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資料詳細
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-27-03 国王尚質の、皇帝即位の慶賀のため王舅英常春等を遣わす符文(一六六四、二、一五)
琉球国中山王尚質、登極を慶賀する事の為にす。
今、特に王舅・正議大夫・使者・通事等の官の英常春・林有才等を遣わし、表文を齎捧して海船一隻に坐駕し、任土の方物の金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・金缶一対共に重さ六十六両六銭八分・銀缶一対共に重さ五十両六銭・細嫩土蕉布一百匹・漂白土苧布一百匹・金彩画帷屛一対・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅花一百斤・胡椒二百斤・蘇木一千斤を装載し、皇帝陛下に進奉せしむ。復た金粉匣一対共に重さ七両四銭六分・銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・平面金扇二十把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十匹・漂白土苧布二十匹有りて中宮殿下に進奉す。
差去する員役は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。義字六号半印勘合符文を給して本員役に付し、収執して前去せしむ。如し関津把隘の去処及び沿途の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
王舅一員 英常春 人伴二十名
正議大夫一員 林有才 人伴九名
在船使者一員 都良資 人伴五名
在船都通事一員 林士奇 人伴五名
存留在駅通事一員 紅少輝 人伴五名
王舅通事一員 梁応魁 人伴一名
管船火長二名 陳少華 游那吉
右の符文は正議大夫林有才等に付し、此れに准ぜしむ
康煕三年(一六六四)二月十五日給す
符文
注*この進貢については『清実録』康煕四年九月癸巳の条に記事があるが、英常春が英長春となっている。なお、この慶賀船は閩江口で邁難し、献上品の金缶の紛失などの事件が起こった。〔〇九-〇八〕参照。
(1)在船使者 『歴代宝案』第一集では清の康煕三年以降の符文・執照に記載がみられる。進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する使者を、同行の赴京する使者と区別するための呼称。接回や探問など赴京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられ、一船に二人乗船し、各人が四人の人伴を持つことが多い。『家譜』には、筆頭の在船使者を才府、二位のものを官舎と記すことが多い。なお存留在船使者(〔二五-一八〕注(2))を参照。
(2)都良資 不詳。那覇祖氏(小谷家)五世、安里親雲上良資(一六一九-七九年)か。杜氏から祖氏に婿養子に入り、康煕三年に才府として英常春らと共に慶賀に赴いた(『家譜(四)』三四〇頁)とあり、都良資と同一人の可能性がある。家譜には北谷・恵祖事件に関わる詳細な記述がある。
(3)在船都通事 『歴代宝案』第一集では康煕三年以降の符文・執照に記載がみられる。進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する都通事を、同行の赴京する都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。初期には多くの場合、一回の進貢に在船都通事一人、在船通事一人が任じられ、それぞれ別船に乗るが、頭号船か二号船かは特定せず、都通事の人伴の数も三人ないし五人と不定であった。
康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任じられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。人伴の数は在船都通事・在船通事ともに四人となった。なお存留在船通事(〔二五-一七〕注(2))を参照。
(4)紅少輝 この時の執照〔三四-〇九〕では紅彩輝。
(5)管船火長二名 管船火長・直庫二名の誤りであろう。
(6)陳少華 一六四三-七一年。平良通事。久米村陳氏(仲本家)十世(『家譜(二)』四九二頁)。
琉球国中山王尚質、登極を慶賀する事の為にす。
今、特に王舅・正議大夫・使者・通事等の官の英常春・林有才等を遣わし、表文を齎捧して海船一隻に坐駕し、任土の方物の金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・金缶一対共に重さ六十六両六銭八分・銀缶一対共に重さ五十両六銭・細嫩土蕉布一百匹・漂白土苧布一百匹・金彩画帷屛一対・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅花一百斤・胡椒二百斤・蘇木一千斤を装載し、皇帝陛下に進奉せしむ。復た金粉匣一対共に重さ七両四銭六分・銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・平面金扇二十把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十匹・漂白土苧布二十匹有りて中宮殿下に進奉す。
差去する員役は、別に文憑無くば誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。義字六号半印勘合符文を給して本員役に付し、収執して前去せしむ。如し関津把隘の去処及び沿途の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
王舅一員 英常春 人伴二十名
正議大夫一員 林有才 人伴九名
在船使者一員 都良資 人伴五名
在船都通事一員 林士奇 人伴五名
存留在駅通事一員 紅少輝 人伴五名
王舅通事一員 梁応魁 人伴一名
管船火長二名 陳少華 游那吉
右の符文は正議大夫林有才等に付し、此れに准ぜしむ
康煕三年(一六六四)二月十五日給す
符文
注*この進貢については『清実録』康煕四年九月癸巳の条に記事があるが、英常春が英長春となっている。なお、この慶賀船は閩江口で邁難し、献上品の金缶の紛失などの事件が起こった。〔〇九-〇八〕参照。
(1)在船使者 『歴代宝案』第一集では清の康煕三年以降の符文・執照に記載がみられる。進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する使者を、同行の赴京する使者と区別するための呼称。接回や探問など赴京要員のない渡航では、船と共に帰る使者も単に使者と呼ぶ。首里・那覇系の人が任じられ、一船に二人乗船し、各人が四人の人伴を持つことが多い。『家譜』には、筆頭の在船使者を才府、二位のものを官舎と記すことが多い。なお存留在船使者(〔二五-一八〕注(2))を参照。
(2)都良資 不詳。那覇祖氏(小谷家)五世、安里親雲上良資(一六一九-七九年)か。杜氏から祖氏に婿養子に入り、康煕三年に才府として英常春らと共に慶賀に赴いた(『家譜(四)』三四〇頁)とあり、都良資と同一人の可能性がある。家譜には北谷・恵祖事件に関わる詳細な記述がある。
(3)在船都通事 『歴代宝案』第一集では康煕三年以降の符文・執照に記載がみられる。進貢船で福建に渡り、赴京せず、その船で帰国する都通事を、同行の赴京する都通事と区別するための呼称。接回などの赴京要員のない渡航では、船と共に帰る都通事も単に都通事と呼ぶ。久米村系の人を任ずる。初期には多くの場合、一回の進貢に在船都通事一人、在船通事一人が任じられ、それぞれ別船に乗るが、頭号船か二号船かは特定せず、都通事の人伴の数も三人ないし五人と不定であった。
康煕十九年頃から、一回の進貢に在船都通事二人、在船通事一人が任じられ、頭号船には在船都通事一人が存留通事一人と共に、二号船には在船都通事・在船通事各一人が乗船するという形にほぼ定着した。人伴の数は在船都通事・在船通事ともに四人となった。なお存留在船通事(〔二五-一七〕注(2))を参照。
(4)紅少輝 この時の執照〔三四-〇九〕では紅彩輝。
(5)管船火長二名 管船火長・直庫二名の誤りであろう。
(6)陳少華 一六四三-七一年。平良通事。久米村陳氏(仲本家)十世(『家譜(二)』四九二頁)。