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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-27-08 世子尚貞の、進貢のため耳目官呉美徳等を遣わす符文(一六七二、一〇、一五)
琉球国中山王世子尚(貞)、進貢の事の為にす。
旨の二年一貢を奉じ、欽遵せるは案に在り。査照するに、康煕十一年(一六七二)は歳、貢期に当れば敢えて愆越せず。此の為に今、耳目官・正議大夫・都通事・使者等の官の呉美徳・蔡彬・程泰祚等を遣わし、表・咨を齎捧して前来し進貢せしむ。
因りて海船二隻を備えて水梢を率領するに、毎船に均幇する上下の員役は共に二百人の数に盈たず。煎熟硫黄一万二千六百斤・馬十匹・海螺殻三千個、正貢の外に特に加えたる紅銅一千斤・大水火炉二個・糸煙二百匣を載運し、福建等処承宣布政使司に前赴して投逓し、起送して京に赴く。
拠りて差去する員役は、並びに文憑無くば誠に所在の官軍の阻留して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。此の為に王府、今、義字第二十号半印勘合符文を給して都通事程泰祚等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
耳目官一員 呉美徳 人伴十二名
正議大夫一員 蔡彬 人伴十二名
都通事一員 程泰祚 人伴五名
在船都通事一員 孫自昌 人伴四名
在船使者四員 昌威 李功銘 胡士彦 馬立功 人伴十六名
在船通事一員 紅自彩 人伴三名
留辺通事一員 王可法 人伴四名
管船火長・直庫四名 林茂豊 王可就 長可喜 内穆
康煕十一年(一六七二)十月十五日給す
右の符文は都通事程泰祚等に付し、此れに准ぜしむ
符文
注*この進貢については『清実録』康煕十三年二月庚申の条に記事がある。なお、この進貢船は、十二年三月に那覇を出発し、竿塘地方(馬祖列島)で賊船十余隻の攻撃を受けて、死者数人、負傷者二十余人を出したが、閩安鎮の官船の援護を得て福州に到着した(〔一〇-〇四〕。『家譜(二)』二六一頁、蔡彬・五四三頁、程泰祚・八五九頁、林茂豊)。『通航一覧』巻二二には、この賊は鄭経の配下で、襲われたのは大船のみで、小船は閩安鎮に安着したとある。なお情況の記述には史料により若干の相違がある。
(1)程泰祚 呉美徳らと共に京に赴き、帰国のため十三年三月に北京を発ち五月に蘇州に着いたが、三藩の乱のためにここに滞留中、十四年に死去した。巡撫以下の地方官の義捐金により、埋葬され碑が建てられた(『家譜(二)』五四三頁)。
(2)在船使者 この時の執照〔三四-一八〕〔三四-一九〕と人名や人伴の人数が一部異なっている。
(3)林茂豊 一六四六-一七二三年。中議大夫。久米村林氏(平安座家)二世(『家譜(二)』八五九頁)。
(4)長可喜 執照〔三四-一九〕では黄可喜。
琉球国中山王世子尚(貞)、進貢の事の為にす。
旨の二年一貢を奉じ、欽遵せるは案に在り。査照するに、康煕十一年(一六七二)は歳、貢期に当れば敢えて愆越せず。此の為に今、耳目官・正議大夫・都通事・使者等の官の呉美徳・蔡彬・程泰祚等を遣わし、表・咨を齎捧して前来し進貢せしむ。
因りて海船二隻を備えて水梢を率領するに、毎船に均幇する上下の員役は共に二百人の数に盈たず。煎熟硫黄一万二千六百斤・馬十匹・海螺殻三千個、正貢の外に特に加えたる紅銅一千斤・大水火炉二個・糸煙二百匣を載運し、福建等処承宣布政使司に前赴して投逓し、起送して京に赴く。
拠りて差去する員役は、並びに文憑無くば誠に所在の官軍の阻留して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。此の為に王府、今、義字第二十号半印勘合符文を給して都通事程泰祚等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
耳目官一員 呉美徳 人伴十二名
正議大夫一員 蔡彬 人伴十二名
都通事一員 程泰祚 人伴五名
在船都通事一員 孫自昌 人伴四名
在船使者四員 昌威 李功銘 胡士彦 馬立功 人伴十六名
在船通事一員 紅自彩 人伴三名
留辺通事一員 王可法 人伴四名
管船火長・直庫四名 林茂豊 王可就 長可喜 内穆
康煕十一年(一六七二)十月十五日給す
右の符文は都通事程泰祚等に付し、此れに准ぜしむ
符文
注*この進貢については『清実録』康煕十三年二月庚申の条に記事がある。なお、この進貢船は、十二年三月に那覇を出発し、竿塘地方(馬祖列島)で賊船十余隻の攻撃を受けて、死者数人、負傷者二十余人を出したが、閩安鎮の官船の援護を得て福州に到着した(〔一〇-〇四〕。『家譜(二)』二六一頁、蔡彬・五四三頁、程泰祚・八五九頁、林茂豊)。『通航一覧』巻二二には、この賊は鄭経の配下で、襲われたのは大船のみで、小船は閩安鎮に安着したとある。なお情況の記述には史料により若干の相違がある。
(1)程泰祚 呉美徳らと共に京に赴き、帰国のため十三年三月に北京を発ち五月に蘇州に着いたが、三藩の乱のためにここに滞留中、十四年に死去した。巡撫以下の地方官の義捐金により、埋葬され碑が建てられた(『家譜(二)』五四三頁)。
(2)在船使者 この時の執照〔三四-一八〕〔三四-一九〕と人名や人伴の人数が一部異なっている。
(3)林茂豊 一六四六-一七二三年。中議大夫。久米村林氏(平安座家)二世(『家譜(二)』八五九頁)。
(4)長可喜 執照〔三四-一九〕では黄可喜。