-九五年)があり、その家譜に「順治十一年甲午四月初一日、為接回慶賀事、奉使為存留通事、同都通事田時盛安次嶺通事親雲上赴閩、其時海賊侵閩港口、不能通内港、故従閩安鎮□梅花回樟、次年乙未再赴閩到外山東湧、其時海賊辺乱未息、不能進入閩省、自東湧回棹」(『家譜(二)』一五六頁)とあり、同一人と思われる。
(4)陳結華 家譜にはこの時の記事として「海寇侵入閩安鎮作乱、故不得吊進、自外山回国」とある(『家譜(二)』四九一頁)。