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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-31-19 世子尚永の、冊封の勅書を迎接するため正議大夫梁燦等を遣わす執照(一五七八、四、一四)
琉球国中山王世子尚永、勅書を迎接す等の事の為にす。
近ごろ長史梁燦等を差わして齎しむるは、執結して請封する事の為なり。奏聞するに、已に、欽差の給事中・行人等の官の海船に坐駕し国に到りて封建せしむ等の因あるを蒙る。理として合に上年の封建の事例に照依すべし。今、特に正議大夫梁燦、使者翁寄松、都通事紅紋綬・鄭礼等を差わし、本国の小船一隻に坐駕し、夷梢を率領し、福建の処所に前去し、詔勅等の書を迎接して船隻を導引し、国に到らしむ。途に在りて事に悞れて便ならざるを得しむる毋れ。王府、除外に今、宙字十七号半印勘合執照を給付して都通事鄭礼等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正議大夫一員 梁燦
使者二員 翁寄松 芓思正
都通事一員 鄭礼
人伴二十名
管船直庫一名 邁達尼
梢水共に七十四名
天使の船隻を導駕する都通事一員 紅紋綬
冠帯舎人 一員 林世茂
看針舎人 一名 紅鸞
人伴五名 従人二名
風勢を慣知する夷梢二十名
万暦六年(一五七八)四月十四日
右の執照は正議大夫梁燦・都通事鄭礼等に付し、此れに准ぜしむ
天使を迎接する/事の為にす 執照
注*本文書に関わる冊封使、蕭崇業・謝杰には『使琉球録』(台湾学生書局、一九六九年)の編著がある。
(1)欽差の給事中…等の因あるを蒙る 戸科左給事中蕭崇業・行人司行人謝杰が冊封使に任じられた。『明実録』万暦四年七月丁酉・八月甲申の条に関連の記事がある。
(2)梁燦 蕭崇業『使琉球録』によると、万暦六年には順風がなく、翌年まで福建にとどまり、七年五月に封船と共に出発した。
(3)翁寄松 城間親方盛久。一五四二-一六一二年。首里翁氏(永山家)二世(『家譜(三)』六五頁)。
琉球国中山王世子尚永、勅書を迎接す等の事の為にす。
近ごろ長史梁燦等を差わして齎しむるは、執結して請封する事の為なり。奏聞するに、已に、欽差の給事中・行人等の官の海船に坐駕し国に到りて封建せしむ等の因あるを蒙る。理として合に上年の封建の事例に照依すべし。今、特に正議大夫梁燦、使者翁寄松、都通事紅紋綬・鄭礼等を差わし、本国の小船一隻に坐駕し、夷梢を率領し、福建の処所に前去し、詔勅等の書を迎接して船隻を導引し、国に到らしむ。途に在りて事に悞れて便ならざるを得しむる毋れ。王府、除外に今、宙字十七号半印勘合執照を給付して都通事鄭礼等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津把隘の去処及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因って遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の執照は須らく出給に至るべき者なり。
今開す
正議大夫一員 梁燦
使者二員 翁寄松 芓思正
都通事一員 鄭礼
人伴二十名
管船直庫一名 邁達尼
梢水共に七十四名
天使の船隻を導駕する都通事一員 紅紋綬
冠帯舎人 一員 林世茂
看針舎人 一名 紅鸞
人伴五名 従人二名
風勢を慣知する夷梢二十名
万暦六年(一五七八)四月十四日
右の執照は正議大夫梁燦・都通事鄭礼等に付し、此れに准ぜしむ
天使を迎接する/事の為にす 執照
注*本文書に関わる冊封使、蕭崇業・謝杰には『使琉球録』(台湾学生書局、一九六九年)の編著がある。
(1)欽差の給事中…等の因あるを蒙る 戸科左給事中蕭崇業・行人司行人謝杰が冊封使に任じられた。『明実録』万暦四年七月丁酉・八月甲申の条に関連の記事がある。
(2)梁燦 蕭崇業『使琉球録』によると、万暦六年には順風がなく、翌年まで福建にとどまり、七年五月に封船と共に出発した。
(3)翁寄松 城間親方盛久。一五四二-一六一二年。首里翁氏(永山家)二世(『家譜(三)』六五頁)。